Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3200892
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原附近〕
書名 〔二宮町史 通史編〕H6・3・31二宮町編・発行
本文
[未校訂]地震と大風雨とコロリ
嘉永六(一八五三)年二月二日、午前十
一時四十分頃小田原を震源とする大きな
地震が当地を襲う。この地震による被害の範囲は、相模
川以西、北は津久井、西は沼津、南は熱海まで及んだと
されている大地震であった。特に小田原城下や西郡は死
者はもちろん村々の家が七、八分どおり倒壊するほどで
あった。町域の地震の被害については、山西・川匂の各
村に集中した。川勾神社の日記から当時の様子をみると、
母屋玄関の倒壊や祭檀の大破などが記録され、「近村所々
にて家数多く倒れ、怪我人・死人などこれあり」とある。
この地震の余震は、同月二十一日までも続き、川勾神社
神主二見家では、当日二日・三日・四日の三日間、裏の
畑の中に小屋掛けして夜はそこで暮らした。二日・三日
の両日昼夜の区別なく余震が続き、本震から四日目の五
日になって余震は少なくなったようで二見家家族は、こ
の日から母屋に移り住んだ(二宮町史資料叢書4『川勾
神社日記』(二))。
 余震も鎮まった三月、小田原藩主大久保忠愨自ら被災
地を巡見し、領内駿州・豆州・相州村々へ金五〇〇両の
見舞金を交付した。その結果、町域では山西村に金二両
一分と銭二文、川匂村には金三分二朱と銭五二九文が家
数に応じて割渡され、見舞金を受け取ることとなった。
川匂村ではこの三分二朱と銭五二九文を被害家数四〇軒
に対し、一軒につき七五文ずつ割渡している。ところで
割渡された金額の総計は一分二朱と銭七二四文にしかな
らないが、川匂村では残り一分二朱と銭六〇五文を非常
用の備金として蓄えることにしていた。また、藩主から
の見舞いは、ほかに梅干三樽も加えられていたが、川匂
村には全部で一一五個渡され、一軒に対して三個ずつ渡
された(資料編1近世史料216)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 460
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 二宮【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.002秒