Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3300111
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔宇木区史〕H8・12・20宇木区史刊行委員会発行
本文
[未校訂](3)地震
善光寺地震の発生
弘化四年(一八四七)三月、北信濃一帯を
大地震が襲った。折りしも善光寺御開帳の
期間中であったため、各地から訪れた老若男女の参詣人
を巻き込んで、空前の大惨事となった。余震は夜あけま
で二〇〇回余もあり、翌日も朝から強震が断
続的に発生した。北信のなかでもとりわけ善
光寺周辺が激震地帯であったため、この地震
は一般に「善光寺大地震」と呼ばれるように
なった。
 さいわい地震発生時のようすや各地の被害
状況は、多くの書類に記されて後の人々の自
然災害に対する教訓となった。当時の人々に
とっては、言語を絶するほどの恐るべき体験
であったし、松代・上田・飯山の藩主や幕府
代官ら領主にとっては、領内の甚大な被害は
ほおっておけない御家の一大事であった。そ
のために、個人的にも公的にも多くの記録が
残された。
 これらの記録をもとに、地震のようすを再
現していくことにする。まず、善光寺からさほど遠くな
い丹波島宿(長野市)付近に住んでいた今里村の名主は、
この惨事を『善光寺大地震あらまし記』と題して、次の
ように書き記した(序文のみ紹介)。
 三月二四日、当山如来開帳中の事ゆえ、市中は大
いに賑わい夜も夜燈が照り輝いていた。同夜、亥ノ
刻(十時ころ)に突如として大雷のような大地震が
起こり、寺院と市中はたちまち闇夜となった。まも
 弘化4年3月24日の地震後の火災で焼失した
地域を報告した地図。
なく数ヵ所から火の手があがって大火となった。
家々からの泣き叫ぶ声が天地に響き、ようやく難を
のがれた者は、父母妻子あるいは兄弟を懸命に助け
ようとした。消火にあたるどころではなく、だれも
が夢中で野原へ逃げ、ただただ呆然としていた。
 善光寺かいわいは参詣人でたいそう賑わっていた。そ
こへ大地震の直撃、そして火災発生となり、大勢の犠牲
者を出した。現在の科学によれば、推定規模はマグニチ
ュード七・四で、大正一二年(一九二三)九月の関東大
震災の七・九にも匹敵する威力であったとされている。
建物の倒壊と火災、さらには山崩れ、土砂崩れによる河
川の堪水、堤欠壊による被害など、
震動に続く第二次災害が被害をい
っそう増大させた。
 松代藩の役人は、藩主の指示で
四月一〇日までの被害を調査して
幕府へ報告した。これには、善光
寺本堂の内陣が大破したことをは
じめ、寺中四六坊の焼失や大本願、
大勧進関係で多くの犠牲者がでた
ことが記されている。そして、善
光寺町と松代領内の被害を次のよ
うに伝えている。
善光寺町家 一、二七五人死失
寺中および宿屋泊りの旅人 一、二一九人死失
松代領内の山抜 二五一ヵ所
潰家、半潰家 八、七四七軒
死人、怪我人 三、九二〇人
死牛馬 二三五疋
 松代藩はこの報告書の提出とともに、二万両の救済金
拝借を幕府に願い出た。
 中野代官所の高木清左衛門代官(郡中代)は、各村か
ら地震の被害状況を提出させた。この届け出の控えは、
いくつかの村に残っている。また、このとき中野村の市
第29表 善光寺地震高井・水内郡の被害状況
(中野代官所支配下)
概況
村数
高(石)
人数
家数
高井郡
47
24950余
16268
3869
水内郡
43
15846余
10686
2948

90
40796
26954
6817
被害状況
潰家
半潰家
潰高札
潰郷蔵
潰堂宮寺
潰土蔵
潰物置
即死人
怪我人
死馬
死牛
流出家
水難潰
769
321
6
10
11
212
708
192
618
28



1546
633
6
15
40
163
434
412
823
125
2
14
118
2315
954
12
25
51
375
1142
604
1441
153
2
14
118
 綿貫隆夫家文書(中野市)『大地震につき潰家数
一村限書上帳』をもとに作成
 被害状況の数値は史料によって多少違いがある
が、おおむね上記のようである
右衛門は、各村からの届け出を『大地震につき潰家数一
村限帳』にまとめた。
 どの村も潰家・半潰家・潰堂宮・即死人など共通の項
目で被害を報告していることから、代官所から雛型が示
されていたと思われる。この帳面をもとに、九〇ヵ村の
被害状況を整理すると第29表のようになる。なお、高木
代官が幕府へ報告した記録によれば、支配総高五八〇〇
〇石余のうち、一七〇〇〇石余の村々は、ほとんど被害
がなかった。
 千曲川右岸の高井郡を左岸の水内郡とを比較すると、
水内郡側の被害が著しかった。とくに、即死人の数が高
井郡の二倍にも達していることが注目される。代官の報
告によれば表の死者数のほかに、善光寺参詣のために宿
泊して死失した者が二〇〇人余いたという。地域復興の
ために、高木代官は二五〇〇両の拝借金を幕府に願い出
た。
宇木と周辺村村の被害状況
中野村と松川村の寺院や社地境内に小
屋がけをして、近隣諸村の被災者への
施しがおこなわれた。中野地方の被害がどの程度であっ
たのかを示したのが、第30表である。夜間瀬村では、宇
木で潰家一軒・死馬一匹、本郷で潰家一軒・半潰家四軒、
須ケ川で潰家三軒という状況だった。他村に比べて夜間
瀬村の被害はさほどでなかったようである。
 中野周辺では、片塩・七瀬・田麦・東江部・西江部な
ど低地の村々で多くの犠牲者を出している。これらの村
では建物の倒壊が激しかったから、犠牲者の多くは圧死
したのであろう。飯山周辺では、安田・上新田・野坂田・
其綿など樽川沖積地の被害が目立つ。
 ところで、この地震は善光寺御開帳の期間中に起こっ
たことは冒頭で記したが、たまたま宇木から出向いた参
詣人二五人が、不幸にも地震に遭遇して生命を落として
いる。代官所へ届け出た記録をもとに、この惨事に巻き
込まれた宇木の善男善女を、第31表に示した。
 一五家族、二五人のうちの大部分は老人・婦人・子ど
もであった。文六・勘左衛門・惣兵衛の家ではいちどに
三人が死亡している。このうち、勘左衛門は山崎家の先
祖で、善光寺地震で三人がなくなったという口伝があり、
位牌が残っている。
 口伝によれば、地震発生の日は大門あたりの旅篭に宿
泊していた。夜空には星が美しく輝いていたが、地震の
大ゆれにみまわれたときは、すでに火が目の前に迫って
いて逃げ場を失ったという。勘左衛門家の八弥若夫婦は、
息子のけんと姉を連れて行ってこの災難に遭った。姉だ
けは九死に一生を得て宇木に帰ることができ、やがて家
を継いだという。宇木の者がそろって参詣に出向いたの
か、講のような仲間であったのかは定かでない。宿泊先
もわからない。
 ちなみに、中野村の記録によれ
ば、中野村から善光寺参詣に出向
いて犠牲になった者は数人いた
が、いずれも遺骨は村に戻らなか
ったという。そのため、やむなく
遺留品を檀那寺に持参して菩提を
葬ってもらっている。参詣人の多
くは消息不明のままで、こうした
供養がおこなわれたようである。
 かつて松尾芭蕉が、「月影や四門
四宗もただひとつ」と詠んだよう
に、「善光寺さん」は宗派を超えて、
あらゆる人たちから信仰されてい
た。したがって、七年に一度の御
開帳ともなれば、全国各地から参
詣人が訪れた。
 農耕にあけくれる生活のなか
で、やっと機会を得て出向いたは
ずの善光寺参りであったのに、こ
のような思いもよらぬ不幸が待ち
うけていたのである。ちまたでは、
「死にたくばこぞってまいれ善光
第30表 善光寺地震宇木周辺村々の被害状況(高井郡の村々)

新保
若宮
金井
岩船
西間
片塩
七瀬
田麦
壁田
間長瀬
同新田
深沢
厚貝
吉田
牛出
栗林
安源寺
大俣
東江部
西江部
西条
新井
上笠原
本郷
宇木
須ケ川
潰家
1

1
5
9
83
76
28
24
6
17
2
22
13
2
4
24
1
47
43
17
1

1
1
3
即死人





21
27
19

1
2


2


4

17
10
5





怪我人




6
113
79
39
34

8

18



35

38
31
26






赤岩

柳沢
田上
岩井
同新田
安田
上新田
天神堂
野坂田
坂井
下木島
大町
中町
西町
寒沢
山根

其綿
山口新田
立ケ花
押切
北岡
矢島

潰家
36

14
4


54
35
19
60
2
3
17
7
12
2
9
2
33
2
6
6
1
20
775
即死人
6

2



7
23
5
7


5
8
10






1
2
8
192
怪我人
49

8



58
37
19
6











8
6

618
「大地震につき潰家数一村限書上帳」(中野市・綿貫隆夫氏書蔵)をもとに作成
中野・一本木・竹原・小田中・松川などの村々は記されていない
寺」という句さえ詠まれたという。
善光寺如来の御利益にあずかろう
とした人たちを、この大地震は無
情にも弥陀のもとへのみ込んでし
まったのである。
 ところで、青木源家には、この
地震のあと母屋の補強として筋か
い(斜めに交差させて取り付けた
木材)を入れたが、それが現在も
土間付近に残っている。同家は、
天保一五年(一八四四)に火災に
遭っているが、建て直してまもな
く、この地震に襲われた。善光寺
地震は、三月二四日の大振れのあ
とも続き、判明する限り、善光寺
町付近では嘉永七年(一八五四)
ころまで、毎日のように昼夜にわ
たって揺れがあった。昭和四〇年
代の松代群発地震にも似た状況で
あった。青木家の筋かいは、こう
した揺れへの対策であったにちが
いない。
第31表 善光寺町での宇木の犠牲者と菩堤寺
宗旨
浄土宗


















禅宗





旦那寺(所在地)
蓮光寺(松川)

正源寺(赤岩)
正敬寺(間山)
西証寺(北岡)

正敬寺
正源寺


蓮光寺


正源寺
真行寺(宇木)



蓮光寺
興隆寺(佐野)
常楽寺(栗和田)


隆谷寺(宇木)

名前
里さ
留三郎
長兵衛
志の
武右衛門
こや
はや
じゅん
よめ
志づ
文六
はや
志ち
とわ
きよ
八弥
志ん
けん
ふじ
喜八
りわ
つる
嘉吉
仙介
千代作
続柄
彦兵衛娘
彦兵衛子

卯兵衛母


市三郎母
嘉右衛門母
安兵衛女房
安兵衛妹

文六女房
文六娘
三郎右衛門女房
五郎兵衛娘
勘左衛門聟
勘左衛門娘
勘左衛門孫
五郎右衛門娘

惣兵衛女房
惣兵衛娘
惣兵衛子

仙介孫
年齢
23
15
59
不明
68
60
56
不明
33
20
40
30
2
62
20
26
21
4
17
69
40
12
2
73
8


























男10人・女15人、計25人が死失
名主源兵衛の記録『大地震につき善光寺にて死失いたし候名前書』により
作成
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 918
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村

検索時間: 0.002秒