[未校訂]文政大地震の発生
文政十一年(一八二八)十一月十二日(陽
暦の十二月十八日)の朝五ツ時上刻(午前
八時頃)、現在の栄町小古瀬・善久寺付近を震源とするマ
グニチュード六・九の直下型地震が発生した。いわゆる
三条地震である。
三条・見附・今町・燕・与板・長岡とその周辺は、震
度六以上の激震に見舞われ、図227に示したように、信濃
川下流域長さ二五㌖一帯で大被害を受けた。被害状況
は、表75に示したように、被災地全体で全壊一万二八五
九軒、半壊八二七五軒、焼失一二〇四軒、死者一五五九
人、怪我人二六六六人、堤防の決壊四万一九一三間とい
う史上まれにみるものであった。地震当日の三条の町は
二・七の市の最中であり、賑わっていた。他所から三条
に出かけていて地震に遭い、即死した者も四六人に上っ
た「三条市。史」上巻槙原称念寺文書によれば、芹川村(長岡市)
明行寺の二六歳の若住職(戒名、円徳)は、前々日から
三条御坊に示談のため出かけ、広川屋へ宿泊中地震に遭
い、家の下敷きになり、即死はしなかったものの、その
怪我が元で十四日に死亡している。
与板における町方の被害状況
さて、与板における被害はどうであ
っただろうか。槙原称念寺文書によ
れば、次のように記されている。
文政十一戊子年霜月十二日朝五つ時大地震、先ず三
条においては御坊所御堂始食堂・庫裏・太鼓楼・集
会所・役僧寮・大門・裏門・茶所・鐘堂皆一時に相
崩、五尊様御出申寸暇も無之内、後門裏の火鉢より
出火致し、折節魔風強、忽大火となり、御境内焼野
原と相成り申候、唯宝蔵并御輿部屋の処相残申候、
其余町家不残相潰て数か所より致出火大火と相成、
依之死人・怪我人其数をしらず、且又上は長岡神田
町を限り、下は小須戸町を限り、西山元は鳥越村を
限り、尤此外も一同大地震にては御座候得共、家潰
れ候程之事無之候、猶又東西之山を限り、町々在々
寺院・在家相潰れ候事未だ其数を知らず、即死・怪
我人又夥敷事、拙僧儀は十一日夜与板中町藤七方に
て初夜を勤、夫より恩行寺へ参り、十日三条御示談
之趣を伝聞仕度につき、致止宿居候処、朝飯後右之
大地震恐敷する事甚しく、走出逃げ帰らんとするに、
町家悉将棋頽し、親を失ひ子を殺し悲声天にひびき、
恐敷♠喚地獄に異ならず、帰村致見れば村内にも拾
軒計も潰れ、拙寺鐘堂も潰れ、御堂は傾のみ、五尊
様無御滞并祖母・母・坊守・伴僧・下男・下女に至
迄皆々怪我も無之につき、なんぎの中之喜なり、然
れ共庫裏は大破損致し、潰れぬ迄之事にて候、猶此
度之大変筆紙に難尽、別記之如し、此節嘉七家内三
図227 文政大地震の被害地域
宇佐美竜夫『大地震』による(『三条市史』上巻より転載)
表75文政大地震の所領別被害
領分
村上藩
高崎藩
新発田藩
館村代官所
沢海藩
与板藩
長岡藩
出雲崎代官所
七日市陣屋
村松藩
桑名藩
池端藩
その他
計
全壊
1,351軒
1,184
1,660
136
259
621
3,657
753
35
1,143
1,305
237
518
12,859
半壊
578軒
502
715
34
107
373
4,559
334
55
371
437
137
73
8,257
焼失
766軒
138
121
18
159
2
1,204
死失人
287人
145
242
15
76
442
101
6
230
1
14
1,559
怪我人
1,220人
196
136
39
160
552
5
226
109
23
2,666
堤欠損
13,253間
1,959
10,416
650
14,296
1,339
41,913
典拠
①
①
①①
②
①
①②
①
①
②
②
②
典拠欄の①は文部省震災予防評議会編『増訂大日本地震史料』
②は五十嵐与作編『資料三条地震』による。社寺等は含まない。(『三条市史』上巻より転載)
人家之下に相成、即死仕候、此時与板町にて三拾八
人相死申候事
槙原村称念寺の住職は地震当日与板町に止宿していた
が、朝食後大地震に見舞われ、町家がことごとく将棋倒
しとなり、親子死に別れ、あちこちから泣き叫ぶ声が上
がり、まさに地獄の様相を呈していた町の状況に遭遇し
た。槙原村においても一〇軒ほどの家が潰れ、称念寺の
鐘堂も潰れ、御堂は傾き、[庫裏|くり]は大破損という被害が出
た。与板町では、称念寺の檀徒であった上横丁の嘉七と
子供二人を含む計三八人が犠牲となったとしている。
また、長明寺文書によれば、十二日五ツ時頭上で世界
中に響き渡るほどのすさまじい音がしたかと思うと山も
崩れんばかりの大揺れとなり、御堂・庫裏は大破、戸・
障子・唐紙は[微塵|みじん]となり、[塔頭|たつちゆう]慶宗寺の御堂・庫裏も大
破、柱十四本も折れ、殿様御殿を始め、御屋敷・御長屋
も破損し、町家の全壊三二〇軒余、半壊一〇〇軒余の被
害が出た。藩からは御慈悲として、町中一同へ一〇日間
の炊き出しが行われた。今回の地震被害の大きさは、三
条・見附・今町・燕・与板の順であるとしている(『資料編』上 巻)。
一方、「文政十一子年十一月十二日地震ニ付」という与
図228 与板町方における被害状況
(「文政十一子年十一月十二日地震ニ付」より作成)
板町内の地震被害地図江口家文書には、
被害に遭った場所や焼失・潰家な
どの被災軒数が書き上げられてい
る。これによれば、町場全体の被
害状況は、焼失一七軒、潰家二五
五軒、半潰一一二軒、土蔵潰一〇、
土蔵破損九一、即死三四人、怪我
人一一八人、神社破損はなく、寺
庵大破九軒、社家大破二軒となっ
ている。当時の町場全体の家数七
七七軒のうち、焼失・潰を免れた
家が三九三軒であり、約半数にあ
たる残りの三八四軒は半潰以上の
重度の被害を受けている。なかで
も特に被害の激しかった地域は、
横町のうち坂下町・片町、蔵小路、
上町、安永、船戸といった町南部
一帯、上横丁(堂前)、下横丁、下
新地、及び町北の稲荷町であった。
片町から安永にかけてと、稲荷町
北部では火災が発生した。中町か
ら新町にかけての町央部の被害は
比較的軽かったようである(表
表76 与板町方における被害状況
町名
稲荷町
下新地
下横丁
新町
(北新町)
(南新町)
中川岸
上横丁(堂前)
中町
(下町)
(中町)
船戸町
安永町
上町
蔵小路
横町
(坂下町)
(宮下町)
(片町)
計
焼失
家数
8
3
6
(6)
17
潰家数
37
15
7
7
(6)
(1)
7
5
(5)
34
36
48
12
47
(1)
(33)
(13)
255
半潰
家数
7
1
1
13
(13)
14
10
(2)
(10)
26
14
25
1
(1)
112
被災家
計
52
16
8
20
(19)
(1)
21
15
(2)
(15)
60
53
73
12
54
(1)
(34)
(19)
384
焼失・潰
を免がれ
た家数
72
4
5
107
(82)
(25)
10
0
76
(34)
(42)
26
15
32
2
44
(28)
(15)
(1)
393
重被害
度(%)
41.9
80.0
61.5
15.7
(18.8)
(3.8)
0.0
100.0
16.5
(5.6)
(26.3)
69.8
77.9
69.5
85.7
55.1
(3.4)
(69.4)
(95.0)
49.4
(「文政十一子年十一月十二日地震ニ付」より作成)
76)。
村方の被害状況
与板藩領内村々の被
害状況と手当支給額
をまとめたものが表
77である。北は松ケ
崎新田(中之島町)
から本与板・富岡(和
島村)、西は富岡・阿
弥陀瀬(和島村)か
ら気比宮(三島町)、
南は気比宮から中
条・大野新田(以上、
三島町)、東は蔦都か
ら鶴ケ曽根(中之島
町)を結ぶ範囲内に
被害が発生してい
る。全壊二七二軒、
半壊一七二軒、即死
者二二人を数え、と
くに被害の大きかっ
たのが、北東部の本
表77 与板藩領村々の被害と手当支給状況
村名
本与板
富岡
阿弥陀瀬
中条
大野新田
中田
中村
槙原
気比宮
蔦都
吉津
海老島勇次新田
松ケ崎新田
福原
末宝
中野西
鶴ケ曽根
山沢
堤下
倉谷
原
割元新木与一左衛門
庄屋吉平
計
潰家
23軒
2
43
21
2
23
11
4
6
1
2
4
28
28
31
16
3
24
272
半潰
25軒
4
2
3
1
20
28
4
8
7
8
11
5
15
9
17
2
3
172
籾支給
俵数
72俵
4
4
89
46
6
67
51
12
12
10
11
17
68
62
63
48
9
23
2
52
5
3
736
15歳以上
即死者数
1人
3
1
1
2
1
1
2
12
14歳以下
即死者数
1人
2
1
2
1
3
10
銭支給額
700文
1,900
200
500
900
1,200
1,100
500
1,000
8,000
(「文政11年関守」より作成)
与板と海老島勇次新田・松ケ崎新田・福原・末宝・中野
西・鶴ケ曽根(以上六か村、中之島町)の各村々、南部
の中条・大野新田・中村・槙原の各村々及び町方に隣接
した堤下・原両村であった。
この地震で即死した者は次のとおりであった。
・本与板村 庄左衛門妻(二二歳)、源蔵倅(二歳)
・中条村 五郎七倅彦兵衛(一一歳)、同人女子さく、
佐之助孫女子(二〇歳)、新五郎母(八〇
歳)、孫左衛門女子そり(一五歳)
・槙原村 藤七孫竹次郎(二歳)
・気比宮村 清八母(六四歳)
・蔦都村 大惣次妹ちい(一七歳)、量助孫久蔵
(一一歳)、又左衛門孫又六(一一歳)
・末宝村 重兵衛(六一歳)、庄三郎妻(四五歳)、
権平倅(二歳)
・中野西村 儀内姉(五九歳)、新右衛門女子たか
(一四歳)、佐次右衛門女子そめ(六歳)、
同人倅平内(九歳)
・堤下 万助妻(四九歳)
・原 嘉兵衛妻(五二歳)、弥治兵衛母(六四歳)
即死者の家のほとんどは全壊であった。地震の発生した
午前八時頃には大半の人々はまだ家の中にいたため、突
如襲った地震による家の倒壊に逃げ遅れた女・子供や老
人たちが、建物の下敷となってしまったのである。
地震の起こった文政十一年は、夏の間は日照り続きで
植え忖けが遅れ、出穂時には長雨にたたられ、悪作とな
った。この年の九月に与板・山沢・中村・蔦都・吉津・
鶴ケ曽根の六か村から与板藩役所へ検見願いが出されて
いる。地震は、このような悪状況にさらに拍車をかける
こととなったのである。地震により家がことごとく倒壊
した中条・大野新田の両村では、保管しておいた米俵も
雨漏りで濡れてしまい、年貢米としての用が足せないと
して、年貢上納期限の延期と金納への変更を地震直後に
藩に願い出ている。十二月には、松ケ崎新田・鶴ケ曽根・
福原・中野西・末宝の川東五か村からも同様の願いが出
されている。
地震はまた、信濃川堤防の破損をもたらした。幅三、
四尺(〇・九~一・二㍍)から五、六尺(一・五~一・
八㍍)ほどに及ぶ割れ目ができ、なかには堤防の形をな
さない箇所もできてしまった。川東五か村は、同月さら
に堤防普請願いを藩役所へ願い出ている。翌文政十二年
二月には、この川東五か村とともに与板村も、目論見帳
と麁絵図を付して国役普請を藩役所へ願い出ている。
藩による救済と復興活動
地震で家屋損壊の被害を受けた者に対
して、村方へは文政十二年四月十一日
に、町方へは四月十四日に与板藩から籾が支給された。
全壊した家には二俵、半壊した家には一俵が支給された。
庄屋及び寺院への支給額は、それより一俵ずつ多かった。
領内の村方全体への支給額は七三六俵であった。さらに、
即死者の出た家には、四月十五日に銭が支給された。一
五歳以上には五〇〇文、一四歳以下には二〇〇文が支給
され、銭の支給総額は八貫文であった。
凶作と大地震とにより、文政十二年正月から米価が高
騰を続け、それにつれて諸物価も上がり、世情不穏な状
況となった。近隣では、出雲崎の越前屋をはじめ、川東
の丸山興野村(見附市)庄屋や今町の中之島村大竹家分
家の与文治などが打ちこわしに遭うような事態に発展し
た。そこで、与板藩では、豪商三輪権平・山田四郎左衛
門から米三〇〇俵ずつ、大橋小左衛門・平野六兵衛から
一〇〇俵ずつ、そのほか津兵衛・船津勘七・中山五郎作・
門太郎などからも米を供出させ、藩からの米を合わせて
合計一五〇〇~一六〇〇俵を、町家のうち当日凌ぎがた
き者二〇〇軒を対象に、三月から町会所において、玄米
一升につき六三文で、一人につき一日三合ずつ一〇日分
を、一〇日目ごとに安売りすることとした。さらに、町
方に対しては、本壊・半壊の被害を受けた者以外にも百
姓一同へ手当金一朱ずつを支給した。
この処置により、与板町方においては不穏な動きに発
展せずに済んだが、与板村は町家とは別扱いとして安売
米の対象からはずされ、手当金も支給されなかった。そ
こで、与板村は四月、藩へ米六五俵の五か年賦拝借を願
い出たが聞き届けられなかった。このため、与板村では
村独自で百姓一同へ手当金一朱ずつを支給したが、藩の
対応に不満を示している。
地震により家屋損壊の被害を受けた者へは藩から炊き
出しが施されたが、五月には本壊一人につき一日二合五
勺三日分、半壊一人につき一日二合五勺二日分の米が支
給された。各村々への支給額は次のとおりであった。
二斗八升 山沢村
二俵二斗六升 槙原村
二斗一升七合五勺 気比宮村
四俵九升七合五勺 中条村
二俵一斗一升 大野新田
一斗七升五合 中田村
六升七合五勺 荒巻村
三俵一斗八升七合五勺 中村
二斗九升二合五勺 吉津村
一俵一斗七升五合 蔦都村
四俵一斗五合 本与板村
四升五合 富岡村
一升五合 阿弥陀瀬村
一斗三升二合五勺 海老島勇次新田
二斗六升七合五勺 松ケ崎新田
三俵一斗八升 福原村
三俵三斗一升七合五勺 末宝村
二俵二斗八升七合五勺 中野西村
二俵三斗七升七合五勺 鶴ケ曽根村
地震で潰れた家は、その後次第に再建が進んでいった。
槙原村佐藤家では、地震による家直しを三月二十三日か
ら二十五日まで金三両で大工衆に請け負わせている。七
月には、佐藤家から横町善吉の家作補助として二尺三、
四寸から七、八寸までの杉四本と白米三升、八月には同
町善右衛門へ二尺七寸廻りの杉二本と白米三升を遣わし
ている。しかし、大野新田(三島町)では、七月段階で
二三軒中一〇軒がようやく建前を終えたにとどまってい
た。
このような状況のなか、五月に当地では四、五〇年間
に聞き及ばないほどの大風が村々を襲った。いまだに仮
小屋住まいであった者は、屋根が大半吹き飛ばされ、家
財道具が散乱するという被害を受けた。畑作物の被害も
大きかった。さらに、秋にはまたしても長雨にたたられ、
凶作となった。こうして、地震による痛手が癒え切らな
いまま連年の凶作となり、天保飢饉へとつながっていく
こととなる。