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項目 内容
ID J3300122
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔戸倉町誌第二巻歴史編上〕戸倉町誌編纂委員会編H11・3・21戸倉町誌刊行会発行
本文
[未校訂]二 善光寺地震
善光寺地震
弘化四年(一八四七)三月二十四日夜四
ツ時(午後一〇時)ごろ、大地震が発生
した。震度七、マグニチュード七・四と推定される激震
で、北信濃一帯から越後にかけて大きな被害をもたらし
た。世に「善光寺地震」とよばれ、日本地震災害史上有
数の大地震であった。
 大地震によって多くの家屋が倒壊し、つづいて発生し
た火災によって被害が倍増した。倒壊した家屋の下敷き
になって多くの人びとが圧死・負傷し、さらに火に追わ
れて焼死したりした。とくに善光寺町は御開帳で全国か
ら大勢の参詣人が宿泊していたため、その惨状は非常に
大きかった。戸倉町域からも参詣に出かけて被害にあっ
たものがあった。若宮村芝原では、十数人が帰らぬ人と
なったという。弘化五年にたてた芝原の道祖神は、その
霊をとむらい、地震の止むことを祈願したものである。
新町村(上水内郡信州新町)や稲荷山宿(更埴市)など
の被害も甚大であった。
 また、犀川沿いの山間部では大規模な地滑りや山崩れ
が各所に発生して、集落や耕地が崩落した。土砂に押し
流されたり地中に埋められたりして、多くの人命が失わ
れた。山崩れは松代藩領内だけでも四万か所をこえると
報告され、山や崖がいたるところで崩れ落ちた。なかで
も虚空蔵山(別名岩倉山、長野市信更町)の山崩れは大
規模で、犀川をせきとめてしまった。巨大なダムとなっ
てたたえられた水は、四月十三日、一大音響とともに決
壊した。大洪水は鉄砲水となって川中島平の村々をおそ
い、田畑を岩石や土砂で埋め、多くの家屋を押し流した。
千曲川は急激に増水して、流域一帯に大きな被害をもた
らした。
 地震はその後も長期間にわたって揺れつづけ、余震が
おさまったのは四、五年後のことであった。善光寺地震
の被害は、松代藩から幕府に提出された被害届によると
表124のとおりで、まことに大きなものであった(若宮・
豊城克彦氏蔵、県史⑦)。
大地震がつづくなかの人びと
地震は広い範囲にわたり大きな被害
をもたらし、しかも数年間の長期に
わたった。「大地震寄日記」(小船山・緑川すみ氏蔵)、「弘
化四未三月変事日記」(若宮・豊城克彦氏蔵)の記述をも
とに、戸倉町域における地震の状況や人びとのようすを
みてみよう。
 地震が発生した三月二十四日のようすはつぎのとおり
である。
 「夜四ツ時(午後一〇時)ごろ、大地震が未申(南西)
の方角から揺れてきた。八幡寺(若宮)もつぶれんばか
りであった。ただの地震ではなく魔物の仕業かと思われ
た。戸障子・戸棚が揺れ、皿や鉢がころがりおち、外の
水桶の水が揺れこぼれた。山も里も大きな音がいっせい
に響きわたった。あわてふためいて外に転がりでた。大
地が震動し肝をつぶしてしまった。隣り近所をたずねあ
うが、立っていられないほどである。みな万歳楽や念仏
を声もかれるほどに唱えている。若宮八幡宮に拝参して
みたところ、社殿はぐらぐら揺れ動いてみえたが無事で
表124 弘化4年(1847)善光寺地震による松代
藩領の被害
住居

土蔵
物置
全壊
9,550軒
731棟
6,291棟
半壊
3,193軒
325棟
1,365棟
大破
3,902軒
343棟
310棟
人命
死者(圧死・流失)
負傷者
2,583人
2,262人
田畑等


用水堰
地震
85石
22,720石
57,160間
洪水
27,913石
10,927石
21,482間
山崩れ
41,051か所
犀・千曲川除
土手流失
石積損壊
30,947間
2,980間
(注) 県史⑦により作成
あった。石宮・夜灯・立石は残らずみな振りたおされ狼
藉不埒のありさまであった。
 地震が止まないので、その夜は眠るどころではなく、
庭で立ったり座ったりしていた。火災が発生したところ
があり、未申(南西)から丑寅(北東)の方角にかけて
一円に炎が立ちのぼっている。稲荷山宿では大火事にな
り空を焦がすばかりである。こちらも火事が出ないかと
気遣われる。村役から『家にいるな、火をたくな、石垣
や古木のそばにいるな、欲をだすな、あわてるな』と触
れてきた。
 この夜の地震は、二三〇回を数えるほどで、『たばこい
っぷく吸う間もない』くらいに大地の震動がつづいた。
 明くる二十五日も一日じゅう地震がつづいた。畑の畦
に炉をつくって火を炊いて食事をこしらえて食べ、『不思
議不思議』といって一日をすごした。夜は庭に筵を敷い
て、暗闇のなかで恐怖に耐えながら家がつぶれはしない
かと見守っていた。雨が降りだし、かぶる笠がない人は、
桶や箱などをかぶって立っている。にわかづくりの小屋
を作った。家がゆれるので、ちょっとした用事があって
も恐ろしくて入ることができない。変事というがあまり
のことである」。
 小屋住まいが始まる。緑川家では四月二十四日までお
よそ一か月間小屋住まいとなった。各地の情報がつぎの
ように伝えられている。
 「平地も山地も破壊がひどく、底から崩れだした村や沼
になった村もあるという。まことに恐ろしいと聞くなか
で、わが若宮と芝原の両村と上徳間村は小家ひとつもつ
ぶれないとは、実に産神の御加護であろう。それなのに
隣り村の須坂そのほかの村々は全壊したり半壊したりし
た家が多い。なかでも八幡村は総つぶれ、志川村は少々。
稲荷山宿は表通りの上から下まで、さらに裏町にいたる
まで店・土蔵一つ残らずつぶれたうえに火事になり、残
らず灰になってしまったという。死人怪我人数知れず、
旅人の被害者だけでも四百人やら五百人やら数も分から
ないという」。
 地震の被害状況は地域によって、大きな差がある。戸
倉町域では、若宮村・上徳間村の損害は軽微であるが、
須坂村は大きな被害をうけたという。若宮村でもその後
の震動などで四軒が損壊している。下戸倉宿では、本陣
宮本家・問屋滝沢家など三軒が倒壊した。
 三月二十六日には、松代城下町の被害状況や須坂・飯
山・善光寺のようすが伝えられた。犀川・裾花川・土尻
川上流の各地で発生した大規模な山崩れによって川がせ
き止められ洪水の危険が予想されるため、松代藩が村々
に人足の出動を命じている。
 二十九日、三十日は大地震が連続して発生し、震動の
回数も数えきれないほどで、村によっては倒壊する家屋
もあった。
 「明け六ツ(午前六時ころ)前大揺れがきた。万治峰の
狐石が川中へ落ちた。峠の峰から川岸まで、また正城の
峰の方まで山も谷も大きく崩れた。かたい岩山ではない
ので崩れやすく大変事も予想される。柏王から苅屋原に
つながる山々がいっせいに崩れおちた。村々の人びとが
いっせいに驚きの声をあげるのが聞こえた」。
 山崩れや地滑りが各地で発生しているようすが分か
る。地震による大地の変動で、村の景観も大きく変わっ
たと思われる。
 「六ツ半時(午前七時)ころの大地震で、人びとは色を
失った。家屋や土蔵が大揺れし、八幡宮の宝蔵の瓦が落
ちた。石宮・夜灯も振り落とされた。若宮用水は中堰ま
でつぶれた。八幡寺も大荒れとなり、経蔵・土蔵そのほ
か瓦の棟はみな崩れた。この日両村のものは、残らず獅
子が鼻で垢離をとって参社し、諏訪や伊勢両宮へ代参を
たてて無事を祈った。この日の夕方水内村の延命寺から
『地獄からきた』といって来たものがある。青黒い顔つ
きをしている。つぶれた寺の梁の下になっていて助けだ
されたのだという」。
 人びとは、神や仏に地震が止むことを必死に祈り、諏
訪神社や伊勢神宮にも祈願している。月が変われば地動
も止むのではないかという期待もむなしく、四月になっ
ても大地震は連続する。
 四月九日八ツ半時、山々がすさまじく鳴動した。犀川
筋では警戒を強め早拍子木を打ち鳴らした。土尻川のせ
き止めが決壊し鉄砲水となって流れだし、松代藩が人足
を動員して築かせた小松原村の難場御普請所の堤防を押
し流してしまった。人びとは「支流の土尻川の決壊でさ
えこのありさまであるから、犀川の決壊になったらどう
なることか」と恐れた。
 震動や山崩れのほか、地下から大きな音が鳴りつづけ
た。「昼となく夜となく、一日に二〇回、三〇回と地震が
揺れ、山は鳴りわたり地底から太鼓でも打つような音や
酒桶でもたたくような音がしてくる。人びとが長いこと
夜も帯を解いて寝ることもできず、恐ろしくて食事もで
きず空腹がちなのに、土の底では(満腹の)腹鼓を打っ
ているとはなにごとだろう」とやり場のない怒りをこめ
て述べている。いたるところで地下の岩盤の破断がつづ
き、人びとはその音にもおびやかされた。
 四月十三日、犀川のせき止めが決壊し、大洪水が川中
島平の村々をおそった。幸い戸倉の村々は、この洪水の
被害からは免れている。
 五月十五日の震動によって「内川村にては家宅寄(揺)
りつぶれ申し候」という被害が出ている。地震が連続す
ることによって家屋が損壊したものである。家屋の再
建も困難で、須坂村の坂田家では、八幡宮の造営に来
ていた諏訪大工立川和四郎を棟梁にして家を建てた
が、大地震におどろき、瓦をおろして板ぶき屋根に変
更している。
 この後、地震は数年間にわたって揺れつづけた。小
船山村の緑川与市は、数年にわたる地震の発生状況に
ついて、揺れの大きさや回数などを克明に記録した「大
地震寄(揺)日記」を残している。図196は、記録のな
かから「大寄」の発生回数のみを月別に集計したもの
である。長い年月にわたって大地震がつづいたことが
分かる。
 緑川家では四月二十四日になってようやく小屋住ま
いから家にもどっているが、大震動で家から飛びだす
こともたびたびあり、家が「みしめき」(みしみしとい
うこと)倒壊するのではないかという恐怖のなかでの
生活であった。そのため人びとは、いつでも戸外に避
難できるようにしていなければならず、地震におびや
かされる暮らしがつづいた。
 大地震が長期化したため、人びとは地震の被害だけ
でなく、地震の原因がわからない不安におびやかされ
た。大震動がたびたびおそい、建物が損壊したばかり
でなく、地滑りや崖崩れによって田畑や潅漑施設にま
図196 善光寺地震の余震(大寄の月別回数)
(注) グラフでは、中小の震動は省略している。小船山・緑川すみ氏蔵により作成
で被害がおよんだ。場所によって被害状況に差がみられ、
戸倉町域の村々の被害は比較的軽いほうであったといえ
るが、長期化した大地震のなかにおける不安や恐怖など、
精神的な苦痛は計り知れなかった。
震災の救援
大地震と大火さらに洪水という大災害に
よって、多くの人命が犠牲となり、家屋
や田畑も大きな被害をうけた。被災者の救援と災害復旧
には巨額の費用が必要であった。松代藩では藩の力だけ
ではまかないきれず、幕府に願いでて一万両を拝借した
り、領内の村々に献金を求めたりして、被災者への炊き
出しや手当てなどの救援にあてた。
 献金について弘化四年(一八四七)十二月の記録は、
つぎのように述べている(羽尾・北村章夫氏蔵)。
 「大地震による山抜けで犀川が二〇日間湛水し洪水に
なったため、殿様から川中島の百姓たちへお手当てを下
し置かれた。そのさい、御領分村々の百姓たちが持ち高
に応じて献金をした。献金をした百姓たちには御褒美と
して、金高により裃・羽織・袴などの着用や帯刀が許さ
れたり、郡役の免除や除地がおこなわれたほか、御盃や
扇子などが下付された」。
 若宮村では献金によって、つぎのように褒美があたえ
られている(若宮区有)。
羽織地頂戴・代々着用 一人 盃一箱 二人
永羽織着用・盃一箱 一人 扇子三本 一人
永羽織着用 二人 扇子二本 一五人
一生のうち羽織着用 三人 誉め置く 七人
一代羽織着用 一一人 村中一同へ 酒七升
 江戸時代においては百姓や町人が羽織を着用すること
は禁止されており、着用が許可されることは名誉なこと
であったので、それを褒美として献金をうながしたので
ある。
 また、献金推進に協力した村役人にたいしても褒美が
あたえられ、若宮村村役人はつぎのような褒美をうけて
いる。
若宮村 未年 三役人
頭立
去春大地震引き続く犀川洪水以来、何かと心配いたし大
儀に候につき酒代二貫文これを下し置くもの也、
四月九日
 若宮村では被災して松代藩から救済のお手当て金を下
付されたのは四人で、三人が金一両ずつ、一人が金二分
を支給されている。
 幕府領でも献金による救済がおこなわれた。嘉永元年
(一八四八)十月には、下戸倉村の柳沢儀右衛門が、水
内・高井両郡村々難渋のものたちの救済のため金三〇〇
両と白米四〇俵を献上している(県史⑦)。また、坂井要
右衛門も「大地震難渋のものへの施し」によって中之条
代官所から褒美をうけている(中町・坂井永一氏蔵)。
 地震によって家屋が倒壊したり洪水で流失したりした
ものたちを収容するため、松代藩ではお助け小屋をたて
た。その資材は村々から差しださせた。千本柳村には、
藁三〇駄が割り当てられ、納入している(千本柳区有)。
 被害の多かった地方への食料の援助もおこなわれた。
弘化四年四月には、幕府領村々から長沼四か村(長野市
長沼)へ、飢え人お手当て米として三六石四斗八升の米
が送られた。輸送にあたった下戸倉宿は荒木村(長野市
荒木)名主方まで継ぎ送りし、賃銭として銭三六貫四八
○文を中之条代官所から支給されている(今井町・児玉
芳男氏蔵)。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 997
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 戸倉【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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