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項目 内容
ID J3201183
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1896/06/15
和暦 明治二十九年六月十五日
綱文 明治二十九年六月十五日(一八九六)〔三陸大津波〕
書名 〔崎浜郷土誌〕○岩手県崎浜郷土誌編集委員会編H3・4 社団法人崎浜公益会発行
本文
[未校訂]一、明治二十九年の津波
 明治二十九年六月十五日午後七時三十二分三十秒、三
陸沿岸を中心に北海道から関東にかけて、弱い地震があ
った。
 「海嘯被害見聞録」によると、越喜来村について次の様
に記されてある。
 「越喜来村は越喜来湾の北部と湾底とにある崎浜・浦
浜・泊・甫嶺の四[字|あざ]より成り、家屋の流失せるもの、
百二十九戸にして、死亡者四百三人を生ず。
 就中、最も猛烈なる勢を以て海嘯の襲来せしは、崎
浜にして七十五戸を洗去り残留せるものは高地にある
もの十数戸なり。此地に、苅屋譲右衛門(南部屋と号
す)なる屈指の豪家あり、龍神丸・勘正丸の二隻を有
して、沿海貿易に従事し、漁舟海具をも数多所持し之
を漁夫に貸して、漁業に従事せしめ、資産は百万を超
え突然当地坊の王侯たり。然るに今を距る三年前火災
に罹りに、南部屋始め全村を焼払い此頃に至りて漸く
旧観に復せしに憐れむべし十五日夜の海嘯は再び此地
を烏有たらしめ、南部屋の如きは間口十五間・奥行八
間の家屋の外七棟の土蔵と五十人持弗箱一個及び三十
人持弗箱一個とを流失し、近村に貸付けありし漁船漁
具も亦悉皆之を失い惟家の屋根のみ多く、破壊させず
して打揚られ居れるを見る。崎浜全体にての死亡者は
男八十八名、女百二十六名にして、南部屋の家族も亦
溺死せり」―以下略―
 政府としては、内務省が六月十七日に久米内務参事
官を、続いて二十日に三崎県治局長を被災地に送り、
被害状況の把握に勤め、逓信省も技官等を派遣した。
 二十三日には板垣内務大臣が来県、二十四日から七
月五日まで、三陸沿岸一帯を視察した。七月七日三陸
震災救済費として閣議決定された。八月二十九日気仙
部長板垣政徳は、来郡した侍従武官斉藤海軍少佐に対
し、次のように陳述した。
 越喜来村
 「本村ノ被害ハ当郡に在リテハ甚シキモノノ内ナ
リ字崎浜ノ如キ従来ノ戸数九十七戸ノ内被害六十七
戸其他浦浜ト云ヒ泊浜ト云ヒ何レモ悲惨ヲ極メタリ
現時罹災者ノ意向ハ小屋掛ヲナサンヨリハ寧ニ船舶
ヲ造ラント云フニアリト雖モ之ヲ造ルニ大工木挽ノ
如キ之ヲ雇入レント欲スルモ其人ナキヲ憂慮シツツ
アル際幸ニ世話掛ノ来村ニ会シ大ニ利便ヲ得船舶三
十二隻ヲ新造スル事ヲ即決シタリ爾来世話掛ハ無害
町村ノ大工木挽ヲシテ該地ニ赴カシムルニ尽力シ既
ニ該村ニ至リタル者ナカス」
大船渡市盛町の洞雲寺に、明治三十五年六月十五日
建立の「大海嘯記念碑」がある。
その碑文をみると次のように記されてある。
 「明治二十九年六月十五日という日は実に悲しく
痛ましく忘れんとするも忘れ難き日となりむ。この
日は旧暦の菖蒲の節句に当ればとて、津々浦々は親
戚家族打集いて祝い興しつつありしを、午後七時を
過ぎし頃、大砲の如き音聞えければ、怪しみて耳欹
つる程こそあれ。
 雨さえ降りそそぎ、暗き沖の方青く光りて、泡な
せる高潮の山より高きが打寄来り、遁るる暇もあら
せず、家屋船舶なべて捲き尽し去りにき。その害を
被りしは、陸中の沿海残る隈なく、南は陸前の国萩
の浜より北は陸奥の国八戸の港まで、七十余里、溺
死せる者三万に及びぬ。世の人これを三陸の大海嘯
とぞいいける」
 以上のことから崎浜に直接関係ある事項や被害の状
況を理解することができるのであるが、これ等をみて
わかるように、明治二十九年(一八九六)六月十五日
は旧五月五日で端午の節句にあたっていることであ
る。
 農家も漁師も仕事を休み、思い思いの趣向をなし、
或いは親戚故旧相携え、或いは一家団らんの時であり、
酒宴を催して雅興に入らんとするところもあったと考
えられる。
 こんな状態の時に襲来したことであるので一層人命
の被害を大にしたのであろうと考える。岩手県の海岸
地域の住民七万六千人余りのうち、死者一万八千人以
上、負傷者六千七百余人であったともいう。
 当時は交通不便のため政府をはじめ、各団体からの
救助費用がおくれ、救援活動も思うように進まなかっ
たのである。
 沿岸の戸数の半分は被害をうけ、四人のうち約一人
は死んでいるこの大津波で、岩手県の漁村は約半世紀
おくれてしまったともいわれる。まして当崎浜の場合、
前年に部落の大火によって、八七戸、全戸数の九割を
焼失したあとの災害に、一層の産業振興や復興、生活
にどれ程の困難を来たしたことであったか、想像にあ
まりあるものがある。
 綾里字砂子浜の千田基久兵衛氏宅に残されている当
時の日記に、次のように記されている。
 「十五日、風不定、午後三時頃より四時頃まで大雨
午後五時頃小震 同弐拾回の頃致 大浪 前代未聞
ノ海嘯ニテ筆紙ニ被可盡ノ海嘯也 ―中略― 綾里
村全村大ヘンニテ人馬の溺死 取調兼候 越喜来ハ
崎浜 甫嶺 浦浜 大痛ノ由」
「十七日ハ片曇 南風 正午寒暖計六十九度(華
氏)
○拾品之内絹布 夜着ねまき一人分 南京焼の小茶
碗小箱壱函流付く 某所刈谷氏ノ品ニテ刈谷八百
吉江渡戻ス候也 外ニ簞司弐門かばん壱個同所渡
金弐拾壱円入拾来 同所
○とみゑ 崎浜より今日帰宅、
○今般の天災方村方評議為村長自宅へ直頭候也」
―以下略―。
 以上崎浜に関する部分のみを記したのであるが、明
治二十九年の津波のときの天候や被害状況がうかがえ
るのである。
五、地震・津波の伝承
(一) 地震
○イワシの大群川さかのぼる
○ろくろく喰べずにイヌがほえ回る
○砲台もないのに大砲の音
○ヘビのように朝日とり巻くいやな雲
○冬眠のヘビやカエルも飛び出した
○地鳴りが聞こえて大きい地震
○陸地へぞろぞろ海のカニ
○ぬるま湯になる井戸や川
○るいるいと魚の死がい波打ちぎわに
○沖に浮かぶは深海魚
○湧き水にごり、泉は涸れる
○カラス飛びかい鳴きさわぐ
○ただならぬイヌの遠吠えあちこちで
○列をつくってネズミが逃げる
○空低く、星が大きく見える夜
○月が真赤で火の玉だ
○ナマズがあばれる飛びはねる
○むしむし暑い、頭が重い
○ウシがおびえて奇妙なさけび
○井戸が鳴るのは直下の地震
○のめなくなった、井戸水にごり
○狂った満ち潮、引き潮だ
○山から聞こえる山鳴り地鳴り
○毎夜、毎夜の稲光り
○けたたましいキジの鳴き声地震の知らせ
○増えたり減ったり井戸の水
○こんな大漁ははじめてという程の大漁
○アワビもエビも浅瀬に集まる
○キンギョやコイがうき上がる
○えさも食べずにニワトリおどおど
○セミが地面にうずくまる
○すごい火柱沖に立つ
○干潟になった潮引いた
○雪がとけて地面がほてる
○深海魚網にかかって大さわぎ
○うんと異常続出大地震
(二) 津波発生に伴う異常現象・伝承・体験
○地震のあとに海水が退くときは津波あり
○津波の来る前に海面が膨れる
○海岸近くの家の井戸水がわずかに減じる
○海中に火柱が立つ
○津波の来る数時間前に沖合いに不気味な大音響あり
○地震があれば津波あり
○井戸水や川水が少なくなると津波が来る
○海藻が生えると津波が来る
○地震後の沖鳴
○津波は周期的に来襲すること。少なくとも四十年
○空中および雲の燐光
○津波を伴う大地震の起こる前年は、常に平常より大
漁であること
○津波来襲は大地震後二十分から三十分位の間差があ
ること
○津波来襲前に、日常の干満に無関係な大引潮がある

○津波来襲数分前に大砲を発射した様な大音響が伴う

○漠然とした瞬間的な光がみえる
閃光、雨が降り注ぐような光、細い光の帯
○一定の形をもって動く光体
火球、火柱、火の棒、ラツパ状の光、
○輝く焰および輻射
火焰、小火焰、スパーク、光る気
○空中および雲の燐光
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 599
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岩手
市区町村 三陸【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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