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項目 内容
ID J3300110
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔長野市権堂町史〕権堂町史編集委員会編H5・4・30 権堂町発行
本文
[未校訂]6 善光寺大地震と権堂の被害
善光寺大地震のあらまし
 弘化四年三月二十四日(西暦一八四七年五月八日)夜
亥の刻(午後十時頃)、信濃から越後にわたって地震がお
こった。激震区域は北は越後高田から南は上田に及び、
延長二八里、幅八里ほどであり、そのうち最もはげしか
ったのは北東は飯山から南西は稲荷山に至る間及び更
級・水内の両郡の西方山地で、延長一二、三里、幅二里
半、面積三〇万里程であった。震源地は虫倉山の地下ら
しい。
 善光寺町は、町全体が傾斜面に立っていて不安定な状
態にあった上、震動がきわめて甚しかったので、第一震
で多数の家が崩壊し、たちまち火災をおこした。火は大
門町上方・東横町中程・東之門町中程の三ヵ所にまずお
こり、ついで西之門町より出火した。出火場所は主とし
て町の北部であり、風は西南であったから、町の南部、
後町・権堂等へはなかなか類焼してこなかった。しかし
諸国参詣人の多数宿泊していた諸院坊及び大門町旅篭屋
街はことごとく崩壊、または類焼し、多数の死者を出し
た。火事は善光寺町のみでなく、松代皆神山から見たと
ころ、二〇ヵ所ほどに火の手が見えたというが、おおむ
ねその夜のうちに鎮火した。しかし、善光寺町のみは人
家が多いため容易に鎮火せず、翌朝に至ってもますます
燃えさかった。越後椎谷藩の出張所六川陣屋の代官寺島
善兵衛は、二十五日その所領問御所村に来て消火の指揮
をした。彼は問御所村北境で火をくい止めようと決心し、
人足を指揮して権堂村・後町等の人家を打ちこわしはじ
めた。人々は他領の人家に手をつけることは後に問題を
のこすといって止めたが、彼は責任は自分が負うからと
称して断乎作業を進めた。風は南風であったにもかかわ
らず火は次第に南に燃え下り、二十五日昼頃ついに鐘鋳
堰をこえて後町・権堂へ延焼して来た。火のまわりはき
わめておそく、もし鐘鋳堰を守って消火につとめれば、
それ以南への延焼を防ぐのは比較的容易であったろうと
思われたが、何分にも強力な消防団体がなく、住民は自
己の家財持出しに奔走し、寺島代官も結局は自領を守る
ことを第一としていたため、有効な防火ができなかった
のである。
名主永井善左衛門幸一の書いた
「地震後世俗話の種」
 地震当時の名主、永井善左衛門幸一は善光寺大勧進家
老久保田家から養子に来た。永井家は酒屋であった。名
門の主として、家業にはあまり精出さず、家業は番頭に
まかせてあったらしい。弘化四年当時、善左衛門は三十
四歳、妻イト二十九歳、長女ジュン十六歳、長男乾三、
九歳の四人家族であった。
 さて、善左衛門は若年のころ、養父の死後(養父幸隆
は天保三年没)、妻子をつれて江戸へ出ていたことがあ
る。志を得ないで空しく帰郷したが、養母の怒りにあっ
てなかなか家へ入れてもらえなかった。ただ娘ジュンが
ことのほか養母にかわいがられていたので、養母はその
情にひかれてようやく帰家を許したという。
 江戸で何をしたのかわからないが、幸一の絵が素人離
れしていることからみて、専門家について絵の勉強もし
たらしい。
 帰郷後は慶応元年五十五歳で没するまで名主の職にあ
り、その間、嘉永七年からは質屋を営んだ。
 永井幸一は地震勃発当時、善光寺境内の出店にいた。
弘化四年三月九日から、常念仏六万五千日の回向開帳(常
念仏堂で行われている常念仏が六万五千日に達したのを
記念する法事、開帳)が行われたが、幸一は実家の兄が
大勧進の寺侍(家老)であるから、特別の縁故で、駒帰
り橋(山門下)のそばの土地を貸し与えられ、そこへ梅
笑堂という屋台店をつくり、土産の菓子を売っていた。
ただし、名主が土産物の出店を出すのははばかりがある
ので、出入の大工庄五郎の名で出願し、商売も庄五郎夫
婦を頼んでやっていた。三月二十四日の夜、全く偶然に、
家族連れで参詣かたがた、出店へ寄った時に、この大地
震にあった。翌日、居宅も焼失、つぶさに辛酸をなめた。
 幸一は、自分の今までの不行跡の罪ほろぼしに、自分
の体験とこの大地震についての聞書をまとめ子孫にのこ
そうとして、翌年「地震後世俗話の種」七冊を完成した。
その絵の一部は口絵に紹介した。この本は現在、長野市
の文化財に指定されて、また複製本が出版されている。
 さて、善左衛門の出店は三月十五日を開店日と定め、
呼込みの口上まで考えて着々準備し、開店にこぎつける。
出店梅笑堂には大工庄五郎夫婦二人がつめ、三度の食事
も本宅から運んでいく。本宅には菓子職人がいて菓子を
作る。
 本宅では新たに座敷を作っていたが、三月二十四日に
仏壇を新座敷に移し、暮六つ頃食事をし、庄五郎の母と
菓子職人一人を留守に残して、家内一同が出店梅笑堂に
でかけた。
 梅笑堂で眺めると、夜店の燈火は白昼のようで、参詣
人はひきも切らない。亥の刻(午後十時ころ)一人で本
堂に参詣する。参詣人はなお多く、本堂内は通夜の人々
で充満し、口々に称名を称えている。参詣を終えて表向
拝まで出ると、北西の方におそろしい鳴動があり、数万
の燈火が一度に消え、居るままに五間、三間と前後左右
におしやられる。起き上がることもできず、しかも鳴動
は幾千万の雷が連なって地に落ちるようである。梅笑堂
に戻ると、幸い妻子は無事である。いつしか火事がおこ
り、大門町上、東横町中ほど、東之門西側の三ヵ所がま
ず燃え上る。間もなく西之門町・新道辺から火の手が盛
んに燃え立つ。大本願・中衆・妻戸をたちまちに焼き払
い、仁王門に火が吹きかかる。市町はいちめんに火の海、
実家はどうなっているだろう、家財は仕方ないとしても
御高札と文書類、堂上方の額などは、何とかして持出し
たいと願ったが、どうしようもない。本堂の脇から、城
山の方の畑の中に、薄縁を敷いて仮の宿としていると、
本堂から避難される御本尊・御印文・前立本尊の御宝龕
がお通りになる。大勢の人々がそれにとりつき、お供を
している。本城に近い堀切道の傍の田畑に御輿を安置し、
幕打ち廻して守護すると、数万の人々が集まって称名を
となえる。その夜は城山で野宿する。野宿したかたわら
に、繻絆ひとつで腰巻もない女がいる。「宿屋の風呂に入
っている所を地震にあい、この始末です。たしなみない
女とお思いでしょう」となげく。幸い梅笑堂の売上銭を
持っていたので、それを与えて別れる。
 やがて家から迎えの者が来たので、地獄で仏に会った
ような気持ちで、御本尊安置の方を拝み、昨夜から持病
が出て足腰がたたぬので、背負われて家に向う。あちこ
ちに地割れがしておそろしい。本城南から淀が橋、鐘鋳
川の端を通り、裏田町から普済寺の脇に出る。普済寺は
丸つぶれになっている。実家はつぶれてはいないが、隣
家がつぶれ、塀が倒れて近づくのもむずかしい。ようや
く一、二品取出し、一丁ばかり離れた畑に屛風・格子戸・
襖障子で仮小屋をつくり、荷物には畳・雨戸を雨覆いに
して、どうなることかと案じていると、昼ころから権堂、
後町へ火がかかり、午後四時ころまでに永井家の隣家ま
で焼けて火は向う側へ移り、南へ延焼して行った。昨夜
から風は北へ吹き、火は南へ燃えていく。焼け残った家
は、火が何回もめぐり返ってやがては、焼けるというあ
りさま、永井家も助かるかと思われたが、夜十時ころに
なって、風がかわり、南西から北東へ大風が吹き、たち
まち全焼、三輪、宇木まで延焼して、地震二日目の夜も
火災はなお止まない。
 犀川せきとめ、洪水のうわさがひろまってくる。二十
七、八日になっても、死体を片付けるものもなく、悪臭
が満ちている。商店も開くものなく、不自由いうばかり
ない。
 村内の栄屋平吉、英屋新之助(いずれも水茶屋)が各
金百疋(一分)を見舞いとして届けた。この金で横死者
の一七日供養をしようと、普済寺の巨竹和尚を請じ、迨
夜追善のため大施餓鬼を行うことにした。四月一日、野
中に畳を敷並べて供養を行うと、圧死者の親類で回向を
頼む人も多かった。
 こういう大災のなかで、幸一が最初に行ったことが施
餓鬼法要であったことは、彼の信仰心のあつさを物語る。
名主としての責任感もあったろう。ただ名主として村民
を指揮して防火・防災に当るというような処置は全くな
されていない。他の町村でも同様だったろう。
権堂村の被害
 善光寺町のうち、寺領の分いわゆる八町と称
せられる町々はほとんど全焼し、横沢町等の焼
けなかった町も過半は全潰して満足に残った家
はほとんどなく、家屋の被害は一〇〇%に近か
った。ついで花街権堂も、町はずれの農家が難
をまぬかれたのみで、その他は、「別して水内郡
権堂村の儀は、右地震にて皆潰同様の上、善光
寺町より出火類焼」と松代藩が報告したように、
ほとんど全滅であった。前述のように火は問御
所村北端で止ったため、問御所・妻科両村の被
害は潰れ家のみである。震災後、権堂村はいち
早く復興した。これがもとで大門町から訴えら
れることになる。
第8表 善光寺町及び近村被害状況
町村名
善光寺町
八町
権堂村
西後町
問御所村
妻科村
(新田・石堂を含む)
善光寺
近村
腰村
箱清水村
栗田村
松代町
飯山町
高田町
領主
善光寺
幕府
松代藩
椎谷藩
松代藩
松代藩
善光寺
幕府
松代藩
飯山藩
高田藩
戸数
a
307
(35)
(175)
311
(120)
(55)
(939)
(2,400)
焼失・潰
れ戸数
b
2,527
274
27
45
83
小計
2,956
23
15
0
213
926
477
b-a×100
(99)
89
77
26
26
14
28
0
(98)
(50)
人口
c
(7,700)
1,163
(600)
1,195
(600)
(300)
558
(9,000)
(4,000)
(17,000)
死者
d
1,403
外に旅人
1,029
89
1
25
23
15
5
32
389
5
d-c×100
17
8
0
2
4
5
1
3
10
註1 この表は『むし倉日記』・『長野市史』等により作製した。
2 ( )を附したのは、確実な数の不明なものである。一応の便のため概数を推定記入したものであ
る。
3 各領地ごとに調査の基準が異っている。
4 善光寺町の被害は、「俗話の種」によれば、寺内138人・町家2,481(男1,010、女1,471)・旅人
2,000余(以上5月10日調査)であった。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 913
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 長野【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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