[未校訂] 嘉永七年(一八五四)十一月四日五ツ半時(午前八時)、
松本城下を地震が襲った。中町新小路下丁へかけて新小路
両がわをはじめ、南角から神明小路西南角まで潰れ(飯沼
福太郎家文書)、新小路蔦屋利七方から失火、新小路・一ツ
橋の両小路を焼失し、中町裏小路を半分ほど焼き、火は九
ツ半時(午後一時ころ)ようやく鎮静した(『三郷村史』Ⅰ)。
この火事で数人の死者がでた。松本藩はこの日表家・裏家
の区別なく、潰家・焼失家に一軒に金一分・白米二俵・炭
五俵あてを支給する救済措置をとった(同前)。べつの史料
には、一軒に白米四斗・金二分・炭三俵支給したとある(横
内秀雄家文書)。余震は表125のようにつづいた。十一月九日
は夜四ツ時(午後一〇時)地震があり、九ツ時博労町大火
で西がわ一七軒・東がわ二〇軒・長屋まであわせると七〇
軒ほど焼失する被害であった(小林啓之助家文書)。
湯原村(里山辺)の小林十三郎は、暮れの肴類は、「ぶり
一四掛・きじ二十五掛、白米九斗、酒一升百二十八文」で
すべて高値、この年を、「地震につき諸国一統金銭誠に相つ
まり申候」と結んでいる(同前)。