[未校訂] また、この年二月二日には、小田原地方を中心にマグ
ニチュード六・七と推定される大地震が起きた。「朝四つ
時より大ししん(地震)九ツ時迄弐度大ゆれ致、おひおひ
ゆれ、其日内に浜のはたけへ竹のはしらにてこや(小屋)
かけ致し、十日迄おり、内へはたれも居り申さず、(中略)
ま事(誠)に世のめつ(滅)するとは此事かと存候」(『明治
小田原町誌』)と記されている。小田原藩では、藩内村む
らに被害状況を報告させるとともに、藩主による領内巡
見で被害の詳細を把握し、被害民への見舞金や米・穀物
などの支給といった非常時における救済を実施、さらに
藩の[郷倉|ごうくら]にある種籾や藩主お手元金の貸与など復旧に向
けての手段を講じた(『小田原市史史料編近世Ⅲ藩領
2』)。
藩はさらに幕府に公金一万両の拝借を願い出て許可さ
れ、藩内村むらに支給した(『近世』史料427・428・429)。
山北町域の村むらでの被害の様相は、残されていないが、
神縄の山崎家には、四月の藩主お手元金(御仁恵金の請
書)と七月の幕府公金(御拝借金)の受取証文が残され
ている。その金額は、御仁恵金が神縄村など西山家組合
村九か村で一三両一分七〇文で、御拝借金は五〇両で、
それを各村むらの一軒あたりにすると、平均一〇〇文前
後とごく僅かな金額にしかならず、とても地震被害の復
旧や復興の資金とはなり得ないであろう。さらに、翌安
政元年十一月四日にも、再度の大地震(安政東海大地震)
が起き、小田原地方で被害を出している。