[未校訂]第六節 地震による災害
一 地震災害の概要
更埴近辺の地震
近世に発生した主なる地震とその被害の
うち更埴近辺にかかわるものを左に上げ
る。(省略)
二 弘化四年の大地震
善光寺地震おきる
弘化四年(一八四七)三月二十四日
(太陽暦五月八日
)夜四ツごろ午後十時
信濃から越後に
わたって起きた大地震は世に善光寺地震と呼ばれ、日本
の大地震中最も著名なものの一つである。その震動はマ
グニチュード七・四、震度七以上という激震で日本中に
伝わった大地震であった。
当時の様子を書いた河原綱徳(一七九二~一八六八
)の「虫倉日
記」には、「御領(松代藩領)の西山中虫倉山岳(長野市信更町山平
林虚空蔵山標高七六四メートル
)第一に強く、それより地脈続きたる方に震
い行き、善光寺、飯山辺は特に強く、末は越後にまでお
よぶ。当所の方(松代町)は近辺なれども善光寺、飯山
よりははるかに軽く」とある。
また小野秀雄著『風俗文化双書1かわら版物語』には、
「弘化四年三月二十四日夜四ツ時一大震動と共に家屋ほ
とんどてんぷく、直ちに火災起こり、二十五日朝までに
震動八〇余回、大地さけて泥砂をふき、焼死・圧死数知
れずといわれた。二~三日でやや平静になったところ、
二十九日また大震動に見舞われ、前回に倒壊を免れた家
屋もことごとくてんぷくした。そればかりでなく所々に
山崩れがあった。ことに虚空蔵山(一名岩倉山
)の崩壊土砂は
犀川の水流をさえぎり、上流は浸水、下流は水枯れとな
ったが云々」(以下略)と記されている。
この記述でもわかるように被害が特に大きかったとこ
ろは、稲荷山から善光寺、飯山に至る千曲川左岸の村々
と、新町(信州新町)周辺の山間地は地震で震い潰され
た上、火災が起こりほとんどが焼失してしまった。また
新町ほか近辺の村々は犀川の堰止めにより上流は湖水の
ようになり、村のほとんどが水没してしまった。
なおまた川中島平の村々では、犀川の湛水が一時に押
し出すことがあれば、下流は大洪水となり田畑は勿論人
家に大被害をもたらすので山手へ避難するよう松代藩か
らお触れが出された。避難民の様子を「虫倉日記」には
つぎのように記されている。
避難民は、妻女山金比羅宮、岩野、金井山辺へ続々と
逃げて来て、小屋がけをしている。「その数[夥|おびただ]し」とあ
り、公事方(藩の役人)が調べたところ三千人以上との
ことであった。
また「森、倉科、生萱辺へも篠ノ井、川中島の人々が
大勢避難してきて、少しの知人、縁者をたより、急難を
凌いでいる。しかし食糧も不足の上に、地震は絶えず寄
り続き、家のなかにいることもできないで庭先や空地に
小屋がけして暮しているので大変難儀をしている」と、
森村の中条唯七郎の「地震大変録」に記されている。
岩倉山の崩落によって堰止められた犀川の湛水は日を
追って水かさを増し、水深六〇メートルを越し新町村ほ
か沿岸二一ヵ村が水没する前代未聞の惨事となった。
これとは逆に下流の丹波島辺は全く水がなく、足のく
るぶしぐらいで、犀川を歩いて渡れるという状態であっ
た。しかしとうとう湛水をもちこたえることができなく
なり四月十三日七ツ時ころ(午後四時
)大音響と共に堰堤が
決壊した。大洪水を予測して松代藩では、小市、小松原
に洪水を防ぐために築堤の大普請を大勢の人足を徴発し
て昼夜兼行で行ったが、一時に押し出た水は、堤防をい
っきに押し切り、川中島一円は大洪水となった。この大
水は更に千曲川へも押し出し、犀川、千曲川沿岸の村々
は家を流し耕地を失うという大災害をこうむった。
地震で家々潰れ後火災
弘化の大地震は震度七以上といわれる激
震とのことなので、現在の震度階表によ
ると、「家屋の倒壊三〇%以上におよび山くずれ地割れ、
断層などが生ずる」とされている。「虫倉日記」に「さて
追い追いの注進によれば、町方多分の潰家あり、死者も
多かりぬべく、また家に埋れて泣き叫ぶも多し」とあり、
更に「土手に出て打ながむるに、西山手より北山手まで
七ヵ所程猛火盛んにみえたり。このうち北の方善光寺な
るべしと覚しき辺と、清野山を越えて稲荷山の辺なるべ
しとみゆる。火は取り分けて場広く猛かりし。その他は
暁方までには追々消失し(中略)地震は止むことなく震
い続けて、夜明けまでに二〇〇度にもおよびたるべし。
二十五日朝より打重ねて強く震いて止まず、(中略)善光
寺の火煙はますます盛んにして、一口は三町の方へ一口
は後町の方へ焼け行くさまなり」と余震がひっきりなし
に続くなか、火事は猛烈な勢いで燃え続けているさまが
わかる。そして善光寺の火災が消えたのは二日二晩燃え
続け二十六日の夜になってである。
また『信州新町史』によれば「新町は山中稀なる繁華
の市場にて人家五百軒余の処、皆潰れの上焼失いたし」
と記されている。更に『飯山城下異変書上』によれば「御
家中ならびに御城下町地震潰れの上、出火にて半丁程家
残り、その余は焼失、死失三百人程これあり」とある。
このように善光寺、飯山、新町、稲荷山は地震によっ
て町の大部分が潰れた上に、大火事となり家屋が焼失し
てしまった。
洪水の被害
三月二十四日夜の大地震で多くの山崩れ
が発生したそのなかで最も大きな崩落が
岩倉山である。
この大崩落の土砂が犀川へ押し込み堰止めてしまっ
た。『虫倉日記』による堰止堤の大きさをメートルに換算
して図面に示した犀川湛水の大きさは、図6―7・8の
ようになる(「岩倉山崩れ」高橋和太郎作成
)。
この図でわかるように犀川の河床からの高さが約六五
㍍、川の流れの方向に底幅約一〇〇〇㍍、上端の幅が約
二〇㍍、堰止堤の横の長さ(岩倉部落から花倉部落まで)
が約六五〇㍍に及んだと考えられる。この土石が決壊し
て一時に押し出したときの水深は約六〇㍍であった。犀
川の大量の湛水によって上流三十数㌖まで湖水のよう
になり、水没部落は三一部落に及び約六〇〇戸が水没し
図6―7 岩倉山崩落説明図
図6―8 犀川堰止土砂堤断面説明図
この断面は「虫倉日記」の記載による尺度をメートルに直したものである。
雑誌「長野」高橋和太郎作成
たと推定される。
このような大量の水が堰堤を決壊して一時に下流へ押
し出したならば、川中島平をはじめ下流の村々は大被害
をうけることは明らかである。この被害を最少限に防ぐ
ために、松代藩では領民に避難の触れを出したのである。
森村の中条唯七郎の「徒然日記附地震大変録」による
と、
川中島へは、お触れこれあり何れにも山方へ引取り候
様にこれありとて、妻女山へ必至と皆引き取り候て、
いささかのあき地これ無き趣、近右衛門見来り候とて
話し聞かす二十六日の話なり(中略)二十五日以来、
森、倉料、生萱、惣じて山峯村へ(山間の森)川中島
は勿論、河辺通り村(犀川近くの村の人々が)有縁、
無縁の差別をわかたず、たどり来たって乞い縋り仮住
居を乞うこと夥し、その乞わるる人別方(人々)にも
本宅住居はなり難く、昼夜蚕かごにてそこばかりつく
ろい居候ところへ、また他より来る事薮から棒の無理
無心なり
この記録でわかるように川中島平の村人は大洪水を予
測して、山手の方へ全員避難する事態となったのである。
岩倉山の大崩落後の一九日目ごろから堰止められた各
所から水もれが始まり、これが次第に大きくなり、四月
十三日七ツ時(午後四時
)ごろ大音響と共に一時に水を押し
出し、その激流で川中島平数十ヵ村一円が大洪水となっ
た。一方、小山(長野市安茂里
)・小松原(同市共和
)に急難よけに作
られた堤防はたちまち押し破られ、この濁流は篠ノ井、
御弊川から横田へ押し込み、さらに千曲川に流れこみ千
曲川の水位は平常より六㍍も増水したという。
犀川湛水の決壊により「四ツ屋村(川中島町四ツ屋)
では四軒残っただけであとは全部流失した、また川中島
川北、川東の村々は流失家屋が夥しく、高井、水内両郡
の川ぞいの村々も大洪水となり、居家流失、水冠に相成
り、一統途方に暮れ、ぼう然自失のありさまである」
(『虫倉日記』
)と江戸表へ報告している。
松代藩領内の地震の被害
地震の被害については、前述したので
ここでは松代藩が領内の被害の状況を
七月九日付にて幕府御用番牧野備前守へ差し出した届書
の概要を左に掲げる(城内、城下町分は除く)(同前
)。
被害内容 被害総計
一 本新田(田畑共) 七一六四五石
一 用水堰抜崩大破 一四六ヵ所
一 山崩大小 四一〇五一ヵ所
一 往来道筋地裂抜崩流破 一六四七一一間
一 橋大小落損流失等 三七三ヵ所
一 犀川・千曲川筋国役普請所土堤流失
延長二九四七間
一 居家潰 九三三七軒
地震にて潰六、三二三軒 山抜土中へ埋三〇〇軒
洪水にて潰六二四軒 外流失
一 居家半潰 二八〇二軒
一 同大破 三一二〇軒
一 同石砂泥入(洪水にて) 二五〇七軒
一 土蔵潰半潰、大破 二四四九軒
一 物置潰半潰 七〇九二軒
一 社倉潰半潰 一二四棟
一 神社・寺院潰大破 一一二四ヵ所
一 圧死流死 二五八五人
内
男 一二二八人
一〇二七人 圧死者
一九五人 土中へ埋死
六人 流死
女 一三四五人
一一二七人 圧死者
二〇二人 土中へ埋死
一六人 流死
一 社人・僧圧死流死 一二人
一 怪我人 二二六二人
一 牛馬死 二六七匹
右の通りに御座候 もっとも地震の儀は領内一統の儀
に御座候えども、居家は勿論土蔵物置に至るまで、小
破これなき分は更に御座なく候、損亡高の儀は収納の
上申し上ぐべく候 この段御届申上げ候
以上
七月九日 真田信濃守幸貫
この届けによってわかるように、地震、火災、洪水と
重なった被害は言語に絶するものである。松代領内一五
一ヵ村におよぶ田畑の損亡は収穫してみなければ何とも
見当がつかないと言っている。また洪水による被害の村
は八〇ヵ村と記されており、全く前代未聞の大災害であ
った。
ここで最も大きな被害をこうむった善光寺領について
ふれておく。
松代藩の四月一日付の幕府への報告によれば
善光寺は地震により潰れの上所々より出火し、本堂、
山門のほかは全部焼失、死者殊に夥しい。ただいま家
来を差出して米や銭を配り人足を出したりして当座の
援助をしている(中略)(「虫倉日記」
)
とあり、続いて五月十日までの取調べの結果を報告し
た史料によると、
一 町家 二三五〇軒潰 内二一九四軒焼失
一 寺中並本願上人・大勧進家来 一三八人死失
内僧一五人 男五四人 女六九人
一 町家死失 二四八一人
内 男一〇一〇人 女一四七一人
一 旅人死失 凡二〇〇〇人余
但 寺や宿坊に止宿の旅人は生死をはっきりつかむ
ことができない(善光寺大地震図会松代藩主報告第八
)
と報告されている。善光寺は三月十日から四月三十日
まではご開帳の最中であったので全国から善男善女が大
勢参詣に訪れていた。当日は旅篭、宿坊は泊まり客でい
っぱいであった。そこへこの大地震が発生し、火災とな
ったので多数の圧死、焼死者が出たのである。
松代藩領全体で死者が二五八五人であるのに善光寺領
の町家だけで二四八一人の死者が出、旅人が二〇〇〇人
余も死んでいるところをみても、善光寺地震の被害の大
きかったことがわかる。
松代藩では、地震の応急対策として、幕府より一万両
借金(拝借金)をして、用水路、道路橋梁の復旧工事お
よび川普請に当てると共に被災者の救済の費用にあて
た。難民救済の内容はつぎのようである。
一 居家押埋、潰、焼失、流失押潰
半分流失、半潰の上焼失の者へ
金三分ずつ
一 水押潰 金二分二朱
一 水災半潰 土蔵流失 金二分
一 居家水入屋根焼失 金二分
一 半潰、数日水入、浮上土台違 金一分
御手充の総額は金一万三四二〇両と米七一五五俵およ
び炊出し賄一二万六八三六賄と「御台所勘定帳」(『虫倉日記』
)
に記されている。松代藩としても百姓、町人の民心を安
定させるために莫大な援助をしたのである。
地震止むことなく続く
三月二十四日夜の大地震後「余震が止む
ことなく続き、二十五日の明け方までに
大小の地震二〇〇度におよんだ。なおその後も震い続け
四月半ば過ぎても一〇〇度を越さない日はなかった」と
「虫倉日記」に記されているが、正確なことはわからな
い。ここに松代藩調査による地震回数をあげておく。
森村の中条唯七郎の「徒然日記附地震大変録」には三
月二十四日夜の大地震発生以来、十二月末日まで毎日欠
かさず地震のようすを記録している。その記録をまとめ
てつぎに掲げた。表6―13によってわかるように二十四
日以後大小の地震は間断なく続き「人々昼夜安堵これな
くこの騒乱変事前代未聞の事なり」とあり更に「地震相
かわらず、絶えずより続け候て船中にあるが心地なり、
ドヲンドヲンと鉄砲の如き音繁くなり、生きてありなが
ら生きた心地更になし」と地震の凄まじさをありありと
書き記している。
毎日のように続く地震によって、居家や土蔵物置など
の潰れや大破はますます増加し、大破小破しない建物は
全くないという状態になったのである。
地震の回数は九月ごろから少なくなり十二月の暮ごろ
には小康状態になってくるが、弘化五年になっても時々
地震は続いていた。昭和四十年からの松代群発地震によ
く似た地震のように思われる。
6―12 1ヵ月間の地震回数(弘化4年)
月・日
3 24
25
26
27
28
29
30
4 1
2
3
4
5
6
7
8
9
回数
39
69
56
80
82
86
39
39
57
23
29
28
37
16
36
21
月・日
4 10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
合計31(日間)
回数
16
13
25
7
14
12
17
3
13
20
5
8
14
13
正午まで
7
924
平均1日約
30
『松代町史』より作成
弘化4年「徒然日記附地震大変録」の一部(森 中条聖命所蔵)
表6―13 弘化4年3月24日より弘化5年12月までの地震の状況
月・日
3・24
3・25
3・26
3・27
3・29
4・2
4・6
4・13
4・16
4・24
5・中
6・中
7・14
7・18
7・30
8・中
9・22
11・1
12・5
12・15
弘化5年
2・28
4・17
7・3
10・24
12・6
地震の状況
夜四ッ頃(午後10時)大地震起きる、地
震間断なく続く、みな庭に出て終夜すご
す、舟に乗ったような心地.
地震絶えず続く、船中にある心地庭にね
こ敷き居る、蚕かごにて小屋がけする.
八ッ時と七ッ時に大地震あり.
地震絶え間なく続く.
明け方大地震あり、時々刻々ドヲンドヲ
ンと鳴動続く、生きた心地なし.
地中全体を震うように絶えず震い続く.
大きな地震3度あり、ドヲンドヲンと鉄
砲の音のように鳴動続く.
大きな地震2度あり、こよりは多くあり.
朝からドヲンドヲンと鳴り、終日震動続
く.
大地震1度あり、鳴動と共に震動続く.
大きな地震16度 弱震102度 微震毎日.
大きな地震13度 弱震67度 微震毎日.
八ッ頃地震2度、その後続いて3度あり.
四ッ、九ッ時に各1度暮六ッ頃2度
五ッ頃1度、夜に入り大きな地震あり.
朝から地震続く 大震1度 弱震7度.
大きな地震2度 弱震92度あり.
8月22日には大小の地震13度あり人々寝
られず.
昼夜地震なし、3月24日以来はじめて、
これ以後も日に2~3度の弱震続く.
昼前に弱震1度 夜に入り8度もあり、
大騒ぎとなる.
1日中地震なし.
弱震1度 夜には地震なし.
(この史料は稲荷山 松林佶所蔵による)
夜六ッ半時大きな地震あり.
九ッ時 中震あり.
七ッ時大あり.
夜五ッ頃 中震あり.
夜五ッ頃 中震2度あり.
その他
稲荷山宿潰れの上火災、焼失、岩倉
山崩落犀川堰止める.
善光寺町地震にて潰れ、火災続く.
善光寺の火ようやく消える.
篠ノ井川中島の村の人々森、倉科、
生萱へ避難してくる.
妻女山は避難民でいっぱい.
新町は犀川湛水で海のよう、家屋水
没.
矢代村一重山にて祈禱執行、燈明万
燈のよう.
犀川満水欠壊、川中島平ほか大洪水.
川中島避難民帰村する.
地震発生後1ヵ月大小の地震止まず.
5、6の2ヵ月間大小の地震続く.
被害広がる.
この夜はじめて地震なし.
余震は止む気配なし.
森の水源がみな止まる、前代未聞なり.
このころより地震がだんだん減少する.
3月24日~12月15日の晩までに地震
の感じない日は4日間だけ(史料に
なしとある日).
弘化5年も引き続いて大小の地震あり.
中条唯七郎「徒然日記附地震大変録」(森中条聖命所蔵)により作成
三 弘化地震の被害と救援
稲荷山宿の被害
稲荷山宿は更埴市域では最も大きな被害
をうけたところである。その被害につい
て、当時稲荷山宿の庄屋であった松林弥五右衛門が書き
残した文書によると、
第一番の火は、本八日町通り西側中程から地震直後に
出火、本八日町西側表十六軒と裏二軒の計一八軒を焼
失した
第二番の火は、荒町表通り西側中程から二十四日夜十
一時頃出火し、荒町中町の表通り両側全部と、柳小路
の一部の計八五軒を焼いて二十五日朝十時頃鎮火した
第三番の火は、本八日町表通り東側南寄りから二十五
日朝七時頃出火、本八日町表通り東側二十二軒、東裏
(今の東町の一部
)一二軒の計三四軒を焼いて二十六日朝鎮火
した
第四番目の火は、上八日町表通りの両側全部と裏通り
全部(極楽寺は残る
)と本八日町の一部および上田町・下田町
の全部計八三軒を焼いて二十六日朝鎮火した
(稲荷山松林佶所蔵
)
とあり、北は荒町の北端から南は上八日町の南端まで
およそ七町におよぶ二二〇軒余が焼失してしまった。
焼失を免れた家は、元町を含めて約六〇軒と土蔵が二
〇棟であった。
松林文書はさらにつぎのように記している。
諸堂残らず震潰し、 長雲守
震潰し 寺小路
同断(同じく) 馬出小路
半潰 極楽寺
震潰し 新田町
半潰 下ノ宮神主
震潰 元町燒死人 載帳者 一七〇人
同断 止宿者 七~八〇人
旅人 一五〇人程
稲荷山宿では、宿の大部分の家屋ほか建造物が地震に
よって倒潰した。つづいて町内の四ヵ所から出火して大
火事となり、二十六日の朝まで燃え続け、町のほとんど
が焼失してしまった。
このときは善光寺の御開帳のさい中で、全国から多数
の善男善女が参詣に訪れていた。稲荷山宿は善光寺まで
の距離からして適当な位置にあるため当夜は、旅人で満
ち溢れていた。推定ではあるが千人くらいは泊まってい
たと思われる。そのうえ稲荷山は商業の町でもあり、遠
近の村々から多くの人が集まるところでもあった。した
がって旅人はもちろん、商人、買出人、奉公人等々、多
くの人々が二十四日の夜は止宿していたことと想像され
る。突然発生した大地震によって、大勢の人々が圧死お
よび焼死するという大惨事となったのである。
龍洞院と極楽寺に弘化四年三月二十四日に焼死または
圧死した人人の過去帳が残されている。龍洞院の過去帳
には、稲荷山宿の死者が男三三人、女四七人計八〇人、
外に篠ノ井の女一人、御弊川の女一人、作見の男一人、
旅人一三人の総数九六人の死亡者が記載され
ている。
極楽寺の過去帳には、男三八人、女五五人
総数九三人の死亡者が載帳されていて、八日
町・中町・荒町・問屋小路・馬出小路・元町・
治田町・柳町・田町などの町名がついている。
また特に目をひくのは、荒町の佐兵衛家では
四人の死者、八日町万治郎家では五人の死者
が記されていて一家全員死亡している家もあ
ったことがわかる。
また旅人が二二人載帳されている。この人
たちは旅篭に止宿していた人たちで、一番多
く亡くなった旅篭は一一人、つぎは五人、つぎは三人と
いう状態であった。旅人の出身地は、伊勢、尾州、名古
屋とあり、関西方面からの旅人が多く止宿していたよう
である。
両寺の過去帳の載帳総数は一八九人であるが、実際の
死亡者はもっと多かったことは前述したとおりである。
龍洞院の墓地に「地震横死群霊」の碑があり、往時をし
のばせる。
稲荷山の地震による惨状について、森村の中条唯七郎
は
龍洞院に建てられている「地震横死群霊」
供養塔(昭和62年11月)
我等、今日(四月五日)八幡宮参詣当年初参りなり、
志川船渡し稲荷山の宿、下はずれ東少し上まで下る、
渡って稲荷山へ入り見渡し候ところ、その焼あとただ
零々として焼瓦のたおれ壁土の焼破れ、その諸道具の
焼損じ物、誠に算を乱したる始末がらなり
何れも二十五日より数えても今五日にて十一日なり然
るにみなそのままにて、焼け乱れしままなり、実に目
もあてられぬ始末なり、左程のことに始末する人もな
く、ただ焼形のままなり、元の姿にいつの世にかなり
申すべく
質屋の穀倉等籾千俵の焼跡なりとて、今にその俵辻の
所小高く煙多く焼け居り候、このたび稲荷山にて一九
六人、旅人三〇〇人小以(合計)焼死人五〇〇人なり
という(森 中条聖命所蔵
)
とあり、地震後一一日も過ぎているのに焼け乱れたま
まで、目もあてられない悲惨なありさまである。「元の姿
にいつの世にかなり申すべく」と述べているのをみても
わかる。また稲荷山の豪農であり、豪商でもある田中友
之丞の穀倉の米がいまだに高く煙をあげてくすぶり続け
ている様子は「虫倉日記」にも「稲荷山米屋囲穀を焼失
せし米俵紫色に焼け至って見事なり、籾は真白にやけて、
角ト石などを打砕きたるもののごとし」とあるのとも一
致する記録である。
何百人とも知れない旅人の遺骸はその後荼毘に付され
村の西北にある湯之崎の墓地に集めて埋葬され、上田藩
が大きな供養塔を建立して厚く犠牲者の冥福を祈ったと
伝えられる。
題字に「弘化丁未地震稲荷山駅横死人冢碑」以下四七
四文字を刻んで震災の説明と哀悼のことばを述べてい
る。末尾を「弘化四年歳次丁未秋七月本藩儒臣加藤勤奉
命撰」と結んでいる(『長野』一二七号「稲荷山。の被害」稲荷山 小林源吾
)
上田藩の稲荷山宿救済
上田藩では、稲荷山の大地震被災者の救
済のために役人を派遣したり、救援物資
を送ったり、救援金を拠出するなどして難民の救済にあ
たった。
稲荷山松木有所蔵の「御救米割渡帳」によると、白米
三九駄(一駄二俵
)・塩一駄・味噌一樽を救援物資として上田
藩より送り届けられ、この米を村役所において困窮者に
分配している。その一部をあげると、
三月三十一日分
大人 三合 十五歳以下 一合五勺
覚
三月三十一日 米渡ス 朔日分
一 米 一升八合 八日町 逸平
一 同 六合 八日町 由右衛門
一 同 一升二合 中町 惣吉
一 同 三升 中町 源左衛門
一 同 三升 荒町 おつま
以下三九名 連記 (略)
人数 〆 三八〇[斗|ばかり]
一 四斗入 一六俵
五斗入 二俵
〆 一八俵
上田藩からの救援米を一日につき大人は三合、十五歳
以下は一合五勺の割合で、三八〇人余りの難民に四月一
日分として一八俵(六石五斗)与えている。
また『上田市史』および『更級郡誌』によると上田藩
よりつぎのような手充を頂戴している。
一 米 一八〇俵 一人ニ付三合宛配分
一 金 三〇〇両 拝借金
一 同 五〇両 死人へ法事料
一 同 二〇両 稲荷山中草鞋代
一 同 二〇両 焼失跡灰片付料
一 同 二〇両 被災者一同へ農具料
以上のような手厚い援助によって、稲荷山宿の
人々は、急難を切り抜け大災難から立ちあがり、
新しい宿場の再建にあたったのである。
八幡村の被害
八幡村の被害について森村の中
条唯七郎の『徒然日記附地震大
変録』には
志川は何ともなく、八幡村入口よりまたより潰
し、それより八幡宮御社頭、神物には何も子細
なく、茶屋向うより寄り潰し、それより八幡、
町形の処皆寄り損じ、材木、かべ土、屋根萱等
弘化4年 善光寺地震稲荷山駅横死人冢家
碑稲荷山湯之崎(昭和62年4月)
積み乱し誠に見るさまもなき始末がらなり
町のうちには、あわれ残りしものとては、雪隠(便所)
ひとつなし、実にこれら奇怪不思儀なり、それより中
村の渡し渡って帰村候が通りの村方に子細何にてもな
し
と書き記されていて、八幡村の被害のさまがよくわか
る。特に被害をうけたところは、八幡宮周辺の町並一帯
である。少し離れた村は割合軽い被害であった。松代藩
が幕府へ提出した八幡神領の被害届によると、
御朱印地 八幡村八幡神領
一 如法堂 潰
一 別当神宮寺本堂・庫裏 半潰
一 神主松田左膳居家、門口長屋物置半潰
一 社僧庫裏一棟・本堂二棟 庫裏 半潰
一 社家居家三軒 半潰
一 同土蔵・物置 五棟潰
一 民家 四〇軒潰 一八軒 半潰
一 同 土蔵・物置 四六棟潰 五棟半潰
一 村民 圧死人 一七人 内 男九人 女八人
一 同 怪我人 一八人 内 男十一人 女七人
右の通りに御座候 この段御届申上候 以上
五月十日 真田信濃守(八代幸貫
)
(『虫倉日記』
)
八幡村にも相当な被害があったが、火災が発生しなか
ったので大難はまぬがれた。しかし民家が四〇軒余り潰
れ、社家、神主方および民家の半潰れは二〇軒余になり、
土蔵、物置などの潰れや半潰れは六〇棟を超える数であ
る。したがって圧死人一七人怪我人一八人と多数いると
ころをみても、稲荷山の地続きなので被害が甚大であっ
たことがわかる。
桑原村の被害
桑原村は稲荷山・八幡村の地続きであ
るが、被害はあまりなかったようであ
る。『桑原村誌』によると、一里山で一人圧死、太田原村
で居家潰四軒、半潰五軒とあり、さらに山抜け山崩れが
少しあった程度と記されているのみである。他には被害
の史料がみあたらない。
矢代村の被害
柿崎多膳が書いた『屋代記』によって
矢代村の被害の状況をみると、
一 居家の潰 一一軒
一 山王宮石の鳥居 潰 一ヵ所
一 荒神社石の鳥居 潰 一ヵ所
一 観音堂 潰 一棟
一 土蔵・物置 潰 一〇棟
一 大破 居家 四軒 土蔵物置 四棟
一 圧死人 男三人 女三人 子ども三人
召使い一人 計一〇人
一 怪我人 五人
このほか大部分の家は破損している。「少しも手入無き
家はまれなり(中略)数日の間時々地震する故、当分の
間板小屋かけ住居す」と記されてところから、矢代村全
体にわたって潰れまたは大破小破の被害があったと思わ
れる。
雨宮・土口・生萱村の被害
中条文書(出前
)につぎのような記事があ
る。「雨宮等も西山包水(犀川の湛水
)のお
それにて唐崎山の方へ小屋がけ控居り候となり、平生は
墓所等をば忌みきらい候が人情なり。然るにこの節はそ
の忌みきらい決してこれ無き事なりという」とあるよう
に雨宮においても犀川の湛水がいっきに押しよせると、
大洪水になることを恐れて唐崎山へ小屋がけして避難す
る人もいたことがわかる。なおまた打ち続く地震によっ
て居家の破損もひどくなり、住居することも危くなった
家もだんだん多くなって唐崎山への避難民も増してきた
ことであろう。
四月十一日の記事に「今日九ツ時(十二時)大よりあ
り、この両日以前雨宮にて土蔵三ツより潰し候と承り候」
とあるように雨宮の被害が広がってきていることがわか
る。
つづいて四月十二日には、「土口村正応寺本堂はこの度
の地震で打ち潰れ候。今十二日の間に二度ばかり大より
あり、夜に入り大より三度そのほかは小よりあり」と書
き記されている。これによって土口村にても地震の被害
が出てきていることがわかる。
生萱村の被害については記録がなくわからないが、一
日に何回となく地震が続いているので、大破・小破の被
害はあったものと思われる。
四月十三日、犀川の湛水が八ツ時(午後二時
)ごろ小松原村
の犀川口をいっきに押し切り、その大水は横田南岸の千
曲川へ押し落し「それより北は、東に満ち流れ滄海の勢」
(中条文書
)とあるように千曲川も大水が出て洪水となった。
その水が雨宮へも押し込んできた。「雨宮等は水、若宮ま
で突き上げ候につき、大いに驚き唐崎山へみなにげのぼ
り候となり。雨宮多蔵女房ちとなども中村(森村中
)久蔵方
へ逃げ来り、今十四日に帰宅候となり」(同前
)とある。
雨宮へも千曲川の大水が押しよせ、洪水を恐れて唐崎
山へ逃げのぼる者もあった。また森村の縁故をたよって
避難する者もいたのである。土口村も水害の多いところ
なので、雨宮以上に被害がありまた近くの山へ避難した
であろう。
森村の被害
森村の地震の状況については、『徒然日記
附地震大変録』(同前
)に克明に記されてい
る。
三月二十四日(太陽暦五月八日
)今日天気よし夜に入り四ツ頃
(午後十時
)大地震あり、中河原病死勇左衛門悴申し候は、そ
の地震以前戌亥(北西)の方より東南の隅へ白き気あ
ると思いしが、そのあと直ちに地震あり、地震翌日ま
で昼夜間断なく、その心地船に乗り候様なり、皆宅中
にこれあることなりかね、皆庭に出候て終夜これあり
候なり
諸方共により潰され候てそのまま爐中より火起りたち
まち火事となつて、諸方に火事これあること、今夕北
の目(方角)あたりより西へかけて、山中辺へ火事村々
にあり、右目あたり東北の隅へかけて、これも火事多
分にこれあり候
と地震発生のようすを記している。地震直前に「白き
気」があったということは事実であろう。昔からいわれ
ている「光りもの」という現象で大地震の際におこる発
光現象である。光の色は柴・赤・橙・青白・白などであ
る。松代郡発地震(一九六五~六七
)の際にもこの発光現象が数
多く発生し、記録に残されている(『地方誌』近世編・下
)。
地震発生後火災が諸々に起こっている北西の方という
は稲荷山宿である。山中辺というは、新町(信州新町
)である、
東北の隅というは善光寺のことであろう。森村の被害の
ようすについてはおよそつぎのようである。
中村と中河原部落の辺は特に地震が強く、大部分の井
戸が濁ってしまった。また居宅の損傷がひどく、物置・
雪隠(便所)・土蔵などの壁には割れ目が多く、大破の状
態である。
翌二十五日村内を見てまわったところ、中村の元治方
の新築した酒蔵が三尺も傾いていった。西側の道路はひ
び割れて、地下より水が吹き出していた。また中河原の
金兵衛・恒吉・かじや安左衛門の土蔵は潰れ、本宅の柱
のほどはさし口からねじ折れてひどい破損であった。ま
た中河原の「おどり堂」の辺も割れ目が多く、水が勢い
よく吹き出ていた。小路・殿入部落の方も同様な状態で、
特に瓦屋根の造りのよい家の破損がひどかった、夕方か
ら雨降りとなり、ひと晩中降り続いていた。地震は絶え
間なく震い続け船中にある心地で「終日終夜みな居宅に
いる者なく、みな庭にねこを敷き候て、仰天顔にて庭に
ばかりこれ有り候」と記されている。地震が続き人々が
恐しさにおののいている様子がよくわかる。二十六日に
は午後二時と四時ごろ大きな地震があった。興正寺の山
へ割れ目ができたというので見に行ったところ、卵塔の
墓碑がおおかた倒れ、六地蔵は全部倒潰していた。山門
の石垣も崩れ、ひどい被害であった。四月四日再び興正
寺へ行って見たところ、鐘楼はじめ積み石が崩れ、和尚
の隠宅の石垣はみな崩れ落ち危険な状態になっていた。
唯七郎の家では二十六日に裏山の大きな松のそばへ、
四間に二間の小屋がけをして家族全員がそこで暮らすこ
とにした。人々の不安はつのり「人々安堵これなく、こ
の騒乱納まらざる事なりや、この上いかがこれあるべき
や計り難き事なり」と心休まる日がなかったのである。
二十七日に松代藩の殿様(八代幸貫
)よりお触れが出た。そ
の内容は「如何なる迷い人が参ってもまた見ず知らずの
人であっても、留め置いて、粗末にあつかってはならな
い。親切に泊めてやるようにせよ」との厳重な仰せ付け
であった。これにより川中島・篠ノ井の方から大勢の避
難民が山手の村々へ避難してきた。「二十五日以来、森・
倉科・生萱そうじて山峯(山間地)の村へ川中島は勿論、
川辺通り(犀川近辺)の村人有縁・無縁の差別をわかた
ず、たどり来って乞い縋り」云々とあり、自分たち家族
が小屋住居しているところへ、避難民が続々助けを求め
てくるので、森村の人々もこまり果てている。
岩倉山の大崩落で堰止められた犀川の水は日一日と増
水し、新町外二〇余ヵ村は水没または大洪水となってい
る。この大水はいつ切れて下流へ押し出すかわからない。
犀川沿いの村人は、藩の命令に従って妻女山、岩野、あ
るいは笹崎山、森、倉科へと何千人もの人々が避難して
いるのである。
四月十三日夕方四時ごろ犀川の湛水はいっきに欠壊し
た。その大音響は松代まで雷鳴のように聞こえたという。
川中島から下流は大洪水となり田畑人家を押し流してし
まった。しかし松代藩の適切な処置により流死人は少な
かった。
四月十六日の記事には、「里方等より当辺(森村)へ安
堵のところとして来りし、川中島の客人別(客の人々)
はきのう、きように皆引き取りになるなり」とあるので、
十五日・十六日にかけて川中島・篠ノ井から避難してき
た人々は、それぞれ自分の村へ帰った。
三月三十日に唯七郎の家では小屋がけの住居から「こ
わごわながら本宅へ引移り」午後九時ごろ始めて火を焚
いた。しかし夜は地震がたびたびあるので縁側で寝てい
たという。
この地震は弘化四年の大晦日になってもまだ止まない
で、弘化五年十二月になってもまだときどき続いている。
倉科村の被害
倉科村の被害については「倉科大日堂
の裏の峯なる城このたびの地震にて崩
れ候」(中条文書
)とあるだけで他には被害の記録が見あたら
ない。したがって小破程度の被害はあったであろうが、
さしたることはなかったようである。
向八幡村の被害
向八幡村が松代藩奉行所への届け書
によると
居家潰 三軒 半潰 六軒
土蔵潰 七棟 半潰 四棟
物置潰 六棟
と届けられており、死者はなかった。この被害に対す
る救済として松代藩から被災者に御手充を頂戴してい
る。
一 金弐歩居家潰熊蔵
一 金弐歩同断長吉
一 金弐歩同断重吉
一 同壱歩屋家半潰三郎左衛門
以下半潰の者五名同額 中略
〆 金三両
右は今般の変災に付き、書面の通り御手充成し下され、
銘々頂戴仕り有難仕合せに存じ奉り候これに依り御請
連印一札差し上げ奉り候処、依て件の如し
弘化四未年七月 向八幡村
仮名主 荘作
組頭 久之丞
長百姓 国三郎
御代官所
(「居家潰半潰御手充頂戴人別御書上帳」中区有文書
)
居家潰れの者にはそれぞれ二歩(分)半潰れの者には
一歩ずつ頂戴したという受取証文を代官所へ提出してい
る。他の松代藩領の村々にても被災の程度に応じて藩か
ら相応のお手充をもらったことであろう。
幕府領七ヵ村の被害
小島・桜堂・打沢・寂蒔・鋳物師屋・抗
瀬下・新田村の七ヵ村は比較的被害が少
なくてすんだようである。鋳物師屋村の宮坂藤兵衛
(一八〇二~八八
)が書いた『震動略記』によって被害のあらまし
を知ることができる。
杭瀬下、新田四~五軒ずつ潰れ、死者五~六人はあり、
向八幡四~五軒つぶれ死亡はなし 小舟山村酒蔵・瓦
屋等つぶれ、千本柳村八軒ほど潰れ、当村(鋳物師屋
村)車屋潰れ、寂蒔村は稲荷山にて死亡あり。打沢同
断(同じ)小島村・桜堂村は変なし 矢代村八軒つぶ
れ死亡あり たまたま無事なる村方ありといえども、
家を傾け瓦を落し石垣をくずす事少なからず
と書き記している。幕府領(埴生地区)では、千曲川
に近い村に被害があったが他の村は比較的被害は少なか
ったことがわかる。しかし長期にわたった地震によって
大小の破損は各所にあったようである。
被災者の救済
杭瀬下村の旧名主儀太夫は村民救済の
ために見舞として籾や金子を拠出し
た。
一 籾子 百俵 但シ五斗二升入
此 玄米 三〇石
一 白米 一石
一 金 七両
(杭瀬下区有文書
)
を拠出してくれた。これは去る三月二十四日の大地震
にて、潰れ家死人などが出て、村内が混乱し人心不安に
おちいり心配していたところ同月二十七日年寄儀太夫が
村民への見舞として、米穀と金子を差し出してくれた。
そこでこの籾を家数一二五軒のうち被災者八〇軒人数
三六八人へ一人あたり籾一斗ずつ配ってやった。
また籾五俵二斗を二つのお堂と水主(舟乗り)へ分配
してやった。残りの籾二二俵は、お金に替えて郷倉(社
倉)の修繕費にあてた。なお白米は、親類・縁者・朋友
などへ配分してやった。これにより村内の治り方はよろ
しくなり深く感謝している。儀太夫の奇特な取りはから
いを「書付けをもって御届け申上げ奉り候」と杭瀬下村
名主元衛門外四人の者が連印して、中之条御役所川上金
吾助(代官)あてに届け出ている。
また向八幡村では大きな被害をこうむった他の村々へ
穀物や金子を送り救援にあたっている。「弘化四年五月御
救方献上穀物村々相渡控帳」には、
一 玄米 拾石 彦三郎 荘八 出穀分
五十里村(中条村)川口村(大岡村)長井村(中
条村)へ渡ス
一 玄米 六石 周三郎 出穀分
下市場村(信州新町)山和田村(信州新町)念仏
寺村(中条村)へ渡ス
一 大麦 拾俵、籾五俵 武之丞 出穀分
長井村へ渡ス
一 大麦 七俵 久之丞外六人出穀分
以下略
〆(合計)
玄米 拾八俵 大麦 拾七俵
小麦 弐俵 籾 七俵
此代金 合 四両三分ト五匁六分五厘 (中区区有文書
)
向八幡の彦三郎、荘作外穀物を所持している村人が拠
出した、玄米・大小麦・籾など合計四四俵を被災地の五
十里村・川口村・長井村・下市場村・念仏寺村等(中条
村、信州新町)の被災地へ救援物資として送っている。
この救援物資をたしかに該当の村へ渡したという証文
が、弘化四年五月四日付で 松代藩奉行所の永井忠蔵・
菊地孝助両人連印にて、向八幡村式之丞以下八人の者に
出されている(中区有文書
)。
奇特な者への褒賞
松代藩では大地震にあい大被害をこうむ
った人々への救済のために尽力しした村
役人や個人に対して領主より褒美を与えられている。
粟佐村
未年 三役人 頭立
去ル春大地震ニ引続キ犀川洪水以来
何廉 心配致シ大儀ニ候ニ付キ
酒代壱貫文これを下さる者也
四月九日
(粟佐 児島正夫所蔵
)
これと同文同日付けで八幡村へも出されている。ただ
し酒代は三貫文を下賜されている。 (八幡 玉井武所蔵
)
森村 重立候者共
先般大地震ニ付御救方御用途の内へ差し上げ方申立、
一段の事に付毎年役前勤め候六人の者共、役中羽織着
用差し免ずる者也
弘化四未年
十二月十二日
この褒状の大意は、このたびの大地震について、救援
のためのお金を藩へ献上してくれて大変ありがたいこと
である。その褒美として今後毎年村役を勤める六人の者
(南・北組名主・組頭・長百姓各一ずつ計六人)は、役
勤め中は羽織を着用してもよいとのことである。当時は
一般の百姓、町人は羽織を着用することは禁じられてい
た。そのことを許されたということは、このうえない名
誉なことであった。
つぎに個人の褒美として中条唯七郎のものをあげてお
こう。
森村唯七郎
先般の地震の節 奇特の儀これあるに付、御扇子弐本
これを下さるもの也
弘化四未年
十二月十三日
唯七郎はこのとき七十五歳である、奇特の儀の内容は
明らかでないが、穀類かお金かを救援のために拠出した
のであろう。お殿様から扇子一対を頂戴するということ
は、よほどの功績があり、認められたものと思われる。
このほかの村々にても褒賞はあったと思われるが、他に
は史料が見あたらないので、あとは後究を待つことにす
る。弘化大地震の難民救済には向八幡や稲荷山村の史料
にもあったように、領主による救済と、各村からの貯蓄
米や救援金の拠出、または奇特な人々の献米、囲穀の放
出などによって、極難困窮の人々を救っている。その善
意に対して松代藩領・上田藩領・幕府領ともに村役人や
村人に褒賞として、酒代や扇子を贈り、または羽織の着
用を許可して、厚意と労苦に報いている。
弘化の大地震は前代未聞といわれて後世に語り伝えら
れているが、松代藩主(九代幸教
)が施主となって安政六年
(一八五九)に「去る三月二十四日変災にて横死した者
を不憫におぼしめされ、亡霊供養のために、一三回忌の
大施餓鬼を妻女山において盛大に挙行された。この日に
は遠近の村々から参詣者で妻女山は前代未聞の人出であ
った」という(「虫倉日記」
)。