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項目 内容
ID J3200997
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/23
和暦 安政五年三月十日
綱文 安政五年三月十日(一八五八・四・二三)
書名 〔大町市史 第三巻 近世〕大町市史編纂委員会編S61・3・1 大町市発行
本文
[未校訂]第二節 安政の地震
 安政五年(一八五八)三月十日四ツ時(午前一〇時ご
ろ)突然揺れがやって来た。この地震について
 「大町村之義ハ[去|さる]未年ゟ此度ハ大痛ニ御座候」
とあるように、さきの弘化四年(一八四七)の地震より
被害は大きかった。特に大きな被害は美麻村の青具、千
見・高地・二重方面であった。
大町村、半潰、下仲町乙助、
同 同清兵衛
同 九日町清右衛門
右、今日地震ニ付半潰ニ相成申候、尤、乙助・清兵
衛両人義、住居も危ク相見へ候ニ付、帳付申候様申出
候此外土蔵壁数多震落し、川端石垣所々崩れ、酒蔵
溜屋、油屋等ハ多分ゆりこぼし候
 大庄屋に届いた報告、及び郷目付、御郡屋への届控(〓栗林文書)は、まず大町村のことから始まっている。三
軒の半潰の家が出住居も危いという。また土蔵の壁、石
垣の崩れが見られたという。
 また霊松寺が半潰同様になったという報告もある。こ
の地震は余震がひどかったようである。
一、同日暮、六ツ時又々四ツ時之震リ増リ強クゆり、
土蔵等大痛ニ相成申候
一、同日夜中震リ続キ候、十一日朝震リ少々止、
 この再度の揺れで、さきに半潰であった下仲町清兵衛
と乙助後家なつの家は全潰となり、また、半潰の家は南
原二軒・九日町四件・[新|あら]町一軒・五日町三軒・三か村七
軒・居谷里二軒・計一九軒、そして大きく痛んだところ
は霊松寺のほか、家数七三二軒、土蔵一五三か所と被害
は大きく増した。
 そのほか各所からの報告が入ってくる。野口村は組頭
忠兵衛が来り「半潰が五・六軒、土蔵壁落[数多|あまた]損じ候。」
木崎村からは組頭の忰が申し出た。「昨日大地震で居宅す
べて痛み、中でも四軒程はひどい。また三間橋の橋詰が
痛んで牛馬が通れなくなった。」という。「すぐに仮橋で
もかけておくように。」と申し渡している。稲尾村では組
頭伝左衛門が来て、「三、四軒半潰の家が出た。」と報告
する。[分水|ぶんぜ]からは「七軒の内五軒が大痛」という。中綱
村からは庄兵衛が来て「村中が皆大痛。」と報告。南の方、
館の内村からは「痛んだ家はあるが住居ができないとい
う程ではない。」というし、常光寺村も宮本村も「格別の
痛無之」と報告している。
 松川村常盤方面は、まったく文書にさえ表われて来て
いない。
 このように北の方に被害は広がっている。同年三
月にまとめた「地震ニ付家潰痛所取調書上帳」(〓栗
林文書)によると、中綱村は全潰二軒、半潰三軒の
外「村中大痛ニ御座候、但し戸障子残らず損じ申候。」
とあり、更に青木村に至ると半潰一一軒のほか「豆
崎往来道、長さ四十間ほど、長さ十五間程、秋葉山
十八間程、川かけ三十二間程に地割れができ、やな
場板表十五間裏二十間が割れ、田地多く痛申候。」と
報告されている。
 現大町市地域外に目を向けると、特に美麻方面の
被害が大きい。青具村では、「本潰半潰等多分有之、
千見村之往来留り申候、土蔵大痛、其上屋敷抜等御
座候。」と報告した。千見村は「家潰屋敷抜・或者山
崩・道橋損じ難渋至極仕候ニ付、御見分も御願申度」
と申し入れている。左右村も伝馬を用いて「半潰同
様居家・土蔵・木部屋等大痛、大町江之往来牛馬不通
行」と報告して来ている。このように山中美麻村は
山崩れや道橋壊れ、牛馬の通行ができなくなったう
えに、二重村のように「本潰同様之分十八軒も有之、
半潰も廿軒も有之」と、一一年前の弘化四年の被害
で立ち直ってきたところへ大きな痛手を再び受けた
のである。
表8 安政地震の被害状況
4月、調、書上惣辻

1 本潰 家数 71軒
1 半潰 同 266軒
1 痛損 同 903軒
1 村中痛 中綱村 加蔵新田村
1 本潰 土蔵 7ヵ所
1 半潰 同 63ヵ所
1 御高札場敷石崩 1ヵ所
1 物置葉小屋 本潰 4ヵ所
 同 半潰 18ヵ所
1 組囲蔵 2ヵ所
1 堂 半潰 7ヵ所
1 寺 同 1ヵ所
1 宮 同 7ヵ所
1 拝殿 同 3ヵ所
1 田 202石5斗9升分
1 同 258俵分
1 畑 7石分
1 同 758俵取
1 麻畑 62束揆分
1 同 850束代
1 干場山茅場 34ヵ所
1 雑木山・持林山養山・薪山 267ヵ所
1 添木倒 1,050木
1 山崩 160ケ所
1 用水堰欠落 43ケ所
1 川突留 14ケ所
1 橋落 19ケ所
1 道損 54ケ所
1 池頭 土手抜堤 〃 3ケ所
1 居屋痛損 903軒
1 村中同 中綱村 加蔵新田村
1 土蔵壁落痛 192ケ所
1 御薪御用木 25間
1 樽 80丁
1 杉木 263間
1 沢除石積 13間 2ヵ所ニテ
1 土手痛 16間 1ヵ所
1 川欠 7間5尺痛 1ヵ所
1 御陣屋損ジ 1ヵ所
〆、右之通取調書上申候已上
午4月 大町組
 表8は大町組全体の被害
状況を大庄屋元でまとめた
ものである。今までの報告
が、居家・土蔵・道路・橋
などに限られていたが、生
活基盤及び産業基盤であ
る、川の突留・用水♠の欠
落・池の土手抜け・沢除石
積の崩れ等々にもかなりの
被害が出ていることが注目
される。これらを修覆し旧
年の生産を依持していくこ
とになると、多くの費用、
労力が要求されてきたこと
であろう。
 表9は各村々からの全
潰・半潰の報告をまとめた
「家潰痛所取調書上帳」の
一覧である。しかし全潰か
半潰かはその村の庄屋・組
頭の目によって判断が異な
ろうし、また、半潰といっ
ても程度の差があろう。弘
表9 大町組各村の被害のようす
村名
大町村
野口村
木崎村
森村
稲尾村
海之口村
中綱村
青木村
加蔵新田村
佐野村
沢渡村
飯田村
飯森村
深沢空峠村
堀之内村
青具村
千見村
高地村
新行新田村
二重村
大塩村
切明新田村
槍平新田村
左右村
切久保新田村
合計
地震ニ付家潰痛所取調書
上帳安政5年3月(軒)
本潰
2
2
5
1
3
16
20
4
5
6
1
3
68
半潰
19
2
5
8
3
7
3
13
1
9
15
11
4
48
38
24
5
28
25
5
4
6
283
(土蔵草小屋含)

21
2
5
8
3
7
5
13
6
(大痛4)
10
15
11
4
3(大痛7)
64
58
28
5
33
31
1
5
4
6
351
地震居宅潰御手当被下 (軒)
4俵給付
2
4
2
14
16
4
4
4
1
2
51
2俵給付
15
2
1
2
4
1
32
25
17
11
15
3
4
2
136
1俵給付
5
1
3
3
1
1
3
12
11
6
5
15
10
7
83

22
2
1
8
3
3
2
5
1
3
58
52
27
5
30
29
1
5
4
9
270
化四年には、庄屋から報告されたまま、全潰の家には四
俵、半潰の家には二俵の御手当が、藩から給付されてい
た。そのやり方には問題があったのであろう。今回は藩
から細井銀五右衛門と村部善蔵が見分役として大町組へ
来た。
 「右両人御出郷大町村寄合所ニ御泊リ被成候、両人ニ而[伺|しの]
びニ罷越候」と、大町を拠点にして、各村々の被害の様子
を逐一照らし合わせたのであろう。
 この結果によってお手当が下された。全潰と見なされ
る者には四俵、半潰二俵は弘化四年の基準と同じである。
だが、同じ半潰でもやや軽いものに一俵あてをもうけて
いる。また庄屋が半潰としても居住できると判断した故
か、給付の無い家、又は半潰としながら全潰同様の御手
当を与えているものもある。また大町村のように庄屋が
報告した半潰の家々には四軒に手当が与えられず、報告
しない家が五軒に手当の与えられている家もある。いず
れにしろ同一役人の目で平等を図ったのであろう。その
一覧が表9の右の「地震居宅潰御手当被下」の数字であ
る。
 ここで不思議なのは、青木村一三軒、飯田村一五軒、
飯森村一一軒、深沢空峠村四軒の被害報告がなされてい
るのに、手当が一切出されていないことである。青木村
などは、四ヵ所もの地割れすらできたと報告しているの
に被害が過大報告されたとは思えない。何かほかの形で
の救難の支給があったのか、残された課題である。
 安政二年に安筑両郡村々明細書上帳がある。そこに
村々の軒数が出ているが、近い年数なのでこれで地震の
被害の割合を出してみると大町村は被害戸数が約四%な
のに対し、千見村・青具村は約三五%の割合であった。
それで小谷方面には被害がほとんどなかったのだから、
局地的な地震であったということができよう。なお、こ
の地震による火災や、死亡人は無かったと報告されてい
る。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 554
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
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