[未校訂]弘化四年の地震 この後、越佐で起こった地震では、
「大地震略日記」 次のものが知られている。
・宝暦一二年(一七六二) 三月 三日
三条近辺地震
・享和 二年(一八〇二)一一月一五日
佐渡で大地震、潰家千
・文政一一年(一八二八)一一月一二日
三条地方大地震、潰家二万軒余、死失人一五〇〇人余、
・天保 四年(一八三三)一〇月二六日
越後・佐渡に地震、津波襲来、
(『新潟県史通史編3』)
このいずれの場合も当地には特別な被害はなかった模
様で、これに関する記録はみられない。しかし、弘化四
年(一八四七)に北信濃方面を震央とし、俗に「善光寺
崩れ」ともいわれる地震は当地にも大きな被害をもたら
し、いろいろな記録が残っている。その一つに、「大地震
略日記」(写真5―84)(以下「日記」)がある。これによ
りその状況を見ることとする。これにも、やはりまず、
震災の後に思い当たった地震の予兆のことが記されてい
る。
正月三日、寒風、赤雪降り候えども、何心なく罷り在り候
処、九(寛延地震のこと、正確には九六年前)拾七前の大地震春中赤雪降り候由承り候、右等の事
共、皆、是、非常の記(しるし)にやと存られ候、二月四日、日和、
その夜(午後八時ころ)五ツ時頃地震これある由
三月二十四日、地震当日は、「昼夜快晴、暖気穏やか」
だった。その夜、「亥(午後十時ごろ)の上刻」ほどと思われる時刻に北西
の方角で地鳴りがするやいなやはげしい震動が起こっ
た。
田中家では、灯火が揺れて消え、家中が暗闇となった
なかで、大勢の家族や使用人が戸障子を踏みはずし、押
し破って戸外へ避難した。まずは全員が無事だった。家
の倒壊は免れたが、家の天井張りが落ち、壁がひび割れ、
崩れ落ち、屋内の飛び散った壁土と[煤|すす]で座る場所もない
ありさまだった。夜明けまで強い余震が絶え間なく、戸
外にたたずんだままだれも眠ることができない状態だっ
た。
以下気候と余震の状況を抄記する。
・三月二五日、快晴、夜に入り九(二十六日午前○時ごろ)つ過ぎより小雨、余震は
小さくなったが止むことなく続く。
・三月二六日、朝より曇り、四(午前十時ごろ)つ過ぎより小雨、風も出
る。余震止まず。
・三月二七日、快晴。
・三月二八日、曇(史料には「快晴にはこれ無く)天。南風気味。朝(午前二時ごろ)八つ時余震。
六(午前六時ごろ)つ時にも余震。
・三月二九日、曇(前同)天。午(正午ごろ)の刻大地震。二四日の本震より
も強く感じる。但し振動の時間は短い。新たな被害が出
る。酉(午後六時ごろ)の刻大小の余震続く。雷鳴激しく、丑(三十日の午前三時ごろ)の下刻から雨
降る、野外の仮小屋雨漏り。後晴れ風出る。余震少々止む。
(続く次の記述は理解しにくい。「夜に入り、拍子木の音天
に響き、地響き止む時無し、それを便(頼り)りに一夜を明かし申
し候」)
・三月三〇日、時々風雨、夜半過ぎより風雨にまじりあら
れ降る。そのまま止む。
・四月 一日、朝極く快晴だったが、又曇り、また晴れ、
風も出、また止む。小さな余震ときどきあり。
・四月 二日、快晴だったが霞がかかり、四(午前十時ごろ)つ時より南気
の風もあり。この日南の方より「押し込み盗賊」の風聞あ
り、夜番厳重にする。被害を受けた苗代に種籾の蒔きなお
し。
・四月 三日、快晴、夕方、梶村の武右衛門が来て言うに
は「押し込み強盗」が山方村へ入り、梶村へ迫る様子と言
うので警戒を厳重にする。段々の風聞では、町田村は三日
の昼より騒ぎ立て、六万部村・田尻・山方へ移り、「早(法螺貝)か
い・早(半鐘)鐘を鳴らし、日暮れから神田町・内鳫子村で騒ぎ立
てあり。
このあたりから余震等の記録の間隔は遠くなり、この
地震はこのころから鎮静に向かっていたことがうかがえ
る。
・四月二六日、七(午前四時ごろ)つ時小地震。田植え。
・五月一二日、時々小地震。昼(午前十一時ごろ)四つ過ぎに震う。田中家で
は居宅を掃除し、仮小屋から引っ越しする。
・七月一二日、夜(午後八時ごろ)五つ時かなり強い余震があり人々は屋
外へ飛び出す。地震中は空が雲っていたが、地震が終わる
と空は晴れ渡り月明かりとなった。
・七月十三日、快晴、(ママ)夕(「八ツ時」なら午後二時ごろ)方八つ時過ぎより俄に西より南
へ曇り、それより空一面に黒くなり西のほうで鳴動大
風・大雨・立木も吹き折れるほど。
「日記」は後続部が欠損していて、この後の状況は分か
らない。
被害と対策
この地震による当地の被害は、家屋の天
井が落ちたり、壁が崩れ落ちたりしたこ
とが記されているが、家屋そのものが倒壊したという記
録は、今のところ見当たらない。近郷では、高橋新田で
三軒、里鵜島で一軒(いずれも大潟町)が倒壊した。隣
郷の現三和村地区のうち今保・田島・三村・井ノ口・中
村・野村などではかなりの数の家屋が全壊又は大破して
いる(『浦川原村史』)。このうち今保村は家数六〇軒のう
ち四五軒がつぶれ、死傷者も出ている(『中頸城郡誌』)。
頸城郡高田藩領内の被害は諸書により若干ちがうが、当
地の史料では、潰家三九五軒、半潰家一四九五軒となっ
ている(天林寺 金子家文書)。死者は高田と今町で三五
〇人(『旧版高田市史』)といわれる。この地震は「善光
寺崩れ」といわれるように、その中心は長野県北部で善
光寺・松代・飯山などで激甚な被害が出たことはよく知
られている。県内では上板倉郷など信濃国境に隣接する
地域と関川右岸の里五十公郷が強い影響を受けている。
前掲の「日記」に、「長峰新田・坂田新田池一同ニ相成
り候」とある。つまり、現在の長峰池と坂田池の間の陸
地の部分が陥没し、隣接する二つの池が一面の池となっ
てしまったのである。当地では、この地震による家屋の
被害は比較的軽微だったが、地表には強い影響を与えた
ようである。
本震の起きた三月二十五日は、現今の暦法では五月八
日に当たり、当時は稲の育苗初期だった。この苗が泥を
かぶり壊死してしまった。頸城郡内では「苗代泥冠四二
四か村」とある(前掲書)。村々は種子籾の[蒔|ま]き直しをし
たが、長く余震が続いたためにそれが二度三度と繰り返
さなければならなかった。当然ながら種子籾が不足し、
苗の生育も遅れたばかりか、地震による変地のため用水
も枯渇し、時節遅れの田植えもままならない状態だった。
例えば、糸魚川藩領の六万部村では五月の段階で、
一 田三反五畝歩余 六万部村
是ハ沢間の御田所出水一切相止まり、当時白割れに
相成り居り申し候、追って雨降り候はば少々も植え
付け度く心取りに御座候
一 字大乗寺溜 壱ケ所 右同村
是ハ地震以来何方へ水相洩れ候や、日々減水仕り、水
抜け場相分かり申さず候
また、同領の吉井村では、
写真5-84 弘地4年「大地震略
日記」(梶 田中達久家文書)
一 田弐反五畝歩程 吉井村
是ハ沢間水保ちこれ無く、出水も(止)泊まり、当時植えつ
け行き届かず、此の上の雨相待ち居り申し候
一 字宮ノ前溜 壱ケ所 右同村
是ハ先達て両度の地震にて山崩れ込み、地底割れ水
保ち申さず空溜に相成り申し候
などという状態で、割元石野武右衛門は「この後晴雨の
次第にて善悪相狂い候えども、時節遅れに相成り候故、
存分の出穂心もとなく存じ奉り候」と藩庁へ報告してい
る(六万部 石野家文書)。
この後、ようやく時期を遅れて植え付けた稲には、平
年より多くの肥料を施し、格別に手入れをして手厚く育
てたため、ほどほどに生長し、根株は薄いけれども稲の
姿はかなりの作柄に見えていた。ところが、秋になって
から病虫害も発生し(史料では「虫付」「白穂」)、いざ収
穫してみると収量は極めて少なく、人々は茫然自失のあ
りさまだった。
村々では被害を受けた家屋の修復などで多くの職人な
どを雇い入れ、普段の年よりは多くの食糧を消費したう
えにこの不作のため食糧不足に陥った。高田藩領の上増
田組の村々では、十月に次のような[夫食|ぶじき]拝借を願い出て
いる。
米一二〇俵 町田村 同 八〇俵 天林寺村
同一六〇俵 手嶋村 同一〇〇俵 土尻村
同一八〇俵 西野嶋村 同 四〇俵 泉谷村
同一〇〇俵 田尻村 同 四〇俵 東寺村
同一〇〇俵 山方村 同 三〇俵 平等寺村
同一〇〇俵 原之町村 同 八〇俵 泉村
同 七〇俵 下町村 同一六〇俵 百木村
同 八〇俵 片田村 同一二〇俵 中条村
合計 一五六〇俵
(天林寺 金子家文書)
願いでは、もしこの拝借が許されなければ、年貢の皆
済は困難で来年の開作もおぼつかないとしているが、こ
の願いが認可になったかどうかは分からない。糸魚川藩
領では同年十一月、六万部村が米一〇俵、米山村が一二
俵の拝借を受け、翌年から五年賦の返済を命じられてい
る(六万部 石野家文書)。
高田藩は幕府に救済金の拝借を願い出て、年末のころ
認可を得、金二〇〇〇両を一〇年賦返済の条件で借り入
れた。正月ごろ、このうちの七一七両余を今町と領中の
村々へ配分している(天林寺 金子家文書、以下これに
よる)。
このうち金一四四両余を全壊家屋三八五軒へ一軒につ
き金一分二朱ずつ、三七三両余を半壊家屋一四九五軒へ
一軒につき一分ずつ一〇年賦で貸し付けた。二〇〇両余
をその他の農業被害救済に回し、天林寺村ではこのとき、
永一貫四四八文八分(約金一両二分くらい)が貸し与え
られた。しかし、このうち半分は、大破した今町湊にあ
る「献納御蔵」、つまり領民の献金によって建てられた藩
の米蔵の修復のための献金として差し引かれ、村へ配分
された実際の金額は永七二二文四分(金二分二朱と銭六
一四文)である。天林寺村は、更にこれを次のように配
分した。
五分の二の永二八八文九分六厘(銭一貫八二〇文)を
家割りで村内全戸二九軒へ一戸当たり銭六三文ずつ、残
り五分の三の永四三三文四分四厘(銭二貫七三一文)を
村高二四三石余の高割りで、高一〇石につき銭一一二文
余の割合で配分した。しかし、この救済を受けたのは高
持ち二一人、そのうち天林寺村の者は一二人にすぎない。
ほかに配分を受けた九人は他村からの掛け持ち(村外地
主)である。
この貸し付けは当初一〇年賦返済とされたが、四月(地
震の翌年嘉永元年)の段階で、この年と翌年の二回の割
賦で完済するようにとの通達が出されている。幕府の政
策変更によるものと思われる。
当地の国田村以東の村々が属する幕府領の川浦代官所
管内では、支配地域内の富裕者顕聖寺村(浦川原村)の
石田八郎など十数人と、同じ代官小笠原信助が兼務した
水原代官所管内の蒲原郡水原村(水原町)の富商市嶋家
などから合計一〇〇〇両の献金を集め、これを領民へ配
分している(『浦川原村史』)。いずれにしても支配層の逼
迫した財政状況を反映しているものとみられる。