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項目 内容
ID J3200894
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原附近〕
書名 〔開成町史通史編〕H11・3・31開成町編・発行
本文
[未校訂]一 嘉永六年の大地震
地震の被害
嘉永六年(一八五三)二月二日、小田原
地方を直下型の大地震が襲った。震源は
小田原周辺で、地震の規模はマグニチュード六・五であ
った。
 地震発生は昼四ツ時(午前一〇時頃)であった。当時
小田原宿[千度小路|せんどこうじ](小田原市本町三丁目)で質屋を営ん
でいた関家の女主人の日記によれば、九ツ時(正午)ま
でに大揺れが二度あり、家を出て浜側の畑に小屋掛けを
し、一〇日までそこでくらしたという(『小田原市史』史
料編 近世Ⅲ)。また江戸の外神田の[御成|おなり]道(JR山手線
秋葉原駅西側)で古本屋を営む藤岡屋[由蔵|よしぞう]の日記には、
小田原からもたらされた嘉永地震の情報が記されてい
る。これによると二日から四日までの三日間で五七回の
余震があり、四日の昼時にようやくしずまったという。
この地震による被害を二月一四日付の報告でみると死者
は一一九人、けが人は七〇〇人、死んだ馬は一〇三疋に
および、倒壊家屋(土蔵・灰小屋などの付属建物を除く)
は一〇六二軒にのぼった(『藤岡屋日記』)。小田原藩領全
体でみると被害は和田河原組合や吉田島組合などにとく
に集中し、西大井村(小田原市西大井)から金子村(大
井町金子)のあたり、曽我方面(小田原市)、そのほか[御|みく]
[厨|りや]領の竹之下村(静岡県御殿場市)も大きかったという
(『二宮尊徳全集』第9巻)。ところで幕末期の小田原藩
領は藩の設定した組合村に編成されていた。組合村とは
最寄りの村むらの集合体で、少なくて五か村、多いもの
で一七か村で構成され、藩政の末端に位置付けられてい
た(馬場弘臣「小田原藩における近世後期の改革と中間
支配機構」『おだわら―歴史と文化』8)。和田河原組合
の場合、怒田・和田河原・竹松・壗下・千津島・岡野・
班目・小市の八か村で、吉田島組合の場合は吉田島・牛
島・宮台・延沢・円通寺・中ノ名・金井島の七か村でそ
れぞれ構成されていた(『小田原市史』史料編 近世Ⅲ)。
現在の開成町域を当時の組合でみると、吉田島組合の全
村と和田河原組合の岡野村を合わせた地域に該当する。
したがって嘉永地震による被害はほぼ現在の開成町域と
その周辺に集中していたといえる。
宮台村の被害
嘉永地震の被害を[宮台|みやのだい]村を例に見て
みよう。宮台村では死者・けが人・死
馬の数は不明だが、建物と土手の被害は判明する。建物
の被害のうちわけは[本家|ほんや](母屋)五四軒・土蔵三か所・
[厩|うまや]二二か所・物置二つ・隠居所一軒・木小屋一軒・門一
か所・灰小屋(肥料小屋)二六か所など、母屋とそれに
関連する建物すべてにおよぶ。そのほか水持ち畔の土手
で崩落した部分が延べ五五五間(約一㌖)あり、石橋九
か所が落ちた(『開成町史』資料編 近世(1))。だがこれ
だけではどれだけの被害か具体的にはわからない。そこ
で本家の被害に注目しておきたい。本家は五四軒が被害
にあっているが、その被害状況によって本潰・大半潰・
半潰の三ランクにわけられている。本潰を全壊、大半潰
を半壊、半潰を破損と書き換えると、全壊が二七軒、半
壊が二〇軒、破損が七軒となる。宮台村には嘉永地震の
八年前の弘化二年(一八四五)に当時、五四軒の家があ
り、軒数は地震の九年後の文久二年(一八六二)でも変
化がない(『開成町史』資料編 近世(2))。つまり嘉永地
震当時も家は五四軒あったとみてよいだろう。そうなる
と村中の家がすべて被災したことになり、五四軒中四七
軒までが全半壊したことになる。これは甚大な被害であ
る。
 それでは宮台村のような被害はどこでもあったのだろ
うか。他村の例を見てみよう。宮台村から北西に一㌖ほ
ど離れた千津島村(南足柄市千津島)には七一軒ある家
のうち潰れたのは五軒のみで、その隣村の岡野村にいた
っては一軒も潰れていない(『南足柄市史』3)。ところ
が宮台村から東に一㌖ほど離れた吉田島村のうちの[下|しも]
[島|じま](下吉田島村)では八六軒あるうち全壊が一五軒、半
壊が一四軒あり、残りの家は大破したが、人・馬の被害
はなかった(『二宮尊徳全集』第9巻)。またほぼ東に五
㌖ほど離れた山田村(大井町山田)の例をみると、村内
の荻野山中藩領では一四軒が全壊、二四軒が半壊してい
る。荻野山中藩領には地震の二年後の安政二年(一八五
五)当時家が八一軒(『大井町史』資料編 近世(1))ある
が、そのうち半数近くの三八軒が全半壊したわけである。
このことから考えると、和田河原組合と吉田島組合はと
くに被害が大きかったといっても、和田河原組合でまっ
たく家屋の倒壊がなかった村もあり、組合全体がひどい
震災にあったのではなさそうである。これは和田河原組
合と吉田島組合の村むらに被害の甚大な村むらが多かっ
たと理解するべきであろう。そのなかでも宮台村は他村
にくらべておおむね被害が大きかったとみられる。嘉永
地震は国府津―松田断層という活断層のずれによって起
きた地震であるといわれている。宮台村がこの活断層と
どのような関係があるかは、今後の地震学研究をまたな
ければならないだろう。
震災からの復興
報徳仕法を行い、村財政の再建が順
調に進んでいた下島では、地震から
の復興に積極的に取り組みはじめた。地震から一夜明け
た三日、復興に必要な物品を早速手配し、道具をそろえ
ると、四日早朝から木や竹を村に運んできた。こうして
調った材料と道具を使い、五日から村役人と報徳世話人
で普請や[家|や]起こしをはじめた。その結果、下島では二七
日までにようやく雨露をしのげるほどまでに復興をとげ
ることができた(高田稔「足柄の報徳群像1 吉田島村
井上六郎右衛門と辻村徳兵衛」『開成町史研究』7)。
 だがどの村でも下島のように着々と復興することがで
きたわけではなかった。たとえば和田河原組合の村むら
は一二日、藩に見分と救援金の支給を願う嘆願書を提出
した(『南足柄市史』3)。これによると組合の村むらは
藩に被害届を差し出し、役人の見分を願い出たにもかか
わらず、いまだに見分がなく困っているという。ともあ
れ自力で復興できるような被害ではないため、苗代の時
期なのに田も畔も用水もみな崩れて仕事にならず、小屋
掛けの仮住まいでただただその日を送るだけの暮ししか
できないのだという。このままでは百姓一同が騒ぎ立ち、
どのような事態になるかはかりしれないので早速見分の
役人を派遣し、あわせて救援金(御手当)を支給してく
れるよう嘆願したのだった。
 その結果、三月になって藩主の手元金から領内の村む
らに五〇〇両の救援金(頂戴金)が支給された(嘉永六
年「嘉永度大地震諸品貸附施米覚」 草柳才助家文書)。
このとき中沼組合の一部(関本・飯沢・[狩野|かの]・中沼の各
村)と穴部組合の一か村(塚原村)、そして和田河原組合
の一部(和田河原・竹松・[壗下|まました]の各村)と吉田島組合の
一部(牛島・宮台・円通寺・中之名の各村)の計一二か
村に合計約一〇両の救援金が支給された。救援金は組合
村の枠を越えた一二か村で村ごとに支給され、各村で困
窮人の家に割り渡すこととなった(『南足柄市史』3)。
宮台村では被害の大きかった家に対し、一軒につき金一
分(一両の四分の一)ずつ救援金を渡している(『開成町
史』資料編 近世(1))。
 そのほか、藩から領内に三〇〇〇両の拝借金が貸し付
けられた(『新収日本地震史料』五巻別巻一)。宮台村の
場合は一六四両二分の拝借金を無利息一〇か年賦で返済
することになった(嘉永六年「就地震拝借金取立通」 草
柳才助家文書)。また牛島村のうち平左衛門組と呼ばれる
区域では二両一分二朱の拝借金を受け取り、一〇か年賦
で藩へ返済することになった。平左衛門組では翌七年か
ら毎年ほぼ銭二三七文五分を返済し、完済したのは文久
三年(一八六三)である。(『開成町史』資料編 近世(1))。
さらに四月には藩主大久保[忠愨|ただなお]から梅干の下賜をうけ、
千津島・岡野両村の場合、両村で一樽が与えられた。両
村では一軒につき一三個、潰れ家には一軒につき二五個
与えるという規準で配分している(『南足柄市史』3)。
このように小田原領内の村むらは藩からの救援金と拝借
金を得て復興に取り掛かることができたが、田畑や[堰|せき](用
水路)の完全復旧には数年を要したのではないかと考え
られる。
 なおこの年は相模国浦賀沖にアメリカの蒸気船が来航
し、ペリー提督が大統領の親書をたずさえて日本に開国
を要求した年であった。これにともなって海岸防備によ
り小田原藩は村足軽の[村筒|むらづつ]を動員するいっぽう(『小田原
市史』史料編 近世Ⅲ)、武器や食料の輸送のため村むら
から人足を雇い入れ、馬を有償で借り出さなければなら
なかった。藩としては非常時の出費がかさんだため、い
っそうの緊縮財政をせまられたのである。そこで村むら
に年貢を確保し諸役を勤めさせる観点から、藩は一一月、
倹約令を出している。内容は①[博打|ばくち]などの賭け事を禁止
すること、②天保一三年(一八四二)の衣類に関する倹
約令を守ること、③年始や神事・祭礼、祝儀・不祝儀の
際は質素におこない、親兄弟のほかには酒を出さないこ
と、などの三点であった(『開成町史』資料編 近世(1))。
この倹約令は嘉永地震の救済措置に連動するものとみて
よいだろう。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 463
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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