[未校訂]善光寺大地震・犀川大洪水と川中島地方
明治元年(一八六八)十月、地頭の塩崎知行所から上
氷鉋村に出された年貢割付状に、「九十石二斗二合 弘化
四未、地震の節出水にて押払い候場所取り片付けにて砂
山に相成り候分、起こし次第当引き」とある。大震水災
が起きた弘化四年(一八四七)から二〇年も過ぎている。
村の一割の土地が砂山など荒れ地のまま年貢が免除され
た。この水災で土砂礫の捨て場となった「砂山」は、信
越線や県道小松原川中島・川合川中島線など新設整備す
るとき、道路建設資材として利用され、多くは姿を消し
ていった。昭和の末ころまでは、沓町から北河原に通じ
る小道沿いの田圃の一隅には小さな畑が付随していた。
田面と段差のある小畑であった。復田のため、堆積した
土砂を一荷、二荷と取り片付け、捨てたためにできた畑
という(古老談)。災害の復旧に辛苦を注いだ証も、三本
柳土地整理事業によって姿を消した。弘化の震水災は一
世紀以上、数代にわたってこの地に負債を負わせた。
弘化の大地震は、弘化四年三月二十三日戌の刻(新暦
五月八日午後十時ころ)に北信地方から上越地方にかけ
て起きた大地震である。マグニチュード七・六と推定さ
れる激震であった。とくに善光寺町から上水内郡西部山
中にかけて被害が集中した。この地震は善光寺大地震と
も呼ばれ、善光寺町では地震と同時に発生した火災によ
って大門町
は焼け野原
となった。
善光寺領は
町家の焼
失・潰家二、
五〇〇軒・
死者二、四
〇〇人余・
旅人死者
二、〇〇〇
人余の大惨
事となっ
た。松代領
では一五二
町村で地震被害が発生し、山中では五万か所に及ぶ山抜
崩が発生した。とくに岩倉山(信更町安庭)の崩落した
岩石・土砂は犀川を二〇日間にわたってせき止めた。こ
の箇所が四月十三日(新暦五月二十七日)決壊して川中
島地方を一時に襲った。水害村数は松代領だけで、家屋
冠水一八四一・倒壊六二四・泥土入二、五〇七軒、激流
跡は減水するに従い三大支流となって千曲川に入り、三
日後に平水に戻ったと『更級郡誌』は記している。上氷
鉋村では、震死一三人・溺死九人、二〇〇軒のうち一〇
八軒・四〇〇棟が流失し、倒壊・流失を免れた家数は七
二軒であった(『郡誌』)。また田畑は冠水・泥土砂礫入り
となって、この年の年貢は免除された(『地方取扱手続草
稿』)。また、昭和十二年(一九三七)日新小学校の訓導
の大田繁則は『弘化震水災雑考』に水災の痕跡を次のよ
うに計測している。
[水の深さ]
上村・丸田順作家の壁に残る痕跡を測るに水深一・五
メートル。
二枚橋・中山音治家家屋・機織り場壁に残る痕跡を測
るに水深一・六二メートル。
[水災のもたらせる土砂]
上村において深さ四八センチメートルないし五四セン
チメートル。
弘化の水害で流れついた巨石(丸田治雄家庭)
思沢沖において三〇センチメートルないし四〇センチ
メートル。
[流されてきた大石・小石]
寺町丸田平作家のもの、直径二メートル・短径一・三
メートル・高さ一・六メートル、立積三・九四立方メ
ートル・重量七四八六キログラム。
このほかに大きいものとしては、村松貞道家(橋場)
の庭石、古河忠男家(北河原)の夜燈台石などがある。
これより小さいものに橋場の関口元子家・村松久仁彦
家・村松貞道家、寺町の竹内郁雄家・北沢正幸家、新田
の丸田一成家・宮崎茂行家に、それぞれ庭石として現存
している。
これらの数値や流れてきた岩石の数からも、上氷鉋村
の水災による被害が甚大であったことを知ることができ
よう。また、この水災の四月、松代藩の月番家老であっ
た河原綱憲は『むしくら日記』で、「川中島のうち、屋敷
の西方に木を多く植えこんだ家は、その木へ流れた家、
あるいは、大木・材木・ゴミなどが引っ掛り、そのため
水が左右に分けられて流出を免れた」と記している。ま
た、「古くから氷鉋村に山伏の塚と呼ばれる所があった。
犀川の濁流は、それを押流してしまったのか、中から乾
いた化け物(ミイラ)が出土した。これは昔入定した者
だといって唯念寺でとりおさめておいた。追々その噂が
広がって見物に行くものが多かった」とも記している。
この水災で、上氷鉋村は明治二十二年(一八八九)まで
水害の減免措置が続いた(村文書)。
両災による川中島地方の被害(『更級郡誌』による)
原村 南原にて女一人流死。
広田村 一人流死。
下氷鉋村 一人流死・潰屋二〇戸・潰屋二〇戸流亡。
真島村 男二人・女二人流死・潰屋二〇戸・潰屋二
〇戸流亡。
小島田村 女四人流死。
大塚村 女二人流死・潰屋三〇戸・三〇戸流失。
綱島村 女一人流死・悉皆流亡、住民移転。
丹波島村 男女四人震死・潰屋六〇戸・潰屋二〇戸流
亡。
四ツ屋村 七五戸流亡し、五戸留残。
小松原村 男女一一人震死・男女七〇人流死。潰屋一
三戸、三〇戸・一〇〇棟流亡。
布施高田村 潰屋一〇戸・潰屋ほとんど流亡。
岡田村 男女三六人流死・潰屋一〇〇戸・潰屋一〇
〇戸流亡。
今里村 潰屋五戸・一六戸流亡。
中氷鉋村 潰屋二〇戸・潰屋二〇戸流亡。
上氷鉋村 男女一三人震死・男女九人流死・一〇八戸・
四〇〇棟流亡・七二戸留残。
合計 震災死亡男女二八人・水災死亡男女一二五
人。
震災潰屋二七八戸・流亡四三九戸・五〇〇
棟流亡。
布施五明村・御幣川村・会村・横田村、今井村(旗
本松平領)、戸部村(上田領)、上布施村・小森村・東
福寺村・中沢村・西寺尾村・杵淵村・川合村・青木島
村の一四か村は水害による田畑の被害の記載はある
が、死者・家屋の被害などについては記載がない。な
お、川中島地方と隣接の上田領稲荷山村では本籍二八
四人・行旅人一八〇人が震死し、町家の大部分は倒壊
した上、火災のため焼失した。また地頭知行所塩崎村
では震死六〇人、一四〇〇棟が倒潰し、処々に火災が
発生し焼失した。
上氷鉋村は、男女一三人の地震による犠牲者をだし
たが、これを詳細に伝える村文書は伝えられていない。
しかし、災害に遭遇して命を失った時の状況や犠牲者
の思いは近隣の村々の文書を通して間接的に知ること
ができる。地震の後、倉並村(長野市七二会倉並)か
ら松代藩役所に震災犠牲者の届けがあった。松代藩領
倉並村(長野市七二会倉並)は、震源地と推定されて
いる上水内郡西山部、岩倉山系の陣馬平山南麓に散在
する村高八一九石余(『天保郷帳』)の山村である。震
源地に近かったこの村は、家数四一軒のうち埋没二
二・全壊一一・半壊六、人数二二〇人余のうち、六〇
人の犠牲者が出た。村ではとりあえず犠牲者の様子に
ついて、藩役所に「二十四日夜の大地震で山抜けし、
居宅押潰されて逃げ遅れ、徳二女房屋根の下にて変死。
吉兵衛子屋根の下にて変死。弥吉女房茶の間にて変死。
嘉左衛門女房土押し出し先にて変死、顔に少々傷所が
みられる。残り五六人はいまだに不明である」と届け
ている。四ツ屋村では神社の拝殿が倒壊した。翌朝様
子をみに行くと、倒壊建物の下から子供の泣き声が聞
こえてくる。建物を取り除くと母親らしき乞食体の女
が、子供を覆いかぶせるようにして死んでいた。少し
離れたところには、父親らしい乞食体の憎が死んでい
た。村人が子供に聞くと「両親で、松本在からやって
きた。昨夜はこの拝殿で休んだ」という。村人はわが
身を顧みず、身代わりになった母親の心情に打たれ、
洪水で村が流されるまで四ツ屋村で子供の面倒を見
た。(『むしくら日記』)。
洪水のおさまった後、川中島地方の村々では、荒廃
した家屋、耕地の復旧に追われた。その上、さらに犀
口用水堰の復旧普請夫役にかり出された。『犀口万年日
記帳』によると、大水害で下堰取水口付近の堰敷は石
河原と化した。下流には全く水が流れて行かない。田
水だけでなく、飲料水としても堰水を利用している川
下の村人の生活不安は増すばかりだった。そこで、下
堰組合は四月二十三日、関係村々から人足を動員して、
とりあえず復旧工事を始めた。古堰は大岩石で埋まっ
ているので、新規に堰を掘った。四ツ屋村の庚申待居
から下流の岩石で埋まっていないところは、今までの
堰敷を掘った。岩石が入って困難な場所は新規に堰を
掘り割りした。庚申待居の上流、およそ五〇〇メート
ルの場所は、今までの堰敷を掘り、そこからさらに上
流、およそ四一〇メートルの場所は、新規に掘り割っ
て、五月十五日(新暦六月二十七日)ようやく通水を
みることができた。延べ一万七、八二八人の人足は、
村高に応じて負担した。このときの上氷鉋村の割り当
て人足は、四、七五〇人となっている(第三章・「用水
の確保」参照)。
犀川の激流が、川中島地方を襲った四月十三日は、
新暦では五月二十七日にあたる。多くの農家は、苗代
の「すじ蒔き」も終わり、麦刈りにはまだ日もあると、
ほっと一息ついたころだった。そこへ突然襲った大激
流。苗代を押流し、収穫まじかな麦を押し倒し、激流
は千曲川へと奔った。文政十年(一八二七)の上布施
村『年中種蒔仕付物書上帳』に籾の種蒔きは四月中日
より七日目、田植えは半夏前後三日のうちに行なうと
ある。新暦に改めると、籾の種まきは五月二十五日こ
ろ、田植えは七月二日の前後三日に行なうということ
になる。また、東川田村役人の記した『大地震・大洪
水日記』に「川辺の川中島地方の村では、すじの苗間
を山方の村へ頼んでおき、六月一日(新暦七月十二日)
ころ、東川田辺りから苗を送り届けて、二十日あまり
遅れて田植えをした」とある。大洪水は、その後の農
民へ労務・経済負担を強いたばかりでなく、農事暦ま
で狂わせることになった(『むかし戦場になった村』)。