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項目 内容
ID J3200737
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔加茂市史資料編2近世〕加茂市史編集委員会編H20・3・1 加茂市発行
本文
[未校訂]第三項 文政十一年の三条地震
二四八 三条地震の被害について新発田藩の記録
文政十一年(一八二八)十一月
十四日
一 三奉行より去ル十二日朝五時之地震ニ而赤渋組上八
枚村堤通八拾間程之場所、土中割込其外胼入めり込、
水砂吹出し床上り并中ノ嶋組今町ニ而潰家・焼失家等四
五百軒ニおよひ、死失・怪我人等過分有之旨、鵜森組
鵜森村ニも潰家・半潰等弐拾軒余、横死人等も有之旨
追々注進、尤死失人・潰家等取調可申出旨相届候ニ付、
為御締郡廻とも差出候旨申聞候事
十五日
一 三奉行より右之通潰家等ニ而給物取拵等も出来兼、
其上時節柄之儀可及飢体之由、出役郡廻り共より申越
候、右体変事之儀ニ而気立居不隠事ニ付、私共之内壱人
出役、尤郡廻り壱人召連此節之御手宛為取計度旨ニ而
御米三百俵米金ニ而中積り御渡方申立候、右者尤之儀ニ
付、申立之通御渡可被成下ニ付、早速出役之上取計候
様相達候、尤郡廻り江立会、御足軽目付壱人申立ニ付、
御目付江申達、御用向之儀三奉行江相伺候様可申付旨相
達候事
但、御手充米之儀、元〆江断候、尤沼垂御蔵所より御
米差出候由之事
一 三条本成寺も焼失致候由相聞候処、遷光院様御廟
所有之ニ付、御使者を以御進物可被遣候、私共之内出
役被仰付候儀ニ候ハヽ右御使者も相勤可申哉之旨伺出
候処、右者風聞而巳ニ而虚実不分明、殊ニ御留守年之儀ニ
付、たとへ焼失ニ而も差付御使者ヲ以御金物等有之候
も如何ニ付、出役先ニ而承合候ハヽ否可相分、其上ニて
弥焼失致候儀候ハヽ一ト通御見舞御口上申達御廟所之
様子承り罷帰候様申達候事
(新発田市立図書館所蔵「文政十一年御留守御在城行事」)
[解説] 三条地震が起こったのは文政十一年十一月十
二日の朝五ツ時(午前八時ころ)であった。マグニチ
ュード六・九で中越地方に大きな被害をもたらした。
十四日の新発田藩への報告では、今町(見附市)で倒
壊・焼失した家が四五〇軒、死傷者多数、鵜森組の倒
壊・半倒壊の家屋が二〇軒余で、死者も出ていること
などがわかる。
二五〇 下条村の被害
(年不詳)
地震ノ事
文政十一子年十一月十二日朝五ツ時、大地震出来、当邑
皆潰・半潰、三組共過分ニ候、中組凡七十家、皆潰長
三郎・源右衛門・源左衛門・与七・津兵衛・長吉・清
助・清助・権助・孫左衛門・文治郎・仁左衛門・門兵
衛・九兵衛・津左衛門・武四郎、同人妻子即死イタシ、
伝兵衛其外半潰数多有印カタシ、御役所御注進御出張
ノ上、時ノ手宛トシテ家一軒ニ付銭一貫五百文、半潰
七百五拾文下置、其外極難渋者ニ御手宛有り、同十二
月、水原市島次郎吉ヨリ池ノ端御知行所地震邑々イ手
宛金百疋、本潰小屋掛ケ手宛下サレ、翌丑四月、御役
所ヨリ小屋金、本潰弐百疋・半潰百疋ツゝ、米石五十
文ニ付八合也、諸々郷家安米うり候、小屋掛ニ付村方
人足其組々ニテ掛呉申シ、三組人足不持、地震痛場所
上長岡ヨリ加茂町迄、其内格別痛三条町ハ不及申掛所
ニテ火失仕死人数不知、見付町・今町共右同タン、焼
失死人邑々不及申ニ加茂町・下条・加茂新田サホトナ
ンナシ、外町々も少々ツヽ也
(上下条 永井昭司氏所蔵「牛膓家系図」)
[解説] 下条東・中・西三か村で多くの家屋が全半壊と
なり、中村の場合は約七〇軒のうち一六軒が全壊し、
二人の死者がでている。地震の被害は長岡から加茂町
に及び、とりわけ三条・見附・今町の被害が大きく、
加茂・下条・加茂新田の被害はそれより小さいとして
いる。
二五一 黒水村の被害
文政十一年(一八二八)十一月
(表紙)文政十一年
地震所々大変留書
戊子十一月十二日
文政十一年戊子十一月十二日朝五ツ時之大地震稀有之事
ニ御座候、誠ニ魂消申候、我等宅玄関・湯殿中仕切壁壱
間打伏、鑓ノ間弐間之壁流(長押)迄弐間共打落流共落、夫より
広間迄少々壁落候、小座敷床落掛落、奥之方中ノ床・床
間床脇三尺壁落候、勝手座敷奥ノ間弐間壁落申候、其外
壁廻り少々ひゞわれ候得共格別之儀無之、家内怪(怪我)家人壱
も無之、酒蔵前之付ひさしたほし候得共、酒者朝造其外有
之候得共、弐三斗計りゆすりこほし、酒元一切こほし不
申故損失無之、土蔵はじ壁共落シ候所も有之候得共、内
之道具者損し無之、長屋廻り少々之破損而已、村方百姓作
右衛門・五助両人潰申候、半潰常右衛門・小次右衛門・
勘之丞三軒、都五軒之書、其外堂寺百姓家過半破損有之
候得共申立ニも不及候、大地震ニ而見附町方在共御本陣
始旅屋之堂寺過半ゆり潰、見附町家者不残ゆり潰、其之上
町家□□□かわ焼失ニ付、御代官狩野全之助様御下役田
中九助殿十一月十三日朝明方御出張、同夜明方佐藤次郎
大夫殿下役兼帯ニ而杉野勇助殿出役吉田栄左衛門殿潰家
其外山崩見分として出張、尤杉野勇助殿下田・七谷掛り
ニ而先ツ下田へ御立越被成候、同十六日御奉行近藤治左
衛門様御下役中村佐一兵衛殿、書役宮嶋兵左衛門殿見付
御出張
(後略)
(黒水 山崎徳左家文書)
[解説] 地震による黒水村山﨑家と村内の被害状況が
詳細に記されている。部屋の壁が崩れ落ち、ひび割れたり
している。また強いゆれのために酒蔵の酒が二、三斗こぼ
れている。黒水村の潰れ家は二軒、半壊が三軒、大半の百
姓家が損害を受けている。
二五三 「瞽女口説地震の身の上」
文政十二年(一八二九)
(表紙)大字六行 板[元 |きまゝや]ひま右衛門
[瞽女口説地震|ごぜくどきちしん]の[身|ミ]の[上|うへ]
泣和津地声太夫
瞽女口説地震の身の上
天地ひらけてふしぎをいはゞ、近江湖・駿河の富士ハ、
たんだ一夜に出来たと聞た、それハ見もせぬ昔の事よ、
こゝにふしぎは越後のじしん、いふも語るも身のけがよ
だつ、年は文政十一年の時ハしも月なかばの二日、朝の
五ツとおぼしき頃に、どんとゆりくるぢしんの[騒|さわぎ]、たば
こ一ふく落さぬ内に、上ミは長岡・新潟かけて、中に三条・
今町・見付、つぶす跡から一時の煙り、それにつゞいて
与板や燕、さいの村々其数しれず、つぶす家数ハいく千
万ぞ、[扠|さす]やうつばり・柱や[桁|けた]に背ぼね・[肩腰|かたこし]・[頭|かしら]をうた
れ、目鼻口より血をはきながら、のがれ出んと狂気のこ
とく、もがきくるしミ、つひたへはてる、手おひ・死人
ハ書キ尽クされず、数ズも限りもあらまし計り、親ハ子を
すて、子ハ親を[捨|すて]、あかぬ夫婦の中カをもいはず、捨てに
げ出すそのゆく先キハ、ほのうもえたち、大地がわれて、
砂をふき出し水もミ上ゲて、ゆくに行カれずたゝずむ内
に、風ハはげしく後ロを見れバ、火のこふきたてくわゑん
をかむり、あつやせつなやくるしやこはや、中カにあはれ
ハ手足をはさみ、[肉|にく]をひしがれ[骨|ほね]うちくだき、泣つさけ
びつたすけてくれと、よべどまねけどのがるゝ人も、命
チ大事と見向キもやらず、かくご〳〵と呼はりながら、西
よ東よ北南よと、思ひ〳〵に[迯行|にげゆく]声ハ、げにやきやうく
わん大きやうくわんの、[責|せめ]も是にハよもまさらじよ、見
るも中カ々ほね身にとふる、今ハ此世がめっして仕廻、
[弥勒|ミろく]しゆつせの世となるやらん、又ハならくへしづミも
するか、いふもおろかや語るも涙、きうに祈禱の湯の花
などゝ、せつな念仏ッとなひて見ても、なんのしるしも
あらおそろしや、昼夜うごきハすこしも[止|やま]ず、およそ七
十[余|よ]日が間タ、きもゝ心もどうなる事と、親子兄弟かほ見
合せて、ともにためいきつきゐる計り、御大名にハ村上・
柴田・与板・長岡・村松・桑名・会津・高崎まだ其外カに、
御料御陣(陣)屋・はた本ト衆も、思ひ〳〵の御手当テあれど、
時が時とて空うちくもり、雪ハちらつく寒サはまさる、そ
とにゐられず涙の中カに、一家親類よりあつまりて、大工
いらずのほったて小屋に、つゞれかむりて[凌|しの]グとすれど、
ふゞきたちこミ目もあはされず、殊にことしハ大悪作で、
米ハ[高直諸色|かうじきしゆしき]も高く、それに[前代未聞|ぜんだいミもん]の[変事|へんじ]、是をつら
〳〵かんがへ見るに、[士農工商儒仏|しのうこうしようじゆぶつ]も神ミも、道をわすれ
て[利欲|りよく]にまよひ、上下わかたぬ[奢|おご]りをきはめ、武家ハ武
をすてそろばんまくら、それに習ふて地下役人も、下を
しひたげ己レをおごる、昔シ[違作|いさく]のはなしをきくに、葛を
ほったり[磯菜|いそな]をひろひ、それで己レが命チをつなぎ、[収納|しゆのう]
[作徳|さくとく]立テしときくに、今の百姓ハそれとハちがひ、少シ違
作のとしがらにても、[検見|けんミ]ねがふのはいしやくなどゝ、
上ミへ御くらうかけたる下タハ、あるのないのと親方まへ
ハ、無勘定にて[内證|ないしやう]でおごり、米の黒いは大そんなどゝ、
味噌ハ三年ンたゝねバくはず、在郷村にもかミゆひ・ふろ
屋・煮売小ミせの[床|とこ]まへみれバ、笛や三味線・たいこを
かさり、[紋日|もんび]・[物日|ものび]の其時々ハ、わかい者共よりあつま
りて、おどりけいこのぢしばゐ抔と、つかひちらして出
どこにこまり、一ッあはせに縄をバかけて、つひにしま
ひハ他国へはしる、名子や水のミはうこう人ンも、はお
り・からかさ・たひ・ぬり下駄よ、下女や子どもゝ盆正
月は、いつちわるいがちりめんおびで、銀のかんざし・
べつかうの[櫛|くし]よ、かい帳まゐりのふうぞく見れば、だん
な様よりおともがりつは、それハまだしも大工の風儀、
ゆふきわた入レはかたの帯に、こんのもゝ引白足袋はい
て、朝サハおそふてやすミハ長い、作料まさねバゆく事な
らぬ、酒ハ一日二どだせなどゝ、天ンをおそれぬわがまゝ
計り、日料取迄道理をわすれ、ふしん家作のはやるにまか
せ、出入たんなもごぶさた計り、下々ハ十日も先キから頼
ミ、やつと一日顔出すさへも、気だんとらねは日なかハ遊
ふ、それにじゆんじて町家の普請、たがひびゝしくせり
あふ故か、二重たる木に[銅|あかがね]まいて、やねハのしぶき柱の
たけハ、てうどむかしの二本ンの長サ、[樫|けやき]ずくめのざうさ
く見るに、御殿ン廻りか宮拝殿か、[地下|ぢげ]の家作と見られぬ
しかけ、まへをとふるもかた身がすくむ、されど心ハけ
ものにおとる、いかなこんきょな[年柄|としがら]にても、収納やち
んのようしやもあらす、少シさがると[店|たな]おっ立テる、田を
バあげよと[小前|こまえ]をせめて、じひの心ハけしつぶ程も、な
いはことわり浮世の道理、ふかくかんがへしらざる故ぞ、
[世間豪家|せけんがうか]の家風を見るに、[古|ふる]い[持家|もちや]ハかんべんあつく、
にはか[分限|ぶげん]は万事がひどい、わるい心ハ見習ひやすく、
うらや・たなかり・ぼてふり迄も、米がやすいとけんし
き高く、ざいごう者をバ足下に見なし、五拾まうけりや
口米あると、いふにいはれぬ[広言|くわうげん]はいて、義太夫めりや
す富本などゝ、ちょっとしやれにも江戸まへ計り、それは
扨おき此近年ンの、[儒者|じゆしや]のふうぞくつく〳〵見るに、黒
いはおりに大小たいし、詩たの文たのかうしやくなとゝ、
鼻のたかいはてんぐをはだし、銭のないのハこじきにお
とる、ちうや大酒ケどうらく尽し、己レ計リが弟子共迄も、
金をつかふが風流人ンよ、道を守るハ[俗物|ぞくぶつ]などゝ、ミやう
りしらずに銭金まいて、書物よミ〳〵しんしやうつぶす、
わけて近年ン寺衆の風義、[清僧禅師|せいそぜんじ]ともつたいらしく、赤
い衣モハおしろいくさく、ひかるおけさハさしミのかを
り、尼の三ン衣は子もちのにほひ、朝のつとめは御小僧
計、よひのつとめハかねうつ計、ちうや小めくり御ふせ
をむいて、酒とかけ碁で寺役をわすれ、[居間|ゐま]の柱の状さ
し見れは、様ハ丸ざまごぞんじよりと、べにのついたる
かなぶミ計り、もんと寺衆ハ利欲にふけり、く(勧化)わんけ一
座に(報謝)ほうやハ四五ど、祖師のほうじや[自坊|じぼう]の法事、畳ミや
ねがへざうさくぶしん、嫁をしつけるつぎめをすると、
後生ハ二の次キ先ッ其事に、だんなあつめて身がつて計り、
おごりさうだんくわん金ンさべり、法事しまいのはなし
をきけば、こんど法事ハじせつがわるい、さんけふそく
でまうけがないと、祖師の法事をあきなひらしく、人め
はぢずに咄をめさる、後生しらずのじやけんな者も、金
を上ゲれバしんじんしやとて、[住寺|じうじ]ごりよんのあしらい
ちがう、なんぼ信心りやうげの人も、金を上ゲねバげだう
じやなどゝ、葬礼おさへる宗判せぬと、上をおそれぬ法
外計り、寺が寺とて同行共も、御講もどりの咄をきけバ、
しうとこじうとハ嫁聟そしり、嫁やむすこハしうとのざ
んぞ、そして近年安心まへも、いたこ長うた新内なとを、
ませて語らにや参りがないと、寝ても起ても欲心計り、仏
まかせのぢいばゞたちも、あちらこちらですゝめがちが
ひ、どれが誠か[迷|まよ]ひハはれぬ、後生の大事ハたのまず方
と、すゝめながらもだんなをよせて、金の[無心|むしん]ハおたの
ミ方よ、口へ[出|いだ]すハ[自力|じりき]のたのミ、口へださねバがいけ
にそむく、おより合だのさうぞくなどゝ、しりもせぬこ
とうかべたやうに、おのもわからぬ後生をもだき、はて
ハたがひにいさかひ計り、中カに見事なりやうげをいひ
ば、両刀つかひとミやうもくつける、うそか誠ハ死なね
バしれぬ、わけてつまらぬ法花のをしへ、蓮花往生でし
くじりながら、いまだまよひの目がさめぬやら、他宗そ
しりてわが宗じまん、あまりをしへがかたいぢ故に、ひ
ろいうきよを小せまくくらす、仏ぎらひの[神道衆|しんたうしゆ]も、
[和学神学六根清浄|わがくしんがくるつこんしやう〳〵]、はらひ給ひと[家財|かざい]をはらひ、清め給
ふと身上洗ふ、口のふじやうはけがれた物を、のまずく
ハねバいひわけたてど、むねと心はたゞもろ〳〵の、慾
と悪との不浄でそまる、祢ぎの[社家|しやけ]じやの神主なども、
神の[御末|ミすへ]と身ハ高ぶれと、富をするやらあやつりかぶき、
まやしあつめて山事計り、きたう[神楽|かぐら]も銭からきめる、
それが[神慮|しんりよ]にかなふかしらん、わけてにくいハゐしや衆
でござる、となり村へも馬かごもだき、しれぬ病ひをの
みこミ顔に、少シやうだいわるいと見れバ、人にゆづりて
己レははづし、さじの先キより口先キ上手、しろとだまし
の手がらをはなし、[金匱要略傷寒倫|きんきゑうりやくしやうかんろん]ハ、わかいじぶんに
習ふた計、たまに取だしふくして見ても、やミの[烏|からす]でわ
からぬ故に、きかずさはらぬくすりのかずを、たんとの
ませて[衣服|ゑふく]をかざり、礼の多少で病気をつかひ、病家見
まひもうけむけ立て、うら屋せどやハ十日にいちど、金
になるのハ[毎日|まいにち]四五ど、さればゐしや衆のおきてといふ
ハ、銭や金にハかゝはるまじく、人をすくふが教の本と、
道のいましめ守らぬわけは、欲がふかふてもんもふ故ぞ、
あんま取り迄それ見習ひて、近い頃まで上ミ下ももんで、
廿四文が通用なるに、いつの程にかいづくの町も、やが
て八文ましたるかハり、ちからいれずに手びやうし計り、
すこし長いとなかまがにくむ、又ハ婚礼法事の席へ、ゆ
すりがましく大勢つめて、祝義くやうの多少をねだり、
ならぬ[在家|ざいけ]ハ手あまるうはさ、さればいち〳〵さがして
見れば、しのふかうしやうじゆぶつも神も、くどくこと
ばにちがひはあらじ、天のいましめ今よりさとり、忠と
孝との二ツの道と、己レ〳〵が職分守り、上ミにゐる人下
モあはれミて、下モにゐる人上ミうやまゐて、常にけんや
く慈悲心ンふかく、[奢|おご]る心を[慎|つつし]むならバ、かゝる[稀代|きだい]の変
事ハあらじ、かゝるこんきょもあるまい物ぞ、さらバ仏ケ
も天道様も、恵ミ給ひて只世の中ハ、末世末代波風たゝ
ず、四海太平諸色もやすく、米も下直に五穀もミのり、
ぢしん所か町在共に、子孫さかゆき末繁昌の、[基|もとい]なるべ
きためしを上ケて、語る此身も罪深きやら、じしん[潰|つぶ]れの
堀立小屋に、しバし[籠|こも]りて世の人々の、穴とくせとを書
キしるしおく、筆の命チ[毛|げ]おそろしや
(新町 養徳文庫大橋栄雄氏所蔵)
[解説] [瞽女|ご ぜ]などが三味線に合わせてうたった[口説|くどき]歌
である。三条地震の惨状を題材に、文化・文政期(一八〇
四~一八三〇)における貴賎を問わないぜいたくな暮し
とおごり、とりわけ新興地主層や儒者・僧侶・神官・医者
の腐敗・堕落を痛烈に批判している。「忠孝の道と職分を
守り、常に質素・倹約、慈悲心深く、おごる心をつつしむ
ならば、このような変事はおこらない」と儒教精神を説い
ている。作者は矢立新田庄屋斎藤七兵衛(真幸)で、地震
の翌文政十二年の作である。
二五四 地震の被害について森田千庵の覚書き
天保三年(一八三二)六月
(表紙) 天保三閏辰年六月吉旦
文政時変雑録 完
 森田秘蔵書 不許他見
同(文政十一年)十一月十二日朝五つ時大地震なり、加茂・上条両町ニ
而家数千軒計之処にて潰家二十軒余り、半潰五六十軒、死
人三人也、寛文五年六月五日之地震大抵如此様子也、中
越後之中尤も甚き場処ハ与板・見附・今町・三条之間也、
在村ニ而ハ一村皆潰等之処も多く有之、都而其節中越後之
死人一千弐百余人なりとぞ、是年凶作ニ而米相場高値
(後略)
(加茂市立図書館所蔵)
[解説] 三条地震について加茂町の医師森田千庵は、加
茂・上条両村で全壊二〇軒余、半壊五、六〇軒、死者三人
としている。またもっとも被害の大きかった場所として
与板・見附・今町・三条をあげている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 365
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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