[未校訂]二、善光寺地震と大洪水
弘化四年(一八四七)三月二十四日亥の刻(12)、水内・高
井・更級・埴科を中心に襲った地震を善光寺地震あるい
は弘化の地震という。
この地震は、新潟県上越市より南に三十八里、巾八里
という広い範囲に及ぶものであり、震災に続いて火災洪
水と三つの災害が重なったため、その被害は史上に例を
みないものとなった。
善光寺地震を現在の気象震度段階にあてはめると、「家
屋の倒壊30%以上に及び山崩れ、地割れ、断層など生じ
る。」という震度7以上にあたる。
この震度は、近年私共が体験したものと比べてみると、
松代群発地震の最大のもので震度5。新潟地震も7.7であ
る。また、昭和十六年(一九四一)の長沼地震、昭和十
八年(一九四三)の野尻湖地震はともに6、大正十二年
(一九二三)九月一日の関東大震災は東京で5であった。
このようにみてくると、善光寺地震は如何に大きな地
震であったかがわかる(13)。
家潰れと火災
地震のはじまりは地鳴りがし、不思議な発光があった
といわれる(14)。
ゆれと火災による被害の大きかったのは、善光寺町(善
光寺周辺の善光寺領と、幕府領の権堂村、松代藩領の西
後町・妻科村・新田・石堂町、椎谷藩領の問御所村)で
あった。善光寺町は、裾花川の形成した傾斜地にあった
ので、ゆれが激しく、第一震で多くの家が潰れ、たちま
ち火災をひきおこした。
火の手は初め大門町・東横町・東之門町の三ケ所にお
こり、続いて西之門より出火し、折りからの南風に吹き
たてられ、たちまち善光寺町の九分通りを焼き払ってし
まった。火は二日二晩燃えつづけ二十六日にようやく鎮
火した。
当時の有様は、「地震洪鏡」という本に次のように記さ
れている。
梁にふさがれ、柱・たる木の間にはさまれ、泣き叫べ
ども更に救う人なし。親を助け児を救わんとすれども、
たちまち火は手の前足のふむところに、親兄弟妻児を見
殺しに、炎の中に苦しめども是を助くることあたわず。
中には腕を折り、股を削り逃げ去る人もあり。
善光寺町の潰れ家焼失軒数は、二千九百軒にものぼり、
全戸数の99%が潰れるか焼けてしまった。
また、当日は善光寺御開帳の最中で、参詣者がたくさ
んいたので、その混乱も大きく、旅人を含め二千四百四
十七人もの死者が出た(15)。
死にたくば信濃へござれ善光寺
うそはござらぬ本田善光
(16)という狂歌がうたわれ、その後しばらくは善光寺参詣者
が減ったといわれる。
一方、小市村の様子は資料が乏しくはっきりしたこと
はわからないが、「宝暦六子歳より御上様御立相場帳」に
は次のように記されている。
弘化未年、
当未三月廿四日夕四ツ頃当国大地震殊ニ当村三十四軒
潰。犀川二十日渇水少モ不流。但シ安庭向ニ而留ル壱度ニ
出水当村流出。
この記録によると三十四軒が潰れたことがわかる。現
在たしかめ得ることは、無常院の本堂と山門が倒壊し、
称名寺の庫裡も崩壊したことである。
また、次のようなことが奇談として伝えられている。
小市村称名寺前末吉とやらいふものの居家屋舗共、そ
のまま八九尺余り地震にて床上しけり、不思議の事には
居家損せず(17)。
死者については、「虫食日記(18)」に、「賄役格にお取立あ
りし塚田源吾の(19)悴圧死。」また、同家へ年季奉公に来てい
た七二会村の兼吉という二十五才の若者が変死人届とし
て出されている(20)。
地裂れ山崩れ
長野市の西山部では、山崩れによる被害が多くでた。
この地域は、今でも地すべり多発の傾斜地である。
松代藩が幕府へ届け出た山抜け崩れは四万一千か所。
また、それにともなう堰留湛水は五十三か所である。
小市村でも、ほうぼうに地裂れができ、山手ではいつ
抜け落ちるかわからない危険な所もあった。
小市村の廻り悉く地裂、いつ抜覆もすべき有様なりと
ぞ小野喜平太目付村々見分の時是れを見て、塚田源吾へ
申せしは、斯村を取巻て大造の井きれにては、此地にて
住居せしは心元なし、何方か地を選みて引越て可ならん
と。源吾申は、今の家は、水に危く候へば是より山中の
方に我持地あり。夫家作し侍らん。仰のごとく井ぎれ多
くありて危き土地に候へとも、住みなれし土地は捨難く
候。と答たりしとぞ(21)。
現在でも大雨の度に土砂崩れをおこし、国道十九号線
を不通にする真神山は、山の半分ほど犀川に崩れ落ち、
川を堰止めてしまった(22)。小松原から見て、白く山膚をむ
きだしにしている所が当時の傷痕である。
また、滝沢は、栃久保から山崩れがあり湛水ができた(23)。
一方道路については、
吉窪村分地花上みせ地震にて皆つぶれこわれ、往来損
事。人馬通路当時出来申さず候。古往の頃上通りにて罷
り通り候節の道松代往来仕り候(24)。
とあって、花上への道が崩れ通行できなかった。
地震による被害として松代藩が幕府へ届出た被害高は
次の通りである。
田畑の被害 村数一五一ケ村 三二八〇五石余(内田
一〇〇八五石余、畑二二七二〇石余)
山抜崩大小 四〇九九九ケ所
山抜崩堰留水湛大小 五三ケ所
居家潰 在方之分 九三三七軒(洪水による被害含)
地震圧死 二一五四人
岩倉山崩れと湛水
山崩れは、山間地の沢や川を堰止め、湛水をおこし、
上流や下流に水害をもたらした。
特に、湛水量の多い場合は、それだけ被害も大きくな
った。
松代藩調べでは堰止湛水五十三ケ所と記されている。
その中で最も大きな被害を与えたものは、長野盆地一円
を大洪水にまきこんだ岩倉山崩れである。
岩倉山は、更府村平林の海抜七六四米の虚空蔵山の通
称である。
岩倉山は、地震がおきるとすぐに頂上が東西に割れ、
西側が地すべりをおこし、犀川に押出し、対岸の花倉の
北方へ突上げ、犀川を堰止めてしまった。今では、断層
面は雑木におおわれているが、山崩れをおこした所はわ
かる。
犀川を堰止めた土砂量は八百万立方米ともいわれ、河
床からの高さ六十五米、川の流れの方向に底巾一粁米、
上巾二十米で堰止めたと推定されている(25)。
このため下流へは水は流れず、市村渡は歩いて渡るこ
とができた。
川へ水不出。船渡し不断之船にて瀬も沢山有之誠に難
渋之渡場に有之処。後には段々減水し一滴も無之。歩行
にて往来致し候程のことゆへ、諸人奇異之思ひをなし、
如何成り行やらんと恐れ惑ひ、更に安き心はなかりけり(26)。
また、犀川の水が干上がったので、鱒や鯉、鯰など拾
いとることができた(27)。
岩倉山崩れによる堰止めは、三月二十四日から四月十
三日午後四時頃までつづいた。上流の水位は上がり、道
や田畑が冠水し、家や納屋や蔵まで浮き上がり、上流に
押出された。
この湛水で水没した部落は、平・平水内・今泉・久米
路・久保・上条・新町・大門・竹房・原・牧野島・穂刈・
下市場・大原・鹿道・和田・日名・吐咀・置原・川口・
橋木・安賀の一部・栃沢・舟場・下大岡・長瀬・野原・
瀬口・古坂・雲根の一部の三十部落六百戸に及んだ。
この湛水量は諏訪湖の約四倍と推定されている(28)。
堰止め日数が延びれば延びるほど、上流はもとより、
決壊したとき下流の被害の大きくなることは明らかであ
った。そのため松代藩では真神山崩れの土砂を取除いた
り、小松原に大土堤を築いて出水に備えた。
君公、今にも水押寄せ来たらむには、川下の難儀いか
ばかりかと、いたく心痛遊ばされ、先づ川南は小松原太
神宮の辺りに御普請所の仮屋を建てさせ、(中略)河北に
は小市村水神宮の前に仮小屋を設けられ、(中略)
日々数千人を励まし、犀川を出口より二重三重高さ十
四五俵の石俵を積重ね、或は聖石を積み、或は真神山崩
れの川敷を我先にと、必死に掘取るさま、而も人足休み
の折には、合図の陣太鼓・陣鉦を鳴らし、恰も滔々たる
湛水を寄せ来る当の敵と見て、我領内には一歩たりとも
荒さじとの防禦策は、弓矢と鍬との差別こそあれ、実に
戦場に敵を防ぐもかくやあらむと思はるる許り(29)。
また、佐久間象山は、千曲川に向っての大氾濫を予断
し、川中島の人々に米穀や家財を高地に移すことをすす
めた。
四月十日には、数日来の大雨のため、留口の岩間から
少しずつ水が落ち始め、十一日十二日には、いつもの水
量ほど流れ出た。この頃の留口の水深は六十米もあった
と推測されている。
そして四月十三日。幕府の検使が岩倉山視察をし、立
ち帰ったあと留口は一大音響と共に決壊した。
逆巻く濁流は轟音を発し、下流の犀口・川中島平をめ
がけて突進した。
その音、百千の雷の一時に落重なるごとく山々に鳴り
渡り、谷々震動して留口の半途より裾を抜き、大石を飛
ばし、波逆立ち突落す。水煙は深くさながらおぼろ夜の
如く、半里四方へは雨を降らしける。
かかる大川、二十日余り留上げける水幾ばくぞや。野
山・沢・谷に満ちたるを一度に押下すゆえ何かはもって
たまるべきや(29)。
大洪水
岩倉山の留口を決壊した水は、怒涛のように流れ下り、
犀口を襲った。
犀口の水嵩は、六丈八尺もあったといわれる。これは
両郡橋の曲弦構を越す高さで、見上げるばかりの水嵩で
ある。
犀口を出た水は、ほぼ昔の犀川の流路に沿い、三つに
分かれて流れた。一つは小市方面へ、一つは四ツ屋・中
島方面へ、他は小松原・今里方面にと氾濫した。
小市村を襲った流れの有様は、「小市にありし舟上流の
瀬脇に走り」とか「舟頭も無きに真神山に船のぼり」「河
水は倒しまに流れ」とその物凄さが記されている。
先流、小市舟場馬髪へ押しかかる。そのなりわたる音、
耳を貫くばかり、拾里四方へひびきわたるとおぼしく、
すでにくずれ口の高さ三拾丈余りもこれある場所(真神
山崩れのこと)ただ一波に押破り、土堤をこえ、石をと
ばし、川筋一円に押し出す(29)。
そして、小市村を襲った流れは、旧道沿いの家並を一
気に押流した。
村人達は、洪水になったら、川先に突出している上町
が一番危険であると予想していたが、実際には、上町は
ほとんど被害が無く、安全だと思われた中町が流されて
しまった。
洪水による被害の様子は、「小市村弘化四未之御年貢名
寄帳」から推測できる。
名寄帳は、藩から村へ割り当てられた年貢を個人別に
割り当てた村方の記録である。
洪水にあった所は、「未川欠引」と記され、今でいう所
の免税の対象額が示されている。中でも、「未皆川欠引」
と記されたものは、免税百%である。屋敷高なら家屋の
流失であり、田畑なら冠水土砂流入により収量0にあた
る。
名寄帳の一例を次に挙げる。
八郎右衛門
役高 七石三斗三升八合
一屋敷高 三斗九升六合①当未皆川欠
弐斗七升②助五郎へ除ク午
一畑 四石七斗九升六合
内 弐斗五升弐合③当未川欠
残而四石五斗四升四合
一田高弐石壱斗四升壱合
内 壱斗四升④古川欠引
弐石壱合⑤当未皆川欠
〆高 四石五斗四升四合
取籾 五表三斗八合弐勺
一高 五升 新田
取籾 壱升五合五勺
(以下略)
①屋敷高三斗九升六合は、皆川欠のため課税対象外。即
ち免税。
②前年午年に屋敷のうち弐斗七升生産できる土地を助五
郎に譲渡したので除く。
③畑高四石七斗九升六合のうち弐斗五升弐合生産できる
土地が洪水に遭う。免税対象額は五%。
④「古川欠引」以前に洪水に遭い、荒地のままで作付が
何もされていない土地。
⑤古川欠と、今回の洪水で、田方は全額免税。
この様な名寄帳から被害状況をまとめたものが、次の
表である。
(表Ⅰ)
被害の割合
(屋敷高-未川欠引×100)
100(皆川欠引)%
90以上100未満
80以上 90未満
70以上 80未満
60以上 70未満
50以上 60未満
40以上 50未満
30以上 40未満
20以上 30未満
10以上 20未満
1以上 10未満
0
戸数
34戸
2
1
3
0
2
2
4
7
8
4
20
全戸数に対する割合
40%
2
1
3
0
2
2
5
8
9
5
23
(表Ⅱ) 田の被害
被害の割合
(田高-未川欠引×100)
100(皆川欠引)%
90以上100未満
80以上 90未満
70以上 80未満
60以上 70未満
50以上 60未満
40以上 50未満
30以上 40未満
20以上 30未満
10以上 20未満
1以上 10未満
0
戸数
17戸
2
7
1
7
9
3
5
0
2
1
10
全戸数に対する割合
26%
3
11
2
11
14
5
8
0
3
2
15
Ⅰ表によれば、屋敷高の皆川欠引は、屋敷持ち八十七
軒中の四割にあたる三十四戸である。これは家屋の流失、
あるいは全く復旧不能に陥ったものと思われる。そのほ
か大なり小なり被害の蒙ったものは六十七戸で約四割。
全く被害の無かったものは二十戸で約二割である。
屋敷の被害状況は氾濫の流路を知る手がかりとなるの
で被害者名を記しておく。
皆川欠 松右衛門・美寿・仙左衛門・仁右衛門・栄三郎・
五兵衛・万吉・利右衛門・五郎兵衛・八郎右衛門・四郎
兵衛・織右衛門・助五郎・与右衛門・惣兵衛・半太夫・
民治・重右衛門・弥吾八・荘右衛門・志満・幸左衛門・
幸蔵・幸右衛門・太兵衛・太右衛門・清太郎・寛之介・
金蔵・専吉・長治郎・喜平太・平蔵・定吉
八割以上川欠 喜藤次・源右衛門・作右衛門
六割以上川欠 金平・常左衛門・荘五郎
四割以上川欠 新蔵・辰之介・勝蔵・杉吉
二割以上川欠 六兵衛・善十郎・春吉・案右衛門・盤之
介・安太夫・弥五郎・勇松・藤三郎・くの・三郎右衛門
一割以上川欠 佐吉・助右衛門・万五郎・宇兵衛・兵吉
川欠引なし 市弥・仁三郎・幸四郎・嘉兵衛・定治郎・
源助・源左衛門・三郎兵衛・専右衛門・多助・弥左衛門・
無常院・平介・佐文太・熊吉・紋之丞・林左衛門・佐平
治・久三郎・伊左衛門(屋敷高なし 多布・歩介・甚十
郎・称名寺・西教寺・米吉・彦重郎・助九郎・政右ヱ門・
長蔵・吉三郎・管左エ門)
田畑の被害は、ⅡⅢ表でわかる通り、畑は田に比べて
少ない。これは、畑のほとんどは山際の傾斜地にあり、
田は川沿いの町南沖・洞田・開沖にあったためである。
田の被害は、十割免税が全体の4/1にも達し、全く被害
の無い田は二割弱である。
しかもこれ等の水田の一部は、文久三年(一八六三)
の土目録に末川欠皆引と記されていて、十六年を経過し
ても水田に回復させることはできなかったのである。
次に当時の有様を伝え聞いた古老達の話を記す。
○予想外だった流路
(表川) 畑の被害
被害の割合
(畑高-未川欠引×100)
100(皆川欠引)%
90以上100未満
80以上 90未満
70以上 80未満
60以上 70未満
50以上 60未満
40以上 50未満
30以上 40未満
20以上 30未満
10以上 20未満
1以上 10未満
0
戸数
1戸
0
0
1
1
0
0
3
5
9
17
51
全戸数に対する割合
1%
0
0
1
1
0
0
3
5
9
17
51
洪水のあったのは、おじいちゃんの十七八の頃だそう
です。
水は三水の方へ流れ出ると言われていたのに小市へ出
て来ました。洪水で流されたのは、中町の坂になってい
るくぼんだ所だそうです。洪水が来たら上町が一番あぶ
なくて、安全なのは中町だろうということでした。そん
なもんで、本家の武夫さんの土蔵に、親戚中の家財を預
かってもらったらみんな流されてしまい、後々まで損し
たと言われたそうです。 (徳永宗平氏)
○うえんだへ逃げていた
水が来たと言うもんで、大きなおひつにおにぎりを入
れてうえんだに逃げたそうです。
親父様と息子は、うえんだの柿の木やザクロの木に登
って見ていたそうです。
流れの中の家は、じきに障子が見えて来たので、これ
は水がへってきたとよろこんだそうです。ところが、そ
れは水嵩がへってきたのではなくて、家が持ち上がって
流れるところだったのだそうです。
わしら家は、洪水のあと、うえんだに家を作って、そ
の後また今のとこに戻って来たもんで、今でも「うえん
だ」とか「おうえんだ」とよばれています。
(岡村ヤスヨ氏)
○土蔵までぷかぷか浮いた
おじいちゃんの源右衛門さんと、三つ違いの妹が生ま
れた時に地震があったそうです。
山が抜けて、水が止まり、そのあと大水が出たそうで
す。
土蔵や家までぷかぷか浮いていくのを、うぶつなさん
に逃げて見ていたそうです。土蔵の中には、着物がいっ
ぱい入っていたので、「もったいねえ、もったいねえ。」
と言って見ていたそうです。
わしら家は、徳永屋さんの東どなりにあったのですが、
水に流され、今の所に移ったのです。その頃ここらは松
山で、権現沢は深くえぐれていて薮だったそうです。そ
れでも大雨が降る度に水が溢れ、大さわぎして川底を掘
ったもんだそうです。
(荒井まさ氏)
○中町で残ったのはたった三軒
水害で流されたのは、哲雄さんの家から美正さんの間
にあった家だと言われます。そこはもと、うえんだと同
じ高さだったのが、えぐりとられたと言われます。
(塚田袈裟太郎氏・岡村嘉美氏)
弘化の地震はおじいちゃんの四才の時のことだそうで
す。
上の寺や下の寺に避難して見ていたが、みるみるうち
に家が流されていったといいます。
その頃中町三十五軒のうち流されないで残ったのは、
丸山吉之丞さん・寺島安兵衛さん・徳永房登さんのたっ
た三軒だそうです。
わしら家も流されました。その時流された家の系図が、
大豆島でみつかり、とどけてもらったそうです。なにし
ろえらい騒ぎだったそうです。
(塚田七十
郎・とき夫
妻)
一方、対
岸の四ツ屋
では、家屋
の残ったと
伝えられる
家は二軒。
中島で四軒
と言われて
いる。四ツ
屋では水が
障子二間残
す位で家屋
は流れ出し
たと伝えら
れている。小市では、障子上二間残す位では流れず、激
水梁を洗うに至って浮出し、退水の際に流れ出したと言
われている(30)。
洪水は一瞬にして川中島平をひとなめにし、多大の被
害をもたらした。松代藩内の状況は次の通りである(31)。
田畑の被害 村数八十ケ村 三八八四〇石余
(内田二七九一三石余・畑一〇九二七石余)
山抜崩 七二ケ所
犀川千曲川
筋国役普請土手流失 三九四七間
用水堰抜崩並大破 大小一四〇ケ所
居家流失(在方之分)
半焼流失 二〇〇軒
半焼浮上流失 六〇六軒
半潰流失 一六六五軒
死人(在方) 二二人
尨大な被害を出した洪水も、当日の十三日九ツ半頃よ
り少しずつ引き始め、翌十四日の朝方には六分通りとな
り、翌々十五日には、避難していた人達も家に帰りはじ
めた。
家に帰っても、数日前とはうって変わり、家は流され、
田畑は巨岩や砂礫が厚く敷きつめ、河原と化した有様を
道の北側が高い石垣積みの中町
目前にして、人々は途方にくれた。
余震
震度7以上に及ぶ地震のあと余震がつづいた。次の表
は、松代藩で体感余震数を記したものである。
余震数
月日
3/24
25
26
27
28
29
30
4/1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
4/11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
回数
39
69
56
80
82
86
39
39
57
23
29
28
37
16
36
21
16
13
25
7
14
12
17
3
13
20
5
8
14
13
7
(正午迄)
(33)救済
松代藩では、被災者に炊出しをした。
小市村神明宮の大門に於て、十五日より二十日迄六日
の間米数百俵ずつ御炊出し有之。
犀口の普請所にて、二十日余りの間日々千人余ずつの
賄と、酒とみそ汁も一度ずつ搔立汁にして給わりぬ。一
人前二合五勺にならして実は三合宛に、他所者までも被
下し、有司も同じ賄也。酒は茶わんに二つつつ。小市の
塚田源吾が献上せしという。家を潰、業を失い、穀を失
い、飢に臨む者共殊の外有難かりたると云う(33)。
藩では、炊出しのほかに、社倉の穀物の放出・米の値
上がり防止・大工トビ職の手間代高騰の禁止などの諸策
を講じた。
また遠く越後から救援米がとどいたり、江戸の豪商か
ら善光寺町へ義捐金が贈られたりしたが、被災者の多く
は、飢えや寒さを長いこと忍ばねばならなかった。
その後松代藩では、上納を未年より子年まで六ケ年間
免除し、いろいろの「引」を定めた。
復興
善光寺地震は、震度七以上という震災に続き火災洪水
と三つの災害が重なったため被害は史上例をみないもの
となり、松代藩では幕府に二万両の借金を願い出た。ま
た、その復旧には三十年もかかったと言われる。
本稿では、最も小市村が被害を受けた水害についての
み記す。
水害の復旧は、洪水で運びこまれた巨岩巨石と、おび
ただしい量の砂礫を取り除くことから始められた。
弘化四年四月十八日記録の真田信濃守の上申書には、
「百数十人にて難動程之大石を河下或は河辺村内耕地へ
押出申候」とあって、かなりの巨石が流れこんだことを
示している。
これ等の巨石は、現在では見ることはできないが、庭
石などに使われているものがあるといわれる(34)。
塚田之安氏宅のだるま石が、その一つである。連日石
運び人足三百人を雇い、欅のそりで運んだので、「このだ
るま石はたくさんの飯を食った。」と塚田家に伝えられて
いる。
岡村半六氏
宅の夜燈石も
当時のもので
ある。夜燈の
台石は仏沢附
近から、笠石
は両郡橋の上
手から運ばれ
た。また火ほ
こは、真神山
産の仏頭石
(ブドウ石)
である。
また砂礫に
ついては、四
ツ屋村あたり
では東西方向に堤のように堆積していたといわれ、地下
一米にしてようやく旧耕土が現われ、中島では九十糎の
所に麦畝が発見されたという。
これ等取り除かれた砂礫は山に積まれ、春はスイバ、
秋はススキがしげり、狐や狸の巣となっていたが、後に
信越線の敷設や県道建設に使われた(34)。
一方治水利水については、現在水際からかなり離れた
町南沖の耕地内に、鍵の手形の特徴ある堤防が築かれて
いるが、これは善光寺地震後弘化五年(一八四八)に築
かれたものである。
塚田之安氏宅のだるま石
岡村半六氏宅の夜燈
現今町南沖に築きたる堤防は、当時護岸工事と称し、
国役堤防と称せり。当時水田を復活し、荒廃せる土地の
開田に努め、剰余の土砂を以て堤防を築き、一石二鳥の
栄により構築したるものならん(35)。
この国役の堤防は犀川の両岸に築かれ小市村より川合
村まで続いていた。弘化五戊申五月初旬、小市村より丹
波島を経川合村まで、犀川両側土堤。此度大災に付、松
代表より公儀へ御願。則公儀之御手普請にて、御勘定方
鈴木蓑之助様、同松村大四郎様、御普請役小林大太郎様、
同玉井銀十郎様、同谷津孫一郎様、西村覚内様
右丹波島に御止宿。土手見事出来仕候(36)。
また、用水路は土砂礫の堆積により完全に破壊されて
しまった。川中島平では、飲用水まで事欠くに至った。
松代藩では、日々数百人の人夫を集め、昼夜兼行で堰の
掘り立てをし、五月十五日に五ケ堰の通水をした。
しかし、その後犀川河床の低下により揚水が困難とな
り、小松原裏側に取水口を作り隧道による導水を完成さ
せた。
小市村でも、町南沖での揚水が困難となり、上流新橋
長刀地籍に取入口を設け隧道により用水をひいた(37)。
三、資料
(一) 地震洪鏡
(38)嘉永二年二月十六日
信濃水内郡小市村 岡村栄太郎
四海波静かに風枝を鳴さず万民太平を唄う実にめ
でたき御治世なり。かの堯舜の御世も正に是に異な
らんや。
ここに信濃国川中島はその昔永禄の頃武田信玄上
杉謙信竜虎相争うの古戦場なり。弘化四年丁未三月
三百回忌に相当るところ先年戦死亡霊の追善に武田
左馬頭信繁公の菩提所杵渕林典厩寺(39)において十七日
回向あるに日刻は三月下旬なり。未だ結願も相なら
ず同月二十四日(40)。
春三月二十四日
この日は天朗に風清く誠に信濃は寒国にて春の気
色も後れがち四方の桜咲き川岸の柳も繁り増し、都
の錦もかくあらんと老も若きも勇み立ち、遠近畑の
菜の花の今を盛りに咲き満ちてひばりの音高く鳴渡
り面白さ実に春の夜は価千金といわれし白楽天の口
誦みも是をいうやらんもはや日も西に傾けばながめ
にあきぬ気色さえたそがれて遠寺の鐘もひびきて無
常を誘う風なるも浅ましき凡夫の露の身をまた別れ
を告げ友達も家に立ち帰る。
既に初更も過ぎて戌の中(41)刻寝屋の燈火絶え絶えに
近所隣りももの静かに唯かしましきもの音は軒をう
かがふ狗の声、いわん方なき折ころなれ大地頻りに
震れ動きて四方の大乱にはなりにける。
松代町の様子
あらましを尋ぬるに松代中町・伊勢町・本町・鍛
冶町・小越町・田町・荒神町・女田町などいえるも
ののこらず倒れたまま立居るといえども桁をおり柱
をくじき壁を落しぬ。
しかれども松代にかぎりさいわいにも火の用心厳
重なること小屋一軒たりと焼失せざるはこれひとえ
に君の御仁徳のなすところと役人感喜のおもいをな
しける。
このほか表町通り町外在に処々死人怪我人知れ
ず。
善光寺町の様子
同夜同時善光寺町地震にて家九分通り損し、その
上処々より出火しけるはまず東に横山、南に大門町、
西に桜小路をはじめとして後町・西町・畑中・長野
町・西門町・阿弥陀町・賀町・横町・東横町・西横
町・東門町・岩石・伊勢町・新町・淀賀橋・片羽町・
東町・横沢・武井・田町・下城・金谷・権堂のこら
ず焼き払いその上聖人御座所ならびに四十六坊庵・
出店その外猿楽小屋あまた山内に充満しのこらず焼
失。大小小屋・番具・中間およそ六百余人死去の沙
汰。かつまたこの節善光寺において前立本尊開帳に
て昼夜をわかたず遠近の男女町家に満ち、仏前にお
いては数多の盛物ぜい味をつくし花瓶の花木は林を
かざり数多の燈明堂内を照し庭上には幾万の夜燈を
ともし、その外東町からの燈篭は山内に満ちさなが
ら真昼の如し。数多の僧侶青斐経文の声に感涙を催
し九品の浄土もかくやと来詣の男女異口同音に称名
の声止まらざりしをたちまち変じて修羅の湯鑊の苦
しみ、梁にふさがれ柱たる木の間にはさまれ泣叫べ
ども更に救う人なく、親を助け児を救わんとすれど
も是を助くることあたわず。中には腕を折り股を削
り逃げ去る人もあり。
火災
折節南風激しく火塊を吹立てるありさまは秋風の
木葉吹くにひとしく火は処々に散乱し、その上酒屋
いんしょう店へ火移り、その音堂々として山谷を動
かし火花は山家へ散ず。あまつさへ湯谷など数十人
湯坪の中にあるが屋根または天井など坪の上に落ち
重なり出ることあたわず。おいおい湯はたぎれ湯玉
は端にほとばしり生きながら熱湯の苦しみ、その外
家ごとに半死の者は腕すね腰ひざ次第に焼け来たり
その苦しさ目もあてられず。
また処々にありあわす無疵の人も四方八方の火は
霰の如くとび来り、煙は天をこがし地上にみちこれ
がため方角を失い火の中にとび入り死する人その数
知らず。あゝ悲しきかな数万人の泣叫ぶ声は近辺に
とどろき、そのうち大勧進半焼。山門御本堂は残り
しかども大地震ゆえ大半損じ、ならびに御本堂西の
釣鐘をゆり落し敷石ははじきその上夜燈の分はのこ
らず倒れその騒動いくばくぞや。筆に極めがたし。
さてまた善光寺如来朝日山へ御罷越あそばされ光
明赫爍なる趣きに人立伝えけるを大勧進ならびに回
六場町内老若男女奇異の思いをなし追い奉る。善光
寺の裏箱清水の前沖へ安置し奉る。
この外裏町通り小路小路死人の数算之難く此の死
人七分通り旅人凡そ一万人余焼死と聞きおよぶ。あ
われを催しける。
もっとも翌々二十六日暮れ方に漸く下火に相成り
おいおい消しに相つきけるは東に相野木南に下後町
西に越村なり。
虚空蔵山崩れ
犀川湛水
この節大地震のため処々の水口残らず切れ潰れ道
橋損ぜしめ火消すことあたわず。ことに裾花川山崩
れにて溜り、同犀川同夜九ツ時山平林村虚空蔵大抜
川向い水内村口花倉山へおしかかり抜け口凡そ一里
高さ八十丈あまりくずれ落ち、その上村方二か村は
犀川へ押埋め、溜口の高さ七十丈余り、突留りの厚
さ八丁余留上がり水一滴も流れず。すでに二十四日
の夜より四月七日まで十四日間も通しかどももとの
犀川へ水少しも流れず。されども未だ溜口の絶頂ま
で三丈あまりこれあり。おいおい留口まで満つる節
は如何ばかりなる。満水に相成かもはかりがたきた
め川中島はいうに及ばず川上川東の人々に至るまで
山家へ引き移り、別して島の中は寺尾山・柴山・大
室山・清野山・岡田山辺へ逃去り、萱野柴原にたた
づみ夜露野風にうたれ、山林にさまよい、ここの岩
間やかしこの木影に風しのぐ手だてもなく当惑のみ
が多く。貴賎貧富おしなべてその嘆き悲しきことば
かりや。
馬髪山山崩れ
ことに小市舟渡の上の山馬髪山の半分余りくずれ
落ち犀川をよぎりしかば御領主御名代として横田甚
右ヱ門様御本陣は小松原裏天昌寺山の麓犀川筋の此
方に据えられ丸に白一黒一の紋付けたる大幕をうち
張り、御自営には六文銭の御旗を押し立て続いて御
勝手御家老職には恩田頼母様。白地に花巴の大幕を
うち廻し赤地の咲返しを押立て御陣を据えられ、御
助役として岩下革。郡奉行所にては磯田左ヱ門・竹
村金吾。公事方奉行所にては山寺源太夫。道橋奉行
所には宮島守人・弥津清之助・拓植嘉兵ヱ。その外
数百人御出張の上私領御領の差別なく男たるもの十
五才以上六十才まで農家町家にかかわらずよび上げ
られ右場所切り拓き川中島水防の土堤石俵数万をも
って築立て、なおまた食物の儀は壇の原において近
在の男女数百人よび集めおたき出しこれあり村々役
人へ割渡しむ。
混雑これなきよう村々の旗自営に押し立て、進退
の時節は貝太鼓をもって合図を定め諸将はいずれも
川の半途にお進みあり河床をめぐり八方へ御意をあ
てはしらされ御下知これあり。
その外改めの者は時々見廻り人足伴行これなきよ
う相励まし寝食を忘れ相働き、ことさら御郡中石工
職人数百人よび集め、大石の分は割取り百人指以内
の石は割りそりならびに縄車をもって巻取り鍛冶職
の者は右人別道具先掛けその繁多なことをあげてか
ぞえ難し。
松代飛驒守様御知行所上氷鉋村御代官東福寺源太
夫数人を引率し下堰口用水の右手に御出張これあ
り、数十挺のもじりを結び精魂を尽し御指図これあ
り。
上流の水没村々
もっとも水の儀は前条の如く一水もこれなく。か
つまた山抜の水上そのおびただしきことまず水底へ
沈みたる村方あらましの分平水内・三水・浅野・平
林・岩倉・新町・穂刈・吉原・竹原・牧之島・和田・
大原・日名・橋木・♠順・川口・安川・大日向・町
田・下岡・小島・長瀬・代村・越・中川・佃見・桐
津・下生坂・野平・その外数十ケ村沈没し拾里余り
水勢ほとばしり、当時松本平へもたたえ数多水損も
これありつ。
稲荷山・矢代宿の出火
同夜同時稲荷山宿のこらずゆりつぶし、その上
処々より出火つかまつり翌々二十六日にかかっての
こらず焼失。死者三百人余旅人凡そ七百余人と伝え
ける。その外帰家人数知れず。二十六日矢代宿より
も出火。
余震
もっとも地震の儀は日に七、八度ずつ鳴る音雷の
如く四方の山や谷にひびき傾きたる家はおいおいゆ
り潰し、まま出火などもこれあり。ゆえに諸人家々
の庭前に仮家をしつらえ数日を送りける。
飯山城下焼失
飯山城下同夜同時残らず押し潰しその上一円に焼
失いたし、ことに御城も沼中へ一丈余りも沈み破却
しけるとかや。
寺院の被害
そのほか在々町々家宅土蔵などは幾万とも算え難
く。かつ処々の霊場においては仏都の内は筆先に載
難しといえども、今ここに大寺の分一両寺を記せば
東町康楽寺・東門勧化寺・権堂町の妙行寺・後町正
法寺は御堂は残りしかどただ立居るのみ境内諸堂残
るところなく焼失。その他塩崎村の康楽寺・岡田村
竜峰院・同勧照寺・南原村蓮香寺は御堂半潰れ境内
諸堂のこらずゆり潰す。念仏寺りつ雲院・岩石の正
浄寺・陀立村の妙昌寺この外処々に破塔の境内もあ
りといえど算え難くして是に略す。
その上水難の儀は右ていのわけがらゆえ善光寺一
円は如何相成るべきやははかりがたく恐しさはなか
りけり。
地割れ
なおこの外町内村中地震にて境内相割れる所ある
いは二、三尺場所柄により九尺壱大相割れ深さ幾拾丈と
もはかりがたく。かつまた横合いまたは田畑の割れ
たる場所へは水吹出し。または黒泥・赤砂・貝柄な
どあまた吹出しける。
この度の儀は御領主はもちろん下万民にいたるま
でその嘆きいくばくぞや。
四月八、九日の大雨
しかるところ同月八日より翌九日に及んで大雨篠
を乱し山々巌より滴る水は谷川へ落重なる。
十一、十二日犀川常の程流れる
この時岩崩れんと水下数ケ村の男女山野をさまよ
い寝食を忘れ時刻を窺うところに、その翌十日の暁
頃より留口の岩のはざまより水少し落ちはじめ暮れ
方には余程太り、十一、十二日にかかりては犀川常
水程流れしかどもこの留り右虚空蔵裏山くずれ落ち
安庭村へ落ち倉古宿を押しくずす。川向い下長井村
の右手につきかかり高さ拾丈余り厚さ二町余。もっ
ともこのところ北は長尾山、南は虚空蔵にてその間
わずかに二、三町にして川巾せまき場所ゆえ至って
深く常に水勢銛にして矢を射るが如くなるを一円に
〆切りたることなれば是に堪え難く。
四月十三日留口決壊
すでにその翌十三日の昼九ツ頃までには右場所に
充満し危く相見えけるところ、なおまた一留の留口
においては同日昼後より水留口頂に満ち滝津瀬岩を
たたき石を飛ばし、その上水上は数万軒の家水面に
浮みたるを滝口に覆いかかり、岩間に挾り水をさえ
ぎるゆえ上手の水上数多の船をもってのり切り水障
りこれなきよう岸の方へ片付けその励ましきこと
中々言語ること尽し難し。
しかるところ八ツ頃北風(42)頻りに吹き立て岸をうち
数多の船は山岸へ吹き付けられるゆえ船子の者共無
気味に思えば、よく見合いいたるところ凡一丈余り
の竜波二、三度四、五度打ちつくと見えしがその音
百千の雷の一時に落重なるごとく山々に鳴渡り、
谷々震動して溜口の半途より裾を抜き大石を飛ばし
波逆立ち突落す。水煙は深くさながらおぼろ夜の如
く半里四方へは雨を降らしける。
かかる大川二十日余り留上げける水は幾ばくぞ
や。野山沢谷に満ちたるを一度に押下すゆえ何かは
もてたまるべきや。唯一波にこの留りを突崩し安
庭・長井・笹平・花上・村山・飯森を一時に押流し
場所柄により川巾細き場所は岩をつんざき山を崩し
直ちに小市舟場近く押よす。
このありさまにはかねて御領守様より御遠見仰付
けありけるゆえ笹平向山においては合図の火の手を
上げると見えしか、虚空に紅白の二流れ夕風になび
くを見て続いて長久保の此方花上裏坂において陣鐘
を打ち立てる。
川中島ならびに川北水防の土堤数千人をもってひ
きも絶えず御築立てこれあるところ人夫諸道具さえ
もとりあえず野山に散乱す。
小市村をただ一波に押流す
先波は小市舟場間髪抜口へ押しかかる。そのなり
わたる音耳をつらぬくばかり拾里四方へひびきわた
るとおぼしくすでにくずれ口の高さ三拾丈余りもこ
れある場所ただ一波に押破り土堤を越え石をとばし
川筋一円に押し出す。
小市の御普請所の土手三百間余り一度に押切り小
市村をただ一波に押流しその波先久保寺・小柴見村
前より荒木・吹上・中御所・市村・川合・松岡・大
豆島へかかって押出す。
川中島を襲った水勢
なおまた、川中島水防の土堤もあやふく見ゆると
ころその波先たちまち堤上へ三丈余りも高く押重ね
押来る。何にはもってたまるべきや。
御仁情をもって諸役人その外幾万の辛労をもって
築立てし土堤もむなしく一時に四、五百間押し崩し、
その波先鋭きこと砂石を飛ばし水煙を立て樹木を押
したおし高波を立て四ツ屋・中島・小松原・今里を
かかって押出す。
そのありさまは、あたかも大山の押来る如く白波
は天をみなぎり水煙にて一町先は闇夜の如く四方八
方へ押出す。
小松原・今里への流れ
まず小松原・今里辺へ突かかりし水は、今井・三
ツ沢・五明を横に遍り北原・南原・貝沢・高田・柴
沢・今村・御幣原より弥勒の裏手を通り下横田・小
森より千曲川を突切り岩野・土口より雨宮の裏手へ
おしかかる事に至って猛勢にして大家小家土蔵堂社
の差別なく当るところただ一浪に押流す。
そのありさまは、実に磐石をもって鶏卵を潰すに
異ならず。大石を押しのけ土堤をつんざき。または
大石を押流すこと早瀬に木の葉を流す如く急という
も余りあり。
四ツ屋・中島への流れ
さてまた四ツ屋・中島につっかかりし水は、両村
のこらず家蔵をも押し流し、その浪先上氷鉋小河原
通り・新田・沓野・北戸部・上布施・下布施・境村・
藤牧・広田より五ツ沢大土堤にて二手に分れ北は上
小島田地内野田組を一浪に突流し、紙屋より大塚へ
押出す。南は下布施へ突かかり東福寺・杵渕・岡村・
中沢・水沢・神明・八幡原前より千曲川を押切り西
寺尾をたちまち川中にとりまき東寺尾・田中・加賀
井へ突出す。
丹波島への流れ
さてまた中島より裏手へ突出すれば、丹波島裏御
普請所の大土堤七、八百間押切り水々押合い青木
島・綱島・北島を前後とり巻き大塚西組を突切り真
島村地内梵天組へ波先はげしく突かかり川合・前渕
本堂より大久保へ押出し、千曲川を横に突切り大
室・離れ山を水中にいたし、北は亀岩へ突かかり韮
崎より浅間御山の右手へ押かかる。このところいた
って山の洞合ゆえ水暫し漂い、村の清水山の神辺へ
突かかる。
境への流れ
さてまた三ツ股の此方より境村前沖へ通る水は、
藤牧・広田の裏手より五ツ沢土堤のはるか南の方街
道筋へ押しかかる事に至って、猛勢にして高下の別
なく流家数多押来り、小島田西原より弓手に突かか
る。
しかるところ右手なる大土堤しばしば切れざると
ころ、名おう大水ゆえ浪先銛にして、ともすればあ
やうくみゆるところ追々大浪押切って中頃押切り小
島田村・北村前沖より常照寺へ突かかる。すでに境
内の辺に家七、八軒突かかる。
なおその近辺へ流家押来ること幾程とも算へ難
し。
さてまた前後水巻送り立て、池田のうらより花立
を押し切り柴村へ突かかる。大鋒寺の境内を横に遡
り、名におう松原の半途を金池へ押出し釜屋・牧島
を押しはらい鳥打峠の表坂より、大室・兎久保の中
野谷口へ突かかり辰の口へ押出す。
なおこの近辺五、六尺の酒桶その外家小屋衣類家
財など数多押寄す。同村善福寺の境内を突切り、既
に門前をここかしこの舟いかだ、命限りに北谷中谷
の半途にこぎゆける。
舟による救助
かつまた舟渡の儀は、水主の者ども身命を投げう
って岡崎・牧島・柴・寺尾・赤坂・笹崎・矢代その
外小渡にいたるまで逃げ来る者数千人是を送りけ
る。
しかるところ犀川筋へ押出す浪先、牛島・大豆島・
川田辺へ充満し、千曲川へさしあたること大山の押
来るごとく、直ちに岡崎の渡舟亀岩坂の中途へ押付
く。その波先の猛勢なること筆先に尽し難し。
実に千曲川の流れは甲州より東国に落ちて東は上
州境へ。碓氷峠・浅間ケ嶽その外の嶽々浄浄の水幾
億とも落重ること莫大なり。古歌に、
水上は甲斐の境の遠近の幾里通りて千曲かな
かかるするどき流れを犀川より突揚るゆえ浪逆ま
くことおよそ二、三丈と相見えける中をも舟子の者
はかねての御下知に心配り舟や艫舳の続くだけ逆巻
く波をのり切り、逃げ来る者を助舟して、別して寺
尾・赤坂は通路のよろしき場所ゆえ老若男女の落重
ること山の如し、中にはこの有様をみて引返し立木
に登り、または家の屋根に登り、親兄弟妻児をした
い、巷に散乱し浪におぼれ死する者その数あげて救
い難し。
しかるところ大浪四方八方へ押来り、ことに日は
西山に傾きたそがれに及びしかば是非に及ばず、最
寄の立木に舟をつなぎける。
郡奉行竹村金吾の活躍
また小松原御本陣先の大浪、既に御普請所の大土
堤押切りそのまま御住居い遊ばされしため御郡奉行
竹村金吾その身軽げにお立上りには、黄色の陣羽織
を着用し、馬引きよせて打ちまたがり両角蹴込んで
逆巻く浪を乗切り今里・北原・本戸部へかかり、東
福寺古の宮を右に見やり、馬喰町へ田岡道の差別な
く三里余り乗付く。
実に頼朝公以来の名家にて、マツ馬の良家たるに
よって良馬多くありて、かかる満水をもものともせ
ず馬の蹄を躍し、あたかも宇宙を走るが如く、やゝ
もすれば大浪馬のたてがみに打ちかかり、見えかく
れの有様は実に天正の頃明智左馬助光俊。江州瀬田
の唐橋より唐崎の松を目当に、湖をわたりしもかく
やと知れり。
元来竹村金吾馬術は大坪流の達人にして、千辛万
苦の手練ここに見聞の人舌をふるい恐れざるはなか
りけり。
さてまた戊の中刻には、南は妻女山西は岡田山よ
り朝日山に続き。下は浅野の金箱・三才辺。川東は
中野平・小布施の手前より小河原・須坂の弓手にか
かり、井上の辺まで平面浪と相なり、さながら満々
たる海上の如く、住み馴し里は水面をかすめる月に
村毎の木々の梢も先ばかり見え、山の出先や谷間に
は、親を失い妻女にわかれ嘆き悲しむ者幾莫ぞや。
かつまた川中島数百軒の内には、足手弱き者に心
ひかれ逃げおくれ、高浪にまくり立てられ樹木に突
きあたり易きゆえ、ともすれば木倒れ溺れ死する者
その数知らず。
または流家にとりつき、山の出先または森木など
に吹きつけられたすかるものもあり。
あるいは小舟をもってかこい桴を組み、これをたより
にのり出す者もこれありけるも荒浪にたまるべき
や。舟はここにあたり、彼所に突きかかる。桴はた
ちまち組子の縄も切れしと見えて処々へ破乱するゆ
えに、高浪に浮きつ沈みつ巻きたてられ溺れ死する
者その数多し。
藩主引き移り
ここ一際目立ちて西寺尾・中島組より乗出す大舟
には、艇先に六連銭の御紋の絵書付けたる高提灯数
多照し、舟には幾多の艫をあて掛、舟子の者ども拍
子を揃い、住家の軒に舟を飛ばし、名におう並木の
松を北に見やり、岡崎の宮の此方より古川を乗切り
御城目当に漕ぎよする。是で君の御乗舟西条の狼煙
の城の麓武盛大明神別当開善寺へ御引移りもこれあ
り。御用意兼ねてありお知らせける。君には御本城
より桜馬場御御仮御殿へ移せたまう。
諸役人は詰所をかため。そのほか御家中にはいう
におよばず、町家にいたるまで御城をかこみ、危を
防ぎ君を守護する。
実に厳重なること漢の高祖はじめ秦に入り有りし
時[蕭|しょう]河の老父に命じ律を定め民を撫育せられしに、
諸人此君になつき奉ることまさに秋風に草木のなび
くが如く尊敬せしもかくならんか。
周囲をかこむ大かがり火
かつまた深く御仁恵をもって、北は小市山より小
柴見・久保寺につづき、西は小松原御本陣より岡田
へかかって、南は清野山より寺尾山・柴山・大宮山・
亀岩坂。そのほか最寄の山の出崎峠の半途において
数千万の薪をもって、大かがり火を御たかせこれあ
り。
これひとえに川中島に残れる人々夜終り、梢にと
りつき流れにすがり屋根に登り嶋にたたづみ精魂を
失う者その数を知らず。御遠察宛なりし火勢人数を
もって労苦を救わんがためなり。
この時川中島平一円に白浪となる中に上小島田地
区八幡原いたって高地と相見え、宮地四、五十間四
方へは水つかざるところここに気を得て、老若男女
命限りとりつき、または流れつきかつは是を見当に
高浪をかき分けおよぎつくる者もあり。彼方此方よ
り集まる人々およそ二、三千人余り。
その外高地老木の梢につきおる人々四方の大かが
り火を見て是に気を得、ときの声をあげ力を合わせ
しかども生きたる心地でなかりける。
滅水
しかるところ夜の九ツ半(43)頃より水少しひきぎわに
相成り、翌十四日の暁頃は六分通り落ち、その上翌
十五日には山家へ逃散せし人々おいおい貴賎男女渡
舟いたし家々に帰りけるにぞ。
先にいう処にて、あるいは家を流し愁うるもあり
親を亡し児を失うて悲しむもあり。浸水の家は壁を
突きはらい戸障子をくだき流木を押込み敷居鴨居を
はずし家財を流しただ立居るのみ。
別して四ツ屋・中島・小松原・上氷鉋・小松原辺
にかけては衣類は申すにおよばず、家蔵菜屋物置等
にいたるまで残らず押流し、あまつさえ田畑へは二
間三間または四、五間位の大石数多。その外五十人
指以下位の石は幾程ともなく押来り、平一面に河原
とあいなりこれまで先祖旧来田畑並びに居屋敷のさ
かいさえわかち難く実にみすぼらしき有様はいうも
愚かなり。
炊出し
昨日の浅瀬今日の渕。有為転変の世の有様。しか
るを厚き御憐慰をもって流家はもちろん水差分まで
のこらず食物御炊出しこれあり。
まず川東小島村神明宮の大門において日々数百俵
あて十五日より二十五日まで御助くだされ、川中島
は名おう甲越の両将相戦いあいし八幡において仮屋
をしつらえ大幕をうち廻し、日々数百俵ずつ御炊出
しあらせたまうにつき右場所はいずれも老若男女の
集り真に雲霞の如し。
救済
なおまた西口は壇之原川原においていずれも仮小
屋をしつらえけるゆえその後より五月初旬まで十日
のうち一人につき日々米五合あてくだしおかれ、そ
の上家人別へは家代をあてくだされ、その外材木等
の儀は大室山・川田辺より御伐出しめいめい分限に
応じ是をあてくだされ、水差入分には多少に限らず
分出しける。
御郡中へかねて御積畳たまう社倉穀御施し分けあ
てくだされ、秋作取入れの節まで御助力あてくださ
る。貴賎おしなべてありがたく落涙を催さざるはな
し。
この外村々あまねく穀ある者はその最寄へ融通い
たし、秋鎌入れに至るまで相互に実志をもって融通
し、強きは弱きに手伝い。富めるはおとろえるを助
け、専ら耕作を相励み渡世しけるも是ひとえに君の
御仁徳のなすところなり。
この度君の御物入りのほどは幾莫ぞや。およそ流
家一万軒の上もれざるよう御手当あり。それぞれ食
材木等にいたるまで御助成なしくださる。
その外山中筋山くずれ村ごとこれあり。多分の御
損失右等へもそれぞれ食金子等にいたるまで御手当
くださる。
追善供養
これによりて暫時世上おだやかになりければ、焼
死溺死追善供養のため諸家へ潔斎修行仰付けらる。
まず第一番には四月二十八日には松代長谷村。場
所は上杉謙信先斗御陣営あらせられし妻女山におい
て大施餓鬼。修行別に供養塔は西寺尾の渡場におい
てこれを立てらる。
第二番目には五月五日大栄寺。これも同じく妻女
山において大法事。修行別に供養塔は丹波島川原に
おいて是を立てらる。
その外諸寺諸山において亡霊罪障消滅後生安穏の
回向千曲川犀川あたりにおいて未曽有の大法事これ
あり。実にありがたきことどもなり。
用水堰立て
さてまた川中島においては用水口残らず損じ、そ
の上堰水筋一円に川原になり、何れがそれと分ち難
きゆえ、出水後は川中島はなはだ用水に困窮いたし、
井水もこれなき場所は十町二十町余も歩行を運びそ
うらへども、このままにすぎ行き候へば、稲作はも
ちろん、諸作養い方、日日夜々のいとなみも如何相
成るべきと是を悲しむところ、君の御仁情をもって
新に堰水形御見分これあり。別して道橋御奉行宮島
栄人・弥津清之介・拓植喜之助。用水がかりとして
春日儀右衛門・草川吉右衛門・久保孫右衛門。その
ほか諸役人御出張これあり。
川中島は御領私領の差別なくその外御郡中ならび
に御城下町にいたるまで日々人夫数百をおよび上げ
堰水敷御堰立これあり。
大石の分は、割りまたはそり縄力をもって巻上げ、
水除大土堤は大石を組み上げ、覆八間余り築留四間
余高さ三間余に御築立これあり。諸役人ならびに人
足等にいたるまで心魂をくだき、精力を励ますとこ
ろこの勢によって時日を移さず五月上旬までに上中
下堰小山にいたるまで残らずほりあげ、いずれも大
水門を立て、なおまた強水除けの大土堤厳重にして
吉日良辰をえらみ、同月十五日五ケ堰一様に入れい
たしよって諸役人ならびに堰方世話役村々役人御郡
中人足にいたるまで御盃頂戴仕り一同ありがたく帰
村いたし、よっておいおい稲作仕付け、五雨十雨に
したがい万民安堵の思いをなし、君万代不易を唱い
奉る。
仁政を讃う
天性とはいいながら、かかる御仁君の御ひざもと
にかかる大罪もこれあるは万代不聞の異変にて、お
びただしきおそれまことに生者必滅とはいえども忘
れがたき恩愛の道、会者定離ありとはかねて知りな
がら、昨日今日とは夢幻の心持して親兄弟妻子夫を
見殺すも、これ前世の宿縁ならんか。
伏して願わくば神国の徳風永世に仰ぎ、邪曲の人
を起さずして正路にいたらば神霊の応護あらんこと
うたがいなし。
つつしめや後人の心かならず後鏡たるべし。
あらまし見聞せること記すといえどもなかなか筆
紙に尽しかたく、ただ子孫君恩の伝へ地震洪水の異
変をしらしめんためなり。
前後混乱したりといえども略事をさらせし者也。
大尾
註
12 新暦では、五月上旬午後十時頃にあたる。
13 「長野」昭48「岩倉山崩れについて」高橋和太郎
14 「みすずかる信濃」昭16長野放送局
15 「長野市史考」昭44小林計一郎
16 「信濃毎日新聞」明35「善光寺大地震」露香
17 「地震記事」鎌原桐山
18 著者は、松代藩家老河原綱徳
19 塚田之安氏の祖父。佐久間象山や松代藩士との交流
があり藩の郁役。酒の醸造等をなし、経済的に豊かで
あった。
20 「七二会村誌」昭46「大地震変災始末記」
21 「虫食日記」信濃史料叢書巻九
22 「地震洪鏡」嘉永2岡村栄太郎 岡村康雄氏所蔵
23 「小田切村誌」昭40
24 「七二会村誌」昭46
25 「長野」昭48「岩倉山崩れについて」高橋和太郎
26 「長野」昭46「善光寺大地震大災犀川大満水両変災記」
27 「虫倉日記」
28 「長野」昭48「岩倉山崩れについて」高橋和太郎
29 「地震洪鑑」
30 「信濃」昭12川中島を主体とせる
弘化震水災雑考 大田繁則
31 松代藩が幕府に届け出た洪水による被害
32孫瀬岩倉
両組弘化四未年三月廿四日地震日記簿によれば、
一年後の弘化五戊申年七月廿日まで地震のあったこ
とが記されている。
33 「虫倉日記」
34 「信濃」昭12註20と同じ
35 「小市土地改良沿革史」小林新治郎
36 「善光寺問屋小野日記」長野市史考昭44小林計一郎
37 「小市用水」の項参照
38 「地震洪鏡」岡村康雄氏所蔵
39 典厩寺(てんきゅうじ)長野市西寺尾水沢。曹洞宗長
国寺の末寺。境内には川中島合戦関係の遺品を収蔵
した宝物館がある。
40 新暦では、五月上旬にあたる。
41 亥の刻。現在の二十二時。
42 八ツ。今の十四時頃。「地震記事」では申の頃(今の
十六時頃)決壊と記されている。
43 夜九ツ半。今の一時頃。
44 文部省国立史料館所蔵真田文書
45 この年表は「千曲川治水誌」昭32建設省・「長野県政
史」昭47長野県・「小市村土目録」等によって作成し
た。
46 「善光寺大地震」正覚院所蔵