[未校訂]四、断層線の踏査説明
1叺澤(カマスザワ)石川家(屋号叺澤)は前方に倒れ
たり
宅地は低く前方の土地は高かヽりしが現在は前方
より一米以上の高地となりつヽあり
2大荒澤
藤原敏夫氏の後を過ぎ観世音の前にかかり藤原勇
作氏の東方を若畑に入る。
3若 畑
藤原康郎氏の前より道路を横切り藤原佳一氏の西
方に曲り山に入る。
4八ツ又
佐藤昭男氏の前を通り南方の道路を横断して古屋
敷に向って略々一直線に進む。
5古屋敷
六戸利夫(古屋敷)宅の東南より前方に出で少々
迂回して百目木家の前に出る。
6高 下
百目木清氏宅より高下川を横切り川端より二十米
の処より川に沿ひ高下澤に入り川舟の用水堰を越え
て之に沿ひ南進し佐々木安夫氏宅の後を過ぎ藤原豪
氏宅の東に到り道路を横断して石井寛一氏宅の後に
出で直進して扇之澤に入る。
7扇之澤
山鼻広作氏宅の前方より佐藤忠一氏宅の前を通り
佐々木辰之助氏の門口より曲折して同家に向って進
みすぐ前より西に向ひ倉下の前を通って現在の小学
校の門に出る。
8下村・中村
用水堰に沿ひ學校の前より村社前から持田に入
る。
9持 田
孫助(高橋孫作氏宅)・清四郎(高橋善二氏宅)の
前を通り三之丞の後を過ぎ同分家の宅地後側にかヽ
り五六山火葬場に向ってゐる。
10安ケ澤
火葬場より墓地の前を過ぎ彎曲して安ケ澤部落に
入り石井千代見氏宅の前より西北に曲り和賀川の沿
岸に終わってゐる。
以上は断層線踏査の大略説明にて各部落に起りたる詳細
なる事柄は省略せり
第三 雑録
一、恐ろしかった當時の事
八月三十一日(旧七月二十三日)丁度其の日は北川舟
大荒澤に鎭座する地蔵尊のお祭りの日であった。附近の
農家は皆休んでその夜の参差踊りを楽しみに待ち 南川
舟方面は御盆過ぎた許りで大した仕事もなかったので苗
代の草取りなどして、若い衆は矢張りその夜を待って元
氣で働いてゐた。
蒸されるやうな暑苦しい日、その日も午後となっては
幾分暑さも薄らいでお祭の見物人も見え始めた。午後の
四時近くなってはお宮の境内には飴屋が店を張り漸く参
詣人も多くなってお祭気分がして来た。
その時である。西方に向ってドーンと鳴動した。しか
しこの音は此の春以来時々あったので別に氣にも止めな
かったが、續いて相當強い地震がやって来た。「それー地
震だ!」驚いて騒いでゐる中に三十分もたったら烈震と
なった。さあ大変である。家屋はなりひゞく棚のもの
が落ちる。上間には臼が轉び廻る。子供が泣き騒ぐ。二
斗も入る水桶が倒れてそれが元のやうに起る程の強さで
あるからたまらない。家の中も道路も歩かれない。苗代
に働いてゐる者は畦にうつ伏して悲鳴をあげてゐると田
の水は大きな波を打って人は水を浴させられるといふ始
末、此処彼処には山のくづれる地響、親は子を呼び子は
親を呼ぶ哀れな叫び。何者も生きた心地はなく、堆肥を
積み上げたその上にはひ上る。それは亀裂を恐れたため
であったといふ。
一方地蔵祭りの境内では烈震と共に杉の大木が倒れ
た。泣き叫ぶ。老若男女は轉び乍らも境内を走り出たら
すぐ前の参道が断層のために高くなりその附近の谷地
(濕地)は盛り上り亀裂からは水が噴き出してゐる。盛
り上った泥谷地からは鰻が多く出て来た。命からがら逃
げ出して来た連中も之を見ては捨て置けず競ふて取始め
た。人間はどこまで欲望の強い者かとは實際を見た人の
話である。斯うして夜になった。各戸では一様に堆肥の
上に戸板を置き雨露を凌ぐだけの屋根を作って此処に夜
を明したが、夜中にも二十分三十分置きに地震と地鳴り
が續いた。この地鳴は相當後まで續き山崎直方氏が中山
峠にて之を聞き山形縣酒田方面より聞えたと言はれたさ
うである。
又此の地震の際下前街道工事中の土工連中があの峠の
上にて作業中に大地震となったので大野野方面を眺めて
ゐると、あの原野の土が波のやうにうねりを立て、分譯
方面に進行したといふ。之を明治四十三年八月調査に来
村せられた今村博士に話したら震源地測定上有力なる資
料と喜ばれたといふ。此の地震の際本村太田玉泉寺の鐘
堂が上下動のためあの重い鐘を釣った儘地方に運び出さ
れ建物はそのまヽ倒れなかったといふ。而し附近には二
十軒に近い倒毀があった。此の日から連日小地震があっ
たので様々な流言蜚語があり「何月何日には又々大地震
がある」と新聞に出たとか、又天理教信者は「此の世は
ひつくりかへる」と称へるなど人心恟々たるものであっ
たと、尚一方には和賀川の上流は地辷のため流れは止り
四五日に及んだので大津波が来るとて安ケ澤小坂丸
志田を始め遠く長瀬野方面の部落民まで家財道具を山上
に運んだと傅へてゐる。恐ろしかった陸羽大地震があっ
てからもはや三十有餘年も過ぎ去ったのである。
二、罹災者の思ひ出話
三十餘年の昔話、それを罹災者から聽かうと休暇を利
用して出かけた。耳の遠くなった爺さん目の見えなくな
った婆さんを尋ねて廻る自分の心は當時の有様を目前に
見るやうな氣がして無量の感に打たれた。今左にその二
三を擧げやう。
大荒澤 塚根の婆さん談
今思ひ出しても恐ろしい 私の家も後にのめって倒れ
た。軒が五尺以上も土にはいってあった。家には馬が三
匹居ったが、二匹は逃げ出し一匹は死んだ。私も逃げ出
す暇がなくかまどの前まで出たら家は倒れその下敷とな
った。子供をぶったまヽでした。運よく柱や梁が体にあ
たらなかったがどうしても出られない。ところが次に起
った地震に動かされて門口の方が明く見えて来たのでや
っとはひ出ました。その時母は火傷、子供と祖父は頭を
痛めただけで死んだものはありませんでした。後で見た
ら土間の大釜(二斗以上はいる)はぬけでて馬屋の前に
ころがってゐました。
八ツ又 K爺談
私の家には変りがなかったが隣りの家が倒れかヽっ
た。前の田は大地震とともに高低が出来一枚の田で家に
ついた方は高くなり半分は低くなりました。全体から見
ると九尺も高くなりました。そして山の方からの押し出
しで七尺も伸びた稗がすっかり見えなくなった程でし
た。合戦場澤の水量はそれから半減となりました。
高下 H爺談
丁度その日は若畑の地蔵様のお祭りでしたから私も商
賣に行きました。いつも西の方でドーンドーンと時々音
がしてゐたがその日は回数がいつもより多かったやうで
した。大地震となったので大変だと思ひ店を出した扉の
上にあがったら同時に傍らの杉の大木が倒れました。さ
あ大変之では商賣も何も出来ないと大急ぎで荷をこほり
お宮から出て来たら道路が割れて泥が吹き出し平地は高
くなったり低くなったりしてゐました。側の川がひっく
りかへって人々は鰻をたくさんとりました。急ぐつもり
で帰ったが仲々歩かれない。それに道がこわれたりして
高下まで来て見たら藤かヽりの前の道に大きな坂か出来
てゐました。どうも恐ろしい地震でした。小便に置いた
一斗桶が倒れて又元通り起る程でしたな。
安ケ澤 C氏談
旧七月二十三日の午後であった。私は西で草刈りをし
てゐたらあの大地震となり同時に家の西角にあった木小
屋が倒れ私も十間許り前の方に動かされて居ました。木
小屋の倒れたのも後で氣がつきました。向ふの田のくろ
が二尺位の幅に地割がし父が毎冬石を橇で引いて入れ埋
めその上に粘土など塗ったら今は見えなくなりました。
その地割れに石を落すとカンカンカンと音がして随分深
く落ちて行くものでした。野原の方には変った事はなか
ったが安ケ澤の奥にある瀧の上の山が崩れて瀧は殆ど埋
まりその時まで流れ出てゐた水は全ク無くなり田は皆荒
地となりました。地震後川舟澤の水がそちらへ行ったの
でせう。あの地震のあった丁度一ケ月目の旧八月二十三
日にも相當強い地震がありました。
(以上高橘喜二氏記録)