[未校訂]弘化地震
寛延四年の地震から、九六年後の弘化(一
八四七)年に、頸城郡災害史に残る地震
が起こった。寛延の地震を体験した者はもうだれもいな
かっただろう。「災害は忘れたころにやってくる」のであ
る。北信濃地方を震源とする地震で、この地震を「善光
寺くずれ」ともいう。この時の現三和村方面の被害はか
なり多かったようで、真光寺村(現浦川原村)の庄屋直
右衛門が使いの者を近村の知人に見舞いにまわらせて見
聞した各地の被害状況の記録によると、
・今保・田島・三村新田・井ノ口の各村
右の各村は全壊半壊多数。領勝寺・本善寺・定光寺・
運行寺などの寺院半壊
・中村
酒屋九郎右衛門の酒蔵潰れ、酒みなこぼれる。
・野村
潰れ家少々
・川浦村
元兵衛・伊左衛門家全壊、その他多数大破、陣屋少々
傷む
などと記している(『浦川原村史』)。
地震は、三月二十四日亥の上刻(午後十時ころ)に起
こった。その後数日間大小の余震が続いたが、三月二十
九日午の刻(正午ころ)激しい余震、酉の刻(午後六時
ころ)まで余震が続いた。二十四日の本震よりも激しい
くらいで、被害がさらに大きくなった。
今保村に詳しい被害の記録が残されているので略記し
ておく。
今保村の家数 六十六軒の内
皆潰れ家 四十四軒
半潰れ家 十四軒
無難(破損を免れた)家 八軒
今保村の人数三六〇人の内
即死人 四人
外に馬一疋 即死
郷蔵一か所 皆潰れ
他屋一か所 皆潰れ
となっていて、激甚の被害が出ている様子を知ることが
できる。この外の村の状況は不明であるが、同じような
状況が各地に現出していたことと考えられる。村岡村の
「大地震ニ付家おこし人足帳」という史料によると、三月
二十九日から連日、おそらく村中総出であろう、おびた
だしい人足が集まって「家起こし」をしている。三月二
十七日には四一人で「大綱打ち」、三月二十九日には四九
人で「寺」の家起こし、四月五日から四月七日まで四三
人で「寺から藤左衛門家まで」、四月八日には四七人で「義
右衛門より徳右衛門・政右衛門まで」という具合で、四
月十六日まで続く。傾いた家屋に大綱をかけて引き起こ
し、はさ木などをあてて支えたのであろう。
ちょうどこの時期、稲は苗代での育苗初期だった。稚
苗が泥をかぶり枯死してしまった。頸城郡内では「苗代
泥冠四二四か村」とある(『中頸城郡誌』)。村々は種の蒔
きなおしをしたが、余震が長く続いたのでそれを二度、
三度とくりかえさなければならなかった。高田藩は、こ
の度も幕府へ救援金の拝借を願い出て二〇〇〇両を拝
借、この内七一七両を今町と領中の村に配分、全壊家屋
一軒につき金一分二朱、半壊家屋一軒につき金一分ずつ
一〇年賦返済で貸し付けた。幕府領川浦代官所管内では、
管内の富農十数人と代官小笠原信助が兼務した水原代官
所管内の豪商市嶋家などが金一〇〇〇両の義捐金を拠出
し、被災者を救援している。
近世期、頸城郡で起こった地震では寛文五(一六六五)
年十二月二十七日、高田城下を襲った大地震がよく知ら
れている。前記の寛延四年の大地震はそれから八六年後
に襲った。さらにそれから九六年後に弘化四年の地震が
起こった。約八〇年から九〇年に一度くらいの間隔で地
震が起こったことになる。この間隔だと人びとは前の災
害を忘れてしまいやすいのかも知れない。大地震であり
ながら、当地ではこれに関する記録の残り方が少ないよ
うに見える。