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項目 内容
ID J3200992
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・越後・能登・加賀〕
書名 〔河合村誌通史編全〕H2・3・31河合村発行
本文
[未校訂]安政の大地震
 安政年間は特に地震が全国的に頻発した。正になまず
の大暴れ時代であった。安政元年(一五八四)六月一四
日には美濃に大地震があり、同年一一月四日の東海[東山|とうざん]
の大地震は願徳寺の過去帳にも記載されている。同月三
〇日美濃地区また震い、二年二月一日白川村大牧から保
木脇にかけた大地震は山崩れを伴い、当村亦大いに震っ
た。その余震は年中断続したと諸国地震変異録に記され
ているが、同年一〇月二日は江戸の大地震が有名で、藤
田東湖が梁の下敷となった母を助けて焼死した時であ
る。三年・四年も地震が続いた。
 次に安政五年の角川地震に就て述べると、同年二月二
六日夜九ツ半(今の暦では四月九日夜一時)北飛驒を中
心に稀な大地震が突発した。これは跡津川断層帯を中心
におこった上下動で、現白川・河合・宮川・神岡の七〇
ヶ村から越中立山の鳶山に及んでいる。今の震度で云へ
ばマグニチュード六・九という激震で、山崩れや川の突
き埋めを伴い、潰家七〇九軒・即死者二〇三人・斃牛馬
八七頭(勘定所への届書による、但各村々の届書は遙か
に多い)と届けられているが余震はその後五〇日に及ん
だという。その災害の最も著しかった元田の荒町地区に
例をとると、小鳥川の北岸断層崖の上部崩壊、土砂は対
岸に飛んで荒町の五戸を突き埋め、はね返って立石の四
戸を衝き一瞬の間に九戸を呑み、五三人の生命を奪い去
り荒町では生き残ったもの僅に一人、立石では八人だっ
たという。[尓|じ]来立石は永久に姿を消したが、荒町の崩土
の上に家が建ったのは、明治時代黒鉛山の盛況によって
である。後年この地に建てられた小学校の校庭に、岡村
利平[撰|せん]文の弔魂碑が建てられ荒町の惨状を伝へている。
他に史料編第一一編には当時の詳しい記録を網羅してあ
るから参照されたい。
碑の所在地旧元田小学校敷地(現レジエントあすか)
(表面)
震所者弔魂碑(原文は[篆書|てんしょ]横書)
安政五戊午年二月廿五日夜子ノ刻飛驒越中越前ニ起リシ
大地震ハ飛驒ニテ小嶋小鷹利下高原下白川ノ四郷七十箇
村ニ亘リ全壊寺院九民家三百十二半壊寺院七民家三百七
十即死弐百三人負傷四十五人斃牛馬八十七就中小鷹利郷
元田村ノ荒町ト立石ハ小鳥川ヲ隔テ、古ヨリ荒町ニ権平、
長四郎、清蔵、甚蔵、源右衛門ノ五戸、立石ニハ三郎、
久三郎、喜三郎、善右衛門ノ四戸アリ此時ヤ向山ノ一角
缺ヶ飛ンデ川南荒町ヘ落チ反動更ニ北岸ノ立石ヲ衝キテ
九戸五十三人其家ト共ニ地底深ク埋メラレ唯一人荒町清
蔵ノ女おな奇シク死ヲ免ル震動ノ激烈思フベシ斯ル遺跡
ノ歳ト共ニ世人記憶ノ外ニ逸スルヲ悲ミテ元田分教場主
任塩屋吉郎河合村青年団元田支部員ト謀リ弔魂ノ為メ此
碑ヲ建ツ
大正十二年十一月上澣 岡村利平[撰|せん]文
永瀬徴嚴書之 砂原泰一刻
 この安政五年の大地震は「元田地震」とも「角川地震」
とも呼ばれているのも被災地のうちでも元田・角川の被
害が最も大きかった事からであろう。この碑にある荒町
の犠牲者について、元田村久三郎家の「安政五年大地震
見舞帳」の前書に「二月廿五日之はん 大ぢしんうすり、
あら町立石ハ大きなる山ぬけ、みなつきうめ、あら町庄
六・甚蔵・清蔵・長四郎・権平〆五間(軒)、立石ハ三郎次郎・
久三郎・喜三郎・善右衛門〆四間(軒)、みな山ぬけにつ
きうめ……」とあり、荒町の「庄六」なる家が碑文には
「源右衛門」となっている。明治初期の戸籍を見ても「庄
六」の名跡はあるが「源右衛門」は無い。又清蔵家の生
存者「おな」について、手次寺である願徳寺の過去帳に
は「……荒町立石宝蔵谷柳平崩候、両村に於て八軒相崩
れ、人衆相果候、清蔵おなと申者壱人流れあかり治郎作
養生致候…」とあり、元元田学校長故塩屋吉郎は、土地
の古老よりの聞き書として、「奇シクモ荒町ニ於テ権平ノ
娘おな女ノ助カリシハ、此ノ女月ヶ瀬ニ嫁シ離縁シテ天
生ニアリシ故ナリ(後益田人ト結婚シテ高山町ニ在リテ
死ス)」と誌している。更に当時元田に居て生存した人で、
下林庄助の談として「荒町ハ五軒アッタガ向山ガクズレ
テ、ドット荒町ヘナダレコンダノデ全部山ノ下ニ埋マッ
テ全滅シタ、不思議ニ清蔵ノおなを(歳二十)が一人生
存シテヰタ、おなをハ何心ナク其夜奥座敷ノフトンヲ積
ンデアル側ニネテヰタ、地震ニテ床板ガヌケ床板ニノッ
タマゝフトント共ニ元田ノ高橋ノ下マデ流レテ来タ、ヨ
クネテヰタモノダ、此ノ震災モ知ラズ寒イコトダト思ヒ
ダンダンフトンノ中ヘモグリコンデネテヰタ、村人ニ尋
ネラレテ驚イテ、フトンノ中カラ出テ来タノデ命ガタス
カッタ」それぞれ若干の相違はあるものの、荒町で生存
者があったのは奇蹟である。立石は土砂を覆るよりも、
風圧による被害が多かった様に思はれる。久三郎家では
家族十三人の内七人死亡、善右衛門二人、三郎次郎二人
死亡、生存者八人とある。同年六月の
「元田村震災潰家小屋掛料拝借金御請
小前帳」にも、久三郎・善左衛門・権
兵衛・清蔵・長四郎と五人の名前が出
て来る。この「小屋掛料拝借」に「元
田村惣潰家弐拾五軒之内潰家弐拾弐
軒、此小屋掛料金拾六両弐分外三軒皆
即死ニテ相続人無之除之」とある。
 かつて保小学校長をしていた鈴木兼
太郎は昭和二年に、前記下林庄助(八
六才)の口述をまとめて、当時の高山
測候所長山沢金五郎え送っている。(原
文は片假名であるがひらがなになおし
た)
 『私の姉が河合村大字元田の与作へ
嫁にいっていたので其の関係で私は十
二、三の時から子守にいっていた。大
きくなってからも与作の仕事の手伝い
をした。大字羽根の久六の家普請を手
始めに木挽を習った。前後十七年間元
田に居た、そこでその頃起った元田の
震災に就て御話しすると、私が十六の
春安政五年二月二六日の朝、薪山へゆ
安政地震被害一覧 ()は寺院
天生
元田
上ヶ嶋
新名
羽根
有家林
保木
中沢上
有家
角川
小無雁
稲越
河合村計
宮川村計
神岡町
白川村
家数
12
40
8
17
11
8
10
6
16
98
14
64
304
391
207
220
人数
91
266
58
114
112
45
71
56
109
587
109
418
2,036
2,577
1,321
1,874
全潰
8
27
6
9
9
6
9
6
8
(1)
42
3
(1)
133
(4)
132
(1)
38
(3)
60
半潰
4
13
2
(1)
7
(1)
2
2
1
8
35
2
(2)
76
(2)
191
(3)
137
(2)
86
即死
3
56
2
2
5
3
7
10
23
11
122
76
9
怪我
4
14
1
1
4
2
3
2
4
35
20
2
斃牛馬
3
13
8
3
1
3
9
12
52
36
2
備考
番所全潰
番所全潰1
番所半潰1
木地屋全潰即死3
番所全潰1
番所半潰1
くとて今の午前二時頃から起きて[榾火|ほたび]をたいてあたって
いた。主人が云ふには、お前等は大層よい火をたいてい
るから、おれも起きて[焰硝|えんしよう]でも煮ませうとて起き出た。
自分たちもそろそろ着物を着かへて山行きの準備をしか
けた、帯をしていたら「ガラッ」と大きな響きと共に大
地がゆれてきた。そら地震だ火をいけよといふので自分
は火ばしで火をいけようとしていると、そのうちにがら
がらとゆりて露地へはね落された。又引きかへし夢中に
なりて爐辺に至りて火をいけようとしたら又はねつけら
れて露地へ落された。三度もどって火をいけてゐると又
がらがらと上下動があって湯釜が、かぎつるからとれて
釜の湯がどっと、いろりへあかったので火もきへ自分も、
外えとび出した。出入口までゆくと姉が子供を抱いてふ
るえていた。こんなところにと云いながら親子いっしょ
に、かゝえて大道までつれだした。姉はお前は手に火ば
しをもっているがというので驚いて本気にかへった。兄
は池の中へはねつけられてざんぶとぬれていた。近所隣
皆一様に逃げ出してふるえて居た。戸板を敷いてその上
に避難した。
 立石の被害 元田の向うに立石という在所があった。
此の夜立石の久三郎という人元田の与三兵衛宅に来て泊
り合せていた。大した音がしたから立石はどんなになっ
たやら案じてたまらんから、いって見るというと、人た
今も残る柳平の崩壊跡
ちは、あぶないから止めたがよいというのも仲々に聞き
入れず雪道をとぼとぼ「あんどん」をとぼして出かけた。
すると川端までゆくと橋はおちて河水はぴっしゃりとま
っていた。川上の荒町も立石もつぶれたらしい。久三郎
は一時腰がぬけたが、とぼとぼか(ママ)けつけて見ると自分の
家はつぶれていた。オーイ、オーイと呼べば家の兄がた
すけてくれと呼ぶ、家の中よりつれだしたが、こごえて
ふるえている。外に火をたいてあたらせた。さてよくよ
く考えて見ると自分の家は[下|した]えとんでいた。お宮さんも
とんでいた。さがして見たら子供二人床板がぬけて其侭
ねていた。又相向いに神殿の床がぬけて御神体が子供と
相向いになっていたのも不思議であった。向山がぬけて
荒町えつきつけ、返しが立石の在所を荒したらしい。神
社の大森の杉・栃の木など根こぎになっていた。久三郎
の嫁さんが居ないと云うので所々を探したら百間余下の
泥砂の中えもまれ半身を逆さに埋まって腹部は破れて五
臓は、とび出し実に見苦しき死を遂げていた。
震災餘話
 元田方面の話 与作に源次郎という者が台所の隅にね
ていた。上下動の烈しいため[蒲団|ふとん]や着物の袖を柱に押え
られて起きられないので助けてくれと呼んでいた。自分
がいって着物をさ(裂)かしてつれ出した。
 元田にて七(ママ)三人死んだ。死人を戸板にのせて、ならべ
てあった。死んだ牛も馬も、たくさんよせてきて一所に
心ばかりの葬式をした。
 善右衛門の人は家のまま百間もながれて家の中からは
んで出た。午后四時荒町の山ぬけが切れて山なす大濁水
が出てきた、そらっと云うまもなくどうどうおし出した。
 漆方面の話 元田の[下|しも]に漆と云う在所があった、これ
も向町がぬけて居るから茲に又其の水が溜るので忽ち又
そこに大海ができた。与作の前の川迄水が溢れて来た。
この水がやがて漆と云う在所の中央を貫いて流れ出る事
になった。そらと云う間に又四郎・園右衛門の厩え濁水
がぶち込んで大したさはぎであった。見る見る田地は流
れ、畑はほれてぬけくずれ源助の倉庫は、ふわりふわり
と流れ出した、そして中流で、こはれてしまった。
 共同小屋掛 其間自分の家に寝るものは一人もなく、
二三軒共同して田の中に小屋を作り、皆一所になって物
淋しく暮した。たまたま用があって自分自分の家に入っ
たが、がたがたという響きに一もくさんにとび出す有様
であった。
 土地の境界 土地の境界は地震のために、うつりの合
はぬことが、たくさんに出来たが組内のものが皆出て目
分量に處置した』
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 500
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岐阜
市区町村 河合【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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