[未校訂]2 寛政地変と津波被害
一七九二年五月二十一日(寛政四年四月朔日)、島原半
島にある眉山が崩壊し、山体をつくっていた土石が海中
に流れ出たため津波が発生し、島原及び熊本地方合わせ
て死者一万五〇〇〇人、家屋倒壊一二〇〇戸の大惨事が
起こっている。眉山のほぼ対面に位置する河内町も沿岸
村落を中心に、この災にまき込まれた。これが寛政地変
である。以来一九八年、やがて二〇〇年目を迎えようと
している。
寛政地変は規模において災害史上に特筆されるもので
あり、日本最大の火山災害となっていて、この災害を「島
原大変肥後迷惑」と呼んでいる。この雲仙岳の噴火、地
震については、当時の記録がかなり残され、後年に整理、
編集されたり、それらをもとに研究された寛政地変に関
する文献も多く、その実態はほぼ摑むことができる。
当時、雲仙火山の主峰である普賢岳は火山活動が活発
で溶岩の流出なども見られた(図1参照)。眉山崩壊の原
因は謎につつまれ、古くから地震崩壊説と火山爆裂説と
があり、最近ではそれに加えて温泉水が大量に出たため
地すべりを起こしたとする熱水増大説も提唱されてい
る。しかしながら、激論がたたかわされてきた眉山大崩
壊の原因と特定することは困難とした太田(一九八七)
は、「眉山大崩壊は、脆弱な山体が火山活動によって激増
した熱水と、直下型浅発中~小地震との複合作用により、
瞬間的に安定性が低下して発生した。岩屑流は海中に突
入し津波を誘発、死者一万五、〇〇〇人に達する大被害
をもたらした。」とまとめており、その見解が今日では代
表のようになっている。
ここでは、津波被害という標題の性格上、災いを引き
起こした島原側とそのために被害を受けた熊本側につい
て述べるが、河内町に残る史実については洩れなくもり
込んでいきたい。
調査に当っては、主に次の文献を参考にし一部引用し
た。古文書については、本文の中に紹介するのでここで
は省略する。
隈部守(一九六六):「有明海沿岸地域における寛政地
変の歴史地理学的研究」、『立命館文学』第二四八号、三
五~五九頁
片山信夫(一九七四):「島原大変に関する自然現象の古
記録」、『九大理・島原火山観測所研究報告』九、一~四
五頁
古谷尊彦(一九七四):「一七九二年の眉山大崩壊の地形
学的一考察」、『京大防災研報』一七B、二五九~二六四
頁
菊池万雄(一九八〇):『日本の歴史災害―江戸後期の寺
院過去帳による実証―』古今書院
太田一也(一九八四):『雲仙火山―地形・地質と火山現象
―』長崎県
太田一也(一九八七):『眉山大崩壊のメカニズムと津
波」、『月刊地球』一九八七・四、二一四~二二〇頁
その他、『飽田町誌』や「岱明町地方史」など、参考と
した文献は本文中で紹介する。
調査に際して、熊本大学教育学部渡辺一徳助教授に多
くの御教示を賜わった。田辺哲夫河内町史編集委員長、
蓮光寺住職大友見正氏には河内町に残されている古記録
等について貴重な御意見をいただいた。河内町教育委員
会荒木孝道氏には資料の集収等で大変お世話になった。
記して謝意を表したい。
(一) 地変が起きた島原側
(1) 眉山大崩壊に至る経緯
寛政地変は、日本の津波被害でも特異なものであった。
それは火山活動に関連して狭い内湾で発生したものであ
って、火山活動の副産物としての津波である。
この大崩壊の原因は一体何だったのだろうか。先にも
述べたように古くから地震崩壊説、火山爆裂説、そして
熱水増大説も提唱されて、一九八〇年のアメリカのセン
トヘレンズ火山の大爆裂や一九八四年の木曽御岳山での
地震動による岩なだれの発生は、火山体に発生する巨大
崩壊のメカニズムについて多くの示唆を与えた。太田(一
九八七)による眉山大崩壊の見解は以下のようである。
寛政地変の前年あたりから、雲仙岳の一帯で地震や噴
火がみられたことは数多くの古記録に残されている。そ
の中で、片山(一九七四)は、自然科学的吟味を行って
おり、それによると、
眉山大崩壊が発生したのは寛政四年(一七九二)五月
二十一日であるが、雲山火山ではその前年の十一月ごろ
から地震が群発を始めていた。震央域は反対側の西麓と
みられ、千々石湾に面した現在の小浜、千々石両町一帯
で被害がみられた。この地域では、大正十一年(一九二
二)と昭和五十九年(一九八四)にも被害地震が発生し
ていて、日本では有数の地震多発地域として知られてい
る。その三か月後には、眉山に隣接する普賢岳で噴火が
始まり、やがて溶岩(新焼溶岩)を流し出した。この溶
岩流出はほぼ五〇日間で終ったが、噴煙活動は半年以上
に及んだ。その近傍からは、寛文三年(一六六三)にも
溶岩(古焼溶岩)を流出しているが、有史後の噴火
はこの普賢岳に限られている。地震活動はその後も
断続したが、噴火開始二か月後の四月に入ると二十
一日から二十五日にかけて最大規模の地震が発生
し、眉山では局部崩落、島原城一帯では地割れを生
じた。また、眉山の背後では炭酸ガスの噴出がみら
れ、二十九日に至ると、眉山では「故えなくして自
ずから」小規模な地すべり(楠平)が発生した。こ
こは、その後に発生した大崩壊の中心地である。そ
して、西側から東側へ移行してきた一連の活動のク
ライマックスは五月二十一日の夜に演じられた。そ
の日、十七時ごろより地震が数回あり、二十時ごろ
には強いのが二回発生した。これらは四月二十五日
の最大規模の地震に比べると揺れの大きさは半分ぐ
らい、二回目の地震は漂う舟のようにゆっくりと揺
れたが大音響を伴っていて、やがて津波が押し寄せ
てきた。当夜は大潮であったが、暗闇で何事か実態
は把握されなかった。翌朝になって眉山の大崩壊が
確認され、山頂は、一五〇メートル低下し、海岸線
は約八〇〇メートル前出していた。崩壊壁からは地
下水が噴出していて、押し寄せた津波には温かい所
もあった。前面には多数の流れ山が形成され、崩壊
量は三億四〇〇〇万立方メートルにも達していた
図1 雲仙火山における有史後の噴火地点と眉山大崩壊発生位置(太田一也、1987)
表1 島原大変に関連した自然現象の日誌
活動段階
西暦と日本標準時年・月・日・時
古記録
前駆地震群
1791.11.3.20
地震の始まり、以後毎日3~4回、地鳴りを伴う。
普賢岳噴火
1792.2.11
普賢(ふげん)祠前のくぼみから噴煙を認む。
2.27.10半
穴迫(あなさこ)谷びわのばちで噴煙、砂利・土砂も
噴出。
2.29―3.1
穴迫(あなさこ)谷びわのばちで新焼けよう岩流生れ
る。
3.21.16半
蜂(はち)の窪(くぼ)震動、噴煙、またよう岩流も
噴出、やがてびわのばちからのものに合流、普賢祠前
の地獄は沼状になる。
3.24―3.25
古焼(ふるやけ)頭から噴煙。
4中旬
おしが谷に炭酸ガス噴出、呼吸困難、鳥獣死ぬ。
三月朔地震群
4.21.17―4.22
三月朔の地震、震度は島原で5~6、新しい湧水、地
割れ。
4.23
震度4~5の地震2回、新焼けよう岩流の流下ほとん
ど止む。
4.29.0
楠平(くすのきだいら)の山が約200mずれ落ちた。こ
こは島原大変の際の大崩壊の中心部。
眉山大崩壊
5.21.20
“島原大変”地震後間もなくつなみ3波、うち第2波
もっとも大、波高約10m。翌朝になり、前山が大崩壊
していたことがわかった。前山大崩壊に伴って大量の
出水、死者14,500人。
5.25.5.26
強い地震。
5.30
上の原の井戸自噴、水勢強し。
6.2―
上の原などの湧水次第にたまり、白土(しらち)池を
生じた。新山・万町一番からも清水湧出。
6.14
穴迫(あなさこ)の噴火勢増す。
6.17―
前山の崩れ路に6本のたて割れを認む。谷底では湧く
ようなはげしい音、割れ口から泥土を噴き出す。前山
の割れ筋の一部から煙立つ。
7.19.7.22
普賢(ふげん)噴火。
(片山信夫、1974)
(図2参照)。
以上のような経緯は、片山(一九七四)によって四段
階にまとめられている(表1)。噴火地点と大崩壊との位
置関係は図1に示す。
(2) 地変資料
島原の城下町は、眉山山麓に位置していたことと海港
でもあったために、崩壊の直接被害と異常な津波による
被害との二重の被害を受けた。「島原一件書状之写」は、
前駆現象としての地震と噴火や眉山崩壊及び津波などに
よる被害の概要を端的に表している。
死者一万五〇〇〇人は、島原半島と肥後の割合がおよ
そ二対一で、「島原大変肥後迷惑」という言い伝えは、島
原の大異変とそのまき添えをこうむった熊本側の状態を
言い表したものである。
噴火・崩壊の被害概要に関する注目は、地元の[篤志家|とくしか]
金井俊行・菊池寛容などによる『寛政四年島原地変記』・
『島原地変略記』という形で関係資料の収集としてはじ
められ、今世紀のはじめごろから研究がなされている。
先にもふれたが、その中で眉山崩壊の原因については明
治時代末から大正時代にかけて論争が展開されてきた。
その争点は、その時の地震で山麓の島原城下の家屋等の
構造物に被害を生じていないことにあり、そのような弱
い地震で山体崩壊を起こすはずもなく、眉山自体の噴火
であるとする火山爆裂説と、そのような形跡がないこと
から、岩体が[脆弱|ぜいじゃく]であったので地震動で崩れ落ちたとす
る地震崩壊説との対立であった。しかし、前者は決定的
な証拠を欠き、後者は爆裂とする根拠薄弱をもって論拠
としている。
この問題が最近、再燃し、中でも長い間の争点であっ
図2 眉山崩壊による岩屑流・土石流流下区域と流れ山の
分散状態(太田一也、1984)
た眉山崩壊についての火山爆裂説と地震崩壊説について
は、温泉化した地下水の上昇によるものとした片山(一
九七四)と、火山爆発活動にともなった粉体流のような
形で流下したとする古谷(一九七四)や、地震動によっ
て流動化現象を来して発生した円弧地すべりと判断した
太田(一九六九)などが提唱され、科学的・多角的な追
究が進められてきたが、冒頭にも紹介したように太田(一
九七八)の「眉山大崩壊は、脆弱な山体が火山活動によ
って激増した熱水と、直下型浅発中~小地震との複合作
用により、瞬間的に安定性が低下して発生した」として
まとめられるようである。
(二) 被害をこうむった熊本側
(1) 被害内容と古文書
眉山崩壊を含めて雲仙火山群に関する研究は進んでい
るが被害そのもの、特に津波被害については、相対的大
局的に被害の実態が充分に分析されているとはいえない
ようである。被害がはっきりしない原因の一つには、津
波発生の時刻が夜であり、島原や対岸の肥後の人々は地
震や山崩れの大音響を耳にはしたものの、闇夜の中では
津波の襲来を眼にすることはできなかったことにもある
だろう。被害状況を記した古文書には、「日本の歴史災害」
(菊池万雄、一九八〇)によると次のものがある。
①「島原大変記」(長崎県立図書館所蔵)
寛政四年温泉岳活動の概要と、付近の村人や島原城下
の様子を記し、後半に「大変ニ付近国御大名より御進物
御使者之事」として近国諸大名からの救援状況や、城内
における対処などについて書きあげている。
②「寛政四年四月朔日高波記」(長崎県立図書館所蔵)
明治二四年に金井俊行が写本したもので原本は不明。
同様の内容のものが、熊本県立図書館にもあるが、それ
は昭和一一年に上妻博之が写本したもの。内容は大変
記と大差なく、多少津波についての記述が多い。
③寛政四年島原地変郡奉行所日記書抜(長崎県立図書館
所蔵)
高橋正路編集 島原大変記(弘化五年)と最初にあり、
郡奉行衆の日記・代官所日記(村方からの届出書)など、
原文に忠実な実地踏査やその報告書などにもとづいた
信憑性の大きいものである。公文書的色彩が濃厚。(明
治二五年、金井俊行写本)
④旅比雑録(長崎県立図書館所蔵)
⑤龍珠日記(長崎県立図書館所蔵)
菊池寛容が明治壬辰四月遭災百回忌を記念して著した
島原地変略記の中に収録してあるもので、島原地域の
被災状態が特に詳細に記されている。
⑥守山庄屋寛政日記(島原半島史収録)
大変前後にわたって、島原藩主が避難先とした守山庄
屋中村佐左エ門が、自らの体験を記録したもので信憑
性は大である。事変全般にわたっているが、藩中心に記
されている。
⑦寛政四壬子年島原山焼山水高波一件(島原半島史収録)
⑧深溝世紀 巻十六 定公下(島原半島史収録)
漢文体で書かれた藩の歴史であるが、この巻に島原大
変記同様、地変の概略をまとめあげたものである。
⑨侯梅亭文章(島原半島史収録)
⑩寛政四年島原地変記(島原半島史収録)
南高来郡の郡長をつとめた金井俊行が、郷土の天災地
変を子孫に伝えるべくその実態把握に全精力を注いだ
努力の結晶である。
⑪肥前島原温泉岳焼崩大変仕末(九州大学図書館所蔵)
⑫肥前高来郡島原温泉山大変略記(九州大学図書館所蔵)
⑪の書に合本になっているが、内容は肥後国川尻の住
人塩屋源蔵記誌となっており概要を述べながらも、高
波被害、特に肥後の分について詳細に記されている。
⑬損害損耗誌(熊本大学図書館所蔵)
藩内における災害損耗を年代順に記録したもので、寛
政四年四月朔日の項に津波損害として老中へ急報した
ものである。
⑭肥州島原一件聞書井見物之所荒略書(熊本大学図書館
所蔵)
島原から長崎への報告書のうちから珍しい事件を書き
とめておいたもので、内容は島原領内についてが主で
ある。
⑮津波一件(熊本大学図書館所蔵)
「後藤太兵衛島原表之様子咄之次第粗左之通……」と、
後藤太兵衛覚書として付記がある。内容は、島原一件聞
書とほぼ同様の記載である。
⑯寛政四年日記(熊本大学大学図書館所蔵)
肥後領分の荒尾・飽田・玉名三郡村々の高波被害につい
て詳細である。
⑰千代の不知火(熊本県立図書館所蔵)
肥後領内被害については具体的でミクロな視点に立っ
ての記述がなされているが、人情美談集の傾向が強い。
⑱寛政年間両大変記(熊本県立図書館所蔵)
吹寄集録では、福田狸翁覚書よりの写との事であるが、
原本は所在不明、内容は寛政四年の大変と同八年五月
の大洪水とを集録したもので、島原大変については、特
に荒尾手永の被害が詳しい。
⑲肥前国高来郡島原大変(熊本県立図書館所蔵)
島原半島部の北半について特に詳細。
⑳島原一件書状之写(熊本県立図書館所蔵)
佐多九州と号する人が、島原大変に関する書状・報告
書・覚などを、大変の年五月にまとめたもので、内容は、
島原半島南半の被害が詳細で、高来郡島原大変と対照
的である。
㉑両肥大変録(熊本大学図書館所蔵)
寛政十一年に上村貞助が写本したものを、昭和十六年
にさらに、上妻博之が写本したもので、上・下巻よりな
っている。内容の特色としては、高波被害、特に玉名郡
について詳細である点があげられる。
この他に、肥後藩の近代史研究家、澁谷敏實所蔵の資
料が熊本工業大学図書館にあるが、その中に「寛政津波
被害之図」等がある。
(2) 寺院過去帳による記録
島原大変の被災地域の島原市と熊本地方の各寺院の過
去帳の中には、大変事による死亡者が膨大になるため、
被災者のみの別冊過去帳をしつらえてある快光院・浄源
寺・龍泉寺・良覚寺などがあり、本来したためることの
ないはずであるにもかかわらず、したためずにおられず
記入したと思われる大変事についての記事もみられる。
六十人之忌是より皆流死也………(浄源寺)
と[驚愕|きょうがく]しての書き出しがあり、他に
寛政四年四月朔日 温泉前岳崩壊海岸溺数知レズ
(光応寺)
など、数知れぬ被災者を弔う寺院の当惑と、災害の始終
を簡潔に記録した過去帳もある。
当正月拾八日より温山普現(賢)岳ニ火出 其日より毎日毎夜
大地しん 四月朔日迄不止朔日暮六ツ時ニ温泉前山くず
れ津波も同時ニテ肥後国中ニ溺死亡人数四千余人 拙寺
門徒弔通……
四月朔日 津波被害三百四拾余人(正蓮寺)
三月一日ヨリ地震昼夜ニ三十度・四十度 島原雲仙岳鳴
動大ニ崩し、四月一日暮六ツ時 当国之海辺高波 溺死
数千人有之
長須(長州)ヨリ三隅(三角)ノ浦辺迄人倫六畜屋舎田
地船津大ニ損(真証等)
(日本の歴史災害 P.101~102より)
なお、河内町蓮光寺の記録については、犠牲者供養と
ともに述べる。
(三) 津波被害
(1) 被害の概要
寛政地変の死亡者数を記載してある文献別にならべて
みると、
日本噴火誌(震災予防調査会、一九一八)
一五、一八八人
日本被害地震総覧(宇佐美龍夫、一九七五)
一五、〇三〇人
津波高潮海洋災害(和達清夫、一九七〇)
一四、九二〇人
雲仙火山(小川琢治・本間不二男、一九二六)
一四、七一五人
島原半島史 下(林銑吉、一九五四)
一四、四三〇人
雲仙岳(日本火山学会、一九二六)
一四、三〇〇人
理科年表
一五、〇三〇人
を記載している。死亡者数の違いは、寛政地変の被害の
激甚さが数の読み上げどころではなかったことを示して
いるように思える。「日本の歴史災害」によると被害・死
亡者数について以下のように述べている。
当時の記録の中から信憑性の高い、島原藩主松平主殿
頭から幕府御用番松平伊豆守へ提出した被害届(寛政四
壬子年島原山焼山水高波一件)九、五三一人や、島原の
対岸天草(寛政四年島原地変記)三四三人及び熊本領の
被害届(千代の不知火)四七五一人によって統計する被
災死亡者数は一万四六二五人となっている。
島原大変記には、
…南目・拾ヶ村都合弐拾ヶ村
一、流死人数領内ニ而凡壱万五千余人
一、怪我人凡六百五拾人余 但七分通死ス
一、家数凡五千六百余軒
一、牛馬凡四百八拾疋程
一、旅人数不知……
一、嶋々凡五百三拾余
と、人的被害に加えて、家屋はもちろん他に耕地・塩田・
図4 両肥沿岸被害之図
築堤・山林・家畜の被害を考えれば、膨大になることが
記してある。その被害範囲は、図4に示す両肥沿岸被害
之図や、それとほゞ一致する沿岸各地の供養碑等の分布
によっても知ることができる(図5、表5)。
(2) 肥後の被害内容
肥後側の被害については、
肥後国飽田郡益城郡宇土郡玉名郡以上四郡……(温泉岳
焼崩大変仕末)
……肥後ノ浦北ハ大島ヲ初長須ヲ打崩シ……網田戸口三
浦迄ノ村々打崩シ人多ク死ス天草ハ富岡ヨリ大矢野領大
ニ損減有………破滅スル死後ノ磯辺ノ廻リ凡三十余里イ
ツクヨリモ島原渡海七里ナリ(両肥大変録)
などによって、その被害範囲が明らかにできる。これら
の地域は、眉山崩壊地点より半径三〇キロの半円内に入
る地域で、被害人口のほとんどは異常な高波によるもの
である。飽田町史は、寛政津波被害について表3のよう
に報じている。また、「日本の歴史災害」では、表4のよ
うになっている。熊本工業大学図書館所蔵の「寛政津波
被害之図」には、肥後側の被害が詳細に記録されている。
津波は地表物のすべてにわたって打撃を加え、家屋は
もちろん流失し、大小かなりの船も流失破損している。
また、肥後側でみる被害の特徴は、人命損失に比べて耕
表2 熊本県側の地変犠牲者供養地一覧
及び波先石の所在地
(※印は波先石)
玉名郡岱明町扇崎「鬼除千人塚」
飽託郡河内町船津 蓮光寺
飽託郡河内町亀石
飽託郡河内町塩屋
※熊本市松尾町梅堂
熊本市小島町 小島小学校校門横
飽託郡天明町 良覚寺
宇土市東長浜、長浜
宇土市網田
※宇土郡三角町太田尾「津波境」
天草郡有明町大浦
本渡市佐伊津
天草郡五和町御領
天草郡五和町鬼池 二カ所
天草郡苓北町富岡
天草郡大矢野町湯島「いっちょばか」
図5 有明海沿岸の寛政地変供養塔分布
(隈部守、1966に湯島を加筆)
地の被害が大規模なことである。「熊本御領は大国にして
地平らなり、故に人の死亡は少しといへども田畑の流失
は[夥|おびただ]し」とあるとおりである。二六三〇町歩を越える田
畑と、二〇町歩余りの塩浜が被災している。
熊本平野の臨海低地の新開地は堤塘が生命線であった
が、津波はこの堤防を猛然と襲った、そして、提塘六三
九〇間、川塘九〇間、江子塘五〇間にわたって大きく破
壊し、その勢いをもって内陸に進入していった。
表3 寛政四年潮害被害
宇土郡
郡浦手永
松山手永
飽田郡
銭塘手永
横手手永
池田手永
五町手永
玉名郡
小田手永
坂下手永
荒尾手永
総計
潮浸田畑
一三〇町
一四一町
九二四町
一七〇町
一四六町
一五町
二九四町
一七七町
二二八町
二、三三一町
根切・破損潮塘
四、一〇五間
一、〇六八間
一、六四〇間
二〇八間
二、一〇四間
一、二一三間
四、八九二間
三、二〇三間
四、八〇九間
二七、〇三〇溺死
女男
六一五人
九一人
三六人
六人
八二人
八二人
二人
五三人
八七人
四〇七人
三五八人
一三人
一一人
三〇五人
四二〇人
七四五人
七二七人
}四、六九一人
馬牛
}九一匹
二匹
一八匹
一匹
二匹
一七匹
一匹
四九匹
一匹
三八匹
六八匹
}二八〇匹
家流失破損
三、二八六軒
(渋谷註)
(一) 各手永の被害の総計が最下欄の総計の分と一致しないが、それは調査不充分の為と思われる。
(二) この他天草郡の死者……三四五人
島原郡の死者……一四、八一〇人、流失家屋八、四七八軒
(飽田町史)
傷ましい地変の跡には粉砕された津波の爪痕が手の施
す術もない惨状を呈していた。こうしてあげてくると当
時の哀れな姿が復原されたような気さえする。
(3) 肥後側の津波浸入深度
河内町塩屋には、寛政四年の津波で波先を示す石かど
うか不明ではあるが、碑文字が刻まれた自然石がある。
また、沖合いからのみ見える岩に碑文を刻したところが
あると聞く。熊本市松尾町梅洞には、波先を示す記念石
がある。これらが津波浸入範囲の復原と被害の推定に役
立つことはいうまでもない。肥後側の波先・津波浸入を
考える資料として、次のものがある。
小島町下の人家ハ床之上に三、四尺計波打上けたり
……………………………………(島原温泉岳大変略記)
尾島町内床上ニ弐参尺程も水上り仕候様子
……………………………………………(寛政四年日記)
百貫石之上之畑ニ打揚け候由……(千代の不知火)
高橋町半田等ニモ波先五尺計リ上ル
………………………………………………(両肥大変録)
また、他にも波先を物語る記載に、
網田……共に打寄する大波に山の腰に打上られ
(島原温泉岳大変略記)
住吉……麓まて三四里はかり汐満波蕩々として
(島原温泉岳大変略記)
方丈……永福丸……弐千石余の船……大塘を打越して
……………………………………(島原温泉岳大変略記)
川内……汐ハ忽ち石垣を越して住居の敷居の上に
……………………………………(島原温泉岳大変略記)
立花……立花は西ニ満込御囲塘筋不残根仕
……………………………………………(寛政四年日記)
などがみられ、波高・波先を知る手がかりとなっている。
この他、隈部守(一九六六)は次のように述べている。
史料によると、「西の中刻大に島原の海上より襲来し」、
「宇土郡三国(三角)と名づくる所より玉名郡大島という
地に至るまで連亘せる海辺十九里の民居悉く流亡」とい
うことであり、島原半島側と等しい沿岸距離に亘って被
害を受けたのであった。三角町太田尾部落に寛政地変の
記念碑がある。その位置は標高約一五メートルの所で、
記念碑には「津波境 寛政四子四月朔日戌刻 山本二十
七金助立之」と記されているところから津波の波高を示
すものとして特記される。また、この碑は海岸から二〇
〇メートルばかり奥に入ったところにあることから、津
波の浸入深度を示すものでもある。眉山大崩壊によって
生じた津波が、対岸の熊本側には一時間半~二時間で襲
ったこともわかる。
宇土市網田にある辺目田神社は、海岸より一一五メー
トルばかり奥に入ったところにある。寛政地変の津波で
漂着した太鼓と伝えられるものを保存している。熊本平
野では先述の「寛政津波被害之図」で示されているよう
に奥深くまで津波が浸入した模様である。
(四) 河内町の津波と犠牲者供養
(1) 町の地形と津波被害
金峰山山麓部が有明海に伸びたところが、河内町であ
る。その当時は、五町手永と呼んだ。災害当時も、現在
表4 肥後側の津波被害
菊池万雄(1980)より編集
郡
手永
村
寛政4年4月10日被災人数()は資料
流失戸数()は資料
飽田
池田
高橋
梅堂
千金甲
樽崎
潟
小嶋
100(21)
23(16)
(余程 (12)
90(16)
(3~4(16)
0(12)
残(16)
11/13(16)
不残(16)
無悉(17)
(悉く(12)
不残(16)
五町
白浜
河内
塩屋
船津
近津
(39(21)
20(17)
(380(21)
95(17)
100(21)
(360(21)
360(17)
(380(21)
320(17)
(50(21)
50(17)
(50(21)
40(17)
35(21)
(80(21)
20(17)
(50(21)
85(18)
横手
銭塘
銭塘
五町
方丈
二町
不残(17)
玉名
荒尾
大嶋
牛水
長須
塩屋
高浜
清願寺
平原
腹赤
上沖須
(700(21)
543(18)
350(21)
(600(21)
405(18)
(40(21)
36(18)
7(18)
(800(21)
433(18)
0(21)
0(21)
(600(21)
766(18)
(80(21)
不残(18)
(170(21)
285(18)
(35(21)
39(18)
(200(21)
455(18)
坂下
小浜
浜田
高道
鍋
扇崎
下沖須
90(21)
90(21)
90(21)
350(21)
380(21)
0(21)
0(21)
0(21)
不残(21)
(150(21)
不残(18)
大浜
0
無難
小田
立花
小天
部田見
5(16)
0
0
0
0
0
宇土
松山
郡浦
三角
赤瀬
戸口
網田
長浜
145(17)
1,000(16)
1,000(21)
(1,000(21)
不知(16)
(残20(17)
600―700(17)
160(21)
240(17)
(不残(16)
89(21)
(不残(21)
一軒不残(17)
(12)肥前高来郡島原温泉山大変略記 (16)寛政四年日記
(17)千代の不知火 (18)寛政年間両大変記 (21)両肥大変録
と人口こそ違え、多くの人々は、沿岸低
地に住居をかまえていたであろう。その
低地を津波が襲った。ことに、近津・塩
屋・船津の被害は大変大きかった。被害
が大であったわけは、眉山から二〇・五
キロと崩壊現場に近いことはもちろんで
あるが、それとともに地形が被害を大き
くしているとみなければならない。眉山
崩壊後、およそ二時間で海をわたってき
た高波は、さえぎるものは何もない近
津・塩屋をのみこんだ。おそらく根こそ
ぎ波にさらわれたのであろう。河内町に
ついて、どの古文書にも「不残」とか、
「悉く」という表現こそみられないもの
の、ほとんど「不残」であったと推察さ
れる。死亡者数からみると、船津の被害
が最も大きい。沿岸低地であることと、
中河内とともに河内川に沿っているため
でもあろう。それでも、船津は地形が幾
分、高波をくい止めている。長崎鼻が岬
として突出していること、亀石の小丘は四〇メートルの
高さがあることが津波の進行方向をさえぎっている(図
6)。長崎鼻をもつ地形が、高波の勢いをかなり弱めたと
考えられる。このため船津全体がまともに高波を受ける
ことはなかった。「悉く」高波にさらわれることはまぬが
れたのである。推測の域を出ないが、地形と史実を考え
表5 五町手永の津波被害
村
溺死男女
家屋流出
牛馬溺死
近津
河内
白浜
船津
263人
127人
22人
353人
80軒
53軒
50軒
199軒
馬27足
馬7足
馬4足
牛1足
馬11足
計
765人
382軒
馬49足
牛1足
図6 河内町の地形と津波被害(長崎鼻と松崎が津波をさえぎっている)
合わせて、高波襲来を分析してみると、現在
の蓮光寺付近より海側は、前述の長崎鼻をも
つ地形にはほとんど関係なく、第一波で大破
され、二回目の高波でほとんど残らず、波に
さらわれたと思われる。そのことを、寛政年
間両大変記は次のように記している。
船津村死者三百六拾人…………蓮光寺本堂
再建作事最中ナリ家内二十余人不残死……
大工雇人ノ者多死 材木等モ不残流失……
蓮光寺付近より陸側では、河内川沿いにさか
のぼる高波の被害を受けた。ことに二回目の
高波は河内川沿いの低地である中河内をのみ
こんだと思われる。寛政四年津浪記録より五
丁手永の被害を表5にまとめてみた。
表5が示すとおり白浜の被害は特に少な
い。このことも、地形が津波被害を防いだこ
とによる。松崎の突出が、白浜への直接の高
波を防いだと考えられる(図6)。それに加え
て、干潟が津波の勢いをやわらげているとみ
るべきだろう。
一般に、津波のもつエネルギーは海底地形
に関係するといわれる。海底の傾斜が急であ
るほど津波の被害は大であるともいわれる。
図7
いいかえると、海底の深いところに沿って津波が侵入し
やすいということである。この考えを、寛政の津波にあ
てはめてみたのが図7である。死亡者数と干潟発達の程
度とは、全く無縁とはいえないようである。いずれにせ
よ、五丁は被害が大きく、横手・銭塘は被害が小さくて
すんだことは、史実が示すところである。
(2) 蓮光寺に残る被災記録
寛政四年津浪記録の中に
一、船津村・近津村・河内村之内塩屋村へ有来以諸帳面不
残流失
一、寺 壱宇船津村蓮光寺
但佛具其外庫裡物置流失、本堂者作業ニ付解除、新材木
は小屋組程ニ仕上有之以分悉流失、本尊者別条無之
とある(図7参照)。
河内町船津の蓮光寺には、貴重な記録が残されている。
蓮光寺由緒沿革の中に
………不幸にも寛政四年四月一日。対岸の雲仙嶽突如
爆発したため。正面より高潮襲来して本堂庫裏など悉く
流失し、剰すさえ居合せた徴映を始め寺族六名と役僧な
ど溺死の悲運に合った。たまたま流情は続席のため京都
本願寺に上山中危くこの難を逃れた。やがて継職して復
興に取掛り門徒の協力を仰いで現在の本堂を再建し
…………
とあり、高波のため、寺は破壊され、当時の住職は二回
目の高波でさらわれ、多くの寺族役僧が溺死している。
蓮光寺門徒の犠牲者は、寺の過去帳に記されている。
その中に、次の記事がある。
溺死四百六十有七名 嗚呼非常之惨状哉 此外三十有余
名者 死體不分明
と当時の生々しい記事があり、死亡者名記録の最後に、
已上三十有餘余人不知何處某(集)、又難知今日不同之有無
或。有難知男女者多大今欲備報謝之一縁是以記法名耳
と記されている。一家一〇人の死者を出したものもあっ
た。
河内一帯は溺死するもの多く、その数は七六五人を数
えている。眉山の正面の飽田町・天明町よりやや南北に
ずれている宇土郡、河内・玉名の方が被害が大であるこ
とを資料も示している。
……川尻・川口の村に死人有といへども網田長浜の死
骸の疵ほとハなし少々宛の疵ハあり………川(河内)内・長浜共
死骸の有様網田長沢に同じ。(肥前高来郡島原温泉山大
変略記)
(3) 犠牲者供養
古来肥後の津波の記録としては、七四四年、八六九年、
一七三三年、一七四六年とあるが、もちろんこの寛政の
津波が最大であった。蓮光寺境内には供養塔が建てられ
ている。碑は「南無阿彌陀佛溺死基」を前面に、側面に
は「寛政四年壬子四月朔日 七百六拾五人 船津村 河
内村 白濱村 近津村」などと記してある。亀石の丘の
上、遠く眉山を望める地にも供養塔が建てられている。
多数の犠牲者を出した各地には供養塔が建てられてい
る(図5)。河内町以外の供養塔では、玉名郡岱明町扇崎
と熊本市小島、宇土市網田の三か所に立派な犠牲者供養
の塔がある。
通称[鬼除|おんのき]の千人塚と呼ばれる荒木庄屋が建てた玉名郡
内の犠牲者弔魂碑は、鍋扇崎の高台の上にある。碑の正
面には、南無阿弥陀仏と大書され、三面には次の文が刻
まれている。
ことし寛政四の年壬子正月より、肥前国温泉乃嶽煙た
ち炎火日に月に熾にして、おなしき四月一日の夜山くつ
れて海に入り、うしおあふれて我が國飽田宇土玉名三郡
の浦々に及ひ 良民溺れ死する者玉名郡に二千二百余人
飽田宇土をあわせて四千数百余人 たまたま活のこりた
るも父母をうしなひ 或は老いたるか子むまごにおくれ
て泣きさまよふ あわれといふもさらなり かかる事ハ
ふるき史にもまれなることになん 夫民は国の本なりと
て同しき六月に 官より僧に命して追福の事を修せしめ
その九月に一郡に一基の塔を建てられ 死者の名を録し
てここに納め幽魂を鎮せしむ 死者もし志る事あらば
千年の後まても 死して朽ちずとおもふなるへし
岱明町地方史によると、この多数の犠牲者の供養は毎
年四月一日に玉名市中明正寺の住職を扇崎に招いて行っ
ていた。現在は扇崎青年団の手によって営まれていると
いうことである。
小島の供養塔でも百年祭と百五拾年祭が営まれてい
る。碑文同様、地変犠牲者追福の自然のあらわれであろ
う。
さて、河内一帯の溺死者七六五人。蓮光寺過去帳に記
載されてある分は他門徒を含めて四七一人。その死者数
の差二八四人はどうなったのであろうか。記録にはない
ので、当時の状況からして、その大部分は三回押し寄せ
た高波にさらわれ、おそらく宇土・天草の地で溺死体と
して、打ち上げられたものは少なくないであろう。天草
での津波による溺死者四百余人という記録は、他地方の
溺死者も含めてある。天草上島・下島にも多くの犠牲者
供養の記録が残っているが、以下に談合島(一九七六、
湯島中学校運動場建設期成会)より、湯島におけるいい
伝えを紹介する。
湯島灯台の下海岸道路の土手の傍に、縦一メートル五
〇センチ・横四〇センチくらいの「[一|いっ]ちょ[墓|ばか]」と呼ばれ
る墓石がある。表面には何の彫みも無く、側面や裏面は、
土手の傾斜地に立てられているため、土砂が押し出した
形で埋れかけている。文字らしきものもなく、何の手が
かりもないまま、幾星霜の歳月に、浜に寄せる風波に晒
されて立っている。
土地の人は幼いころ、父母や村の古老から聞いたこと
として、眉山が噴火爆発した折に、おびただしい、しび
と(死人)が、小白洲の浜から、後平にかけて打ち寄せ
られたという。それを島人の手で、くえと附近に大穴を
掘って合同埋葬された。しかしその後小白洲から先には
怖しい異変がおきた。真昼というのに死人たちの悲鳴の
声やブツブツ囁く声。「やえもんきー船おろせー。やえも
んきー船おろせー」と。困り果てた村人たちは、浮かば
れない哀れな罹災者の身に思いをはせ、霊を慰め供養を
してやることを決め、この碑を建て念仏供養をねんごろ
に営んだところ、次第に異変は静まったという。埋葬さ
れた、くえとの一帯は早崎の瀬戸から打ち寄せる激しい
潮流に洗われ侵食がひどく、今では全部が海浜と化して
昔の面影を偲ぶよすがとてない状態である。
こうした各地の漂着死体は、それぞれ丁重に供養し、
供養塔や墓碑が建てられているのは前にも述べた。しか
しながら、漂着した死体処置には大変困ったようで、最
初は古衣に包み、桶や樽に入れたが、資材がなくなり莚
にくるんで葬ったともいわれている。死体の中にはこの
上なく哀を誘うものもあり、年若い母親が二児を身体に、
くくりつけたまま岸に打ち上げられたものもあれば、あ
わてて寝巻姿で抱き合ったままの死体もあったという。
以上、寛政地変について述べてきたが、余りにも悲惨
な地獄絵図であった。
山体が崩れるような地変は最近では、御岳山の山体崩
壊なども起こっている。多くの死者をだした自然災害は、
災害史をみる限りたえず起こっているといっても過言で
はなかろう。
この寛政地変は、我々に何を教えてくれているのであ
ろうか。島原側からみると、これほどの災害が何の前触
れもなく起こったわけではない。予兆はありすぎるほど
あったが、当時の科学の知識では対策を立てるすべもな
く、予測することも不可能であった。津波発生の時刻が
夜で、潮の干満の差が四~六メートルと他に比べられる
例がない深く湾入した有明海で、しかも闇夜に起こった
特異な災害ではある。我々は、この出来事を知ることに
より、自然災害を防ぐ、また自然災害に会わない、たく
さんの知恵を教えてもらったのではないか。一九(ママ)〇〇年
の夏からおりしも、千々石湾を震源として群発地震が発
生し、一九(ママ)〇〇年十一月十七日には一九八年ぶりに普賢
岳が噴火した。眉山崩壊は二度と起こらないとはいえな
い。
(注、「新収」第四巻別巻にある史料3点省略)
『寛政四年津波記録』
飽田御惣庄屋願書之写
(熊本県立図書館蔵上妻文庫所収)
奉願覚
五町手永川内村船津村白濱村近津村右四ケ村之儀、西
山之麓、海端ニ居住仕候所抦ニ而、去ル子四月朔日之夜
高波之節、波當(頭)強、溺死人数莫太有之候ニ付、其節之様
子委糺申候処、老幼不具之足弱人者早ク迯(に)去り生残申候。
却而壮者共者、船を繁、或者米銭衣類諸道具杯片付居申
候間、高波打掛、溺死仕候者多御座候由、相考申候処、
慾心より命を失申候事茂顧不申、溺死仕候者多御座候、
足弱人迯延候間合御座候ニ付、壮者は勿論遁可申処、右
之通ニ而溺死仕候儀、甚以残念之至奉存候。依之後年万
一右様之大変有之候ハヽ、猶又右類之変死可有之哉と、
於私共歎ケ敷奉存候間、五町手永海辺四ケ村之内船津村
往還筋者人會多所抦ニ付、彼所江一基之碑を建、此度変
死之次第録仕置候ハヽ、海辺之者共、往来ニ拝見仕、此
変之事を不忘、後変之覚悟ニ可仕哉と奉存候。尤池田手
永松尾村ニは碑石被為建置候得共、右四ケ村之儀者相隔
方角違候所抦ニ付、右船津村江造立御免被成下候様奉願
候、如願被仰付被下候ハヽ、石工料其外一式之入用等之
儀者少々完(ずつ)寸志仕度申出候者茂御座候ニ付、私共より取
斗出来ニ相成候仕度奉存候、左御座候ハヽ、碑銘之儀者
後代ニ残候事ニ付、乍恐、上より被録下候様ニ奉願候、
為其覚書を以申上候 以上
寛政七年六月 鹿子木幸平
園田養助
内藤市之允殿
佐久間平太夫殿
御郡間
覚
一、男女七百六拾五人
一、家数三百八拾弐軒
一、牛馬
駄馬四拾九疋
内
牛壱疋
右之内
一、男女弐百六拾三人
一、家八拾竃 近津村
一、駄馬弐拾七疋
一、男女百弐拾七人
一、家五拾三竃 川内村
一、駄馬七疋
一、男女弐拾弐人
一、家五拾竃 白濱村
一、牛馬五疋
内 駄馬四疋 牛壱匹
一、男女三百五拾三人
一、家百九拾九竃 船津村
一、駄馬拾壱疋
右者去ル子四月津浪之節、溺死人、死牛馬並流家共、
壱ケ村限相糺御達可申上旨被仰付、奉得其意候。五町手
永村々相糺申候処、右之通御座候、為其覚書を以申上候、
以上
寛政七年七月
園田養助
内藤市之允殿
井上平八殿
碑文
寛政四年壬子正月中旬より肥前国温泉嶽鳴動して、
烟(けむり)たつ地中に火もえて、峯崩れ巌とふ(飛)なといへり。鳴動
日にまし甚しくなりて、二月のほとハ隣国の地まて震動
すること昼夜ひまなかりき。三月下旬にいたりて、やう
〳〵震動やみ烟もみえされハ、人の心もやすかりしに、
思ひかけす四月朔の夜、温泉の前なる山たちまち崩れて、
海に落入り、潮水是に激して高波あふれ、當国飽田・宇
土・玉名三郡のうち、彼方にむかへる浦〳〵島〳〵の神
社佛閣人家なと〳〵、破砕漂没し、おほくの人民溺死せ
り。其数飽田一郡のうちにてすら、寺社おの〳〵一宇、
人家三百八十二軒、男女あハせて千二百八十五人としる
したり。況や、三郡をあハせたらんをや、折しも暗夜な
りしかハ、高波ともしらす、沖の方のな(鳴)りとよむを、人
みなあやしミ聞くほとに、はや渚ちかくよせ来る音に、
お(驚)とろきて、あ(愕)わてさ(騒)わきに(逃)けさ(去)らんとせしうちにも、
慾心わ(忘)すれか(難)たく、濱に出て船をつ(繫)なきとめんとし、家
にありて資財をとり出んとせしものハ、こ(悉)と〳〵く溺死
せり。たま〳〵慾にひ(惹)かれす、す(速)みやかにに(逃去)けさりし
も(者)のゝミ、あ(危)やうき命た(助)すかりて、後日国救のあつき御
恵をか(蒙)うふり、もとのこ(如)とく、舎屋た(建)てな(並)らへ、産業に
復し、ふ(再)たゝひに(賑)きはへり。されハ、後代もしかゝる事
あらん時ハ、慾をは(離)なれ、萬の物をか(顧)へりみす、たゝ老
たるをた(助)すけ、幼をたつ(携)さへて、す(速)みやかに、さ(避)けのく
へし、か(豫)ねてその道をもさ(定)ため置て、急難にの(臨)そみて、
ま(迷)よふことな(勿)かれ、又、冨るハ家宅の堅固なるをた(頼)のミ
て、立さ(去)らすして、上下男女残らす不覚の死をせしもの
す(少)くなからす。健なるはつ(常)ねに水にな(馴)れ泳をよくするに
ほ(誇)こりて、に(逃)け行すして溺死せした(類)くひ是多し。これら
のこと猶く(詳)はしくし(誌)るし、一冊として村長と(共)もに、さ(授)つ
け置たり、よく〳〵聞て、め(面々)ん〳〵覚悟し、子孫をもさ(諭)と
しい(戒)ましむへし
右應飽田郡代之需
寛政乙卯季秋 李順撰
寛政四年四月一日津波犠牲者名簿(蓮光寺門徒)
船津九右衛門 母 〃 助八 事
〃 同人 孫 〃 八兵右衛 事
〃 〃 女房 〃 〃 息万蔵
〃 〃 娘マン 〃 平五良 事
〃 儀三次 事 〃 平四良 事
〃 新助 母 〃 〃 弟息三蔵
〃 清三良 事 〃 〃 女房
〃 〃 息源四良 〃 〃 息清蔵
〃 〃 息嘉次良 〃 久九良 女房
〃 久九良 息大蔵 〃 〃 娘カノ
〃 〃 息金蔵 〃 久左右衛門 女房
〃 〃 息万之助 〃 〃 娘リエ
〃 〃 息八五良 〃 孫助 事
〃 〃 女房 〃 与四兵右衛 事
〃 〃 娘イエ 〃 〃 〃イト
〃 〃 〃ムメ 〃 忠五良母 事
〃 〃 女房 〃 〃 弟利平次
〃 〃 息虎蔵 〃 〃 娘
〃 荘三良 事 〃 〃 息喜平
〃 〃 娘シナ 〃 〃 ヲ(甥)イ 佐吉
〃 〃 メ(姪)イ トセ事 〃 次良右衛門 事
〃 〃 女房 〃 〃 娘
〃 〃 息喜蔵 〃 源七 事
〃 〃 母 〃 〃 女房
船津源七 娘 〃 藤四良 事
〃 〃 女房 〃 〃 娘ナツ
〃 兵右衛門 女房 〃 〃 娘イセ
〃 〃 〃マシ 〃 〃 〃スエ
〃 後家スヤ娘リツ 〃 〃 娘イツ
〃 〃 〃キヤ 〃 十兵右衛女房
〃 〃 息太蔵 〃 清四良女房マン事
〃 〃 息弥九蔵 〃 文七 女房
〃 〃 息助五良 〃 〃 〃忠七
〃 〃 〃久作 〃 形助 女房
〃 〃 息寿三良 〃 〃 〃松三良
〃 〃 娘 〃 利三良 事
〃 大次郎 女房 〃 〃 娘ハツ
〃 安右衛門 事 〃 〃 女房
〃 〃 息善兵右衛 〃 〃 娘ミヨ
〃 〃 息源七 〃 〃 〃音平
〃 助市 母 〃 〃 助市事
〃 〃 女房 〃 〃 息万蔵
〃 〃 〃靏松 〃 〃 〃虎松
〃 〃 娘キク 〃 〃 娘
〃 武平次 事 〃 〃 女房
〃 〃弟彦三良 〃 〃 娘シテ
〃 嘉右衛門娘クメ 〃 文右衛門 事
〃 〃 娘スキ 〃 〃 息太吉
〃 拾五良 事 〃 〃 伯父惣九良
〃 〃 女房 〃 〃 娘
〃 〃 メ(姪)イ 〃 嘉平次 事
〃 嘉平次息忠平 〃 〃 娘ヌヒ
〃 〃 息吉三良 〃 七左衛門 女房
〃 吉三良 事 〃 〃 伯父八右衛門
〃 〃 息弥吉 〃 〃 娘
〃 〃 孫太八 〃 〃 孫娘
〃 久八 事 〃 〃 女房
〃 〃 娘サハ 〃 〃 〃デン
〃 忠左右衛門 事 〃 〃 女房
〃 〃 娘サヤ 〃 〃 〃サリ
〃 孫三 事 〃 〃 娘トメ
〃 〃 〃ユキ 〃 清左右衛門女房
〃 吉右衛門 事 〃 〃 女房
〃 〃 娘カネ 〃 〃 息音平
〃 市三良 事 〃 久三良弟長右衛門
〃 〃 〃助四良 〃 〃 〃曽市
船津藤次良 事 〃 甚四良 娘
〃 勘助 事 〃 孫次 母
〃 〃 女房 〃 次良兵右衛母
〃 〃 娘サキ 〃 忠助 女房
〃 〃 母 〃 〃 娘リツ
〃 〃 息小太良 〃 五良兵衛 母
〃 平左右衛門 事 〃 〃 女房
〃 久七 事 〃 〃 息菊蔵
〃 〃 娘スエ 〃 才治良
〃 〃 女房 〃 〃 息与五良
〃 専左右衛門 〃 〃 女房
〃 新兵右衛 〃 〃息甚之丞
〃 〃 娘 〃 〃 孫リヲ
〃 〃 孫 〃 彦之丞
〃 〃 女房 〃 吟右衛門
〃 〃 女房 〃 〃 息弥治郎
〃 〃 〃市蔵 〃 善治良 女房
〃 〃 息宇蔵 〃 〃 祖母伝三良
〃 弥七 事 〃 〃 女房
〃 〃 息清右衛門 〃 〃 娘イト
〃 〃 息團蔵 〃 伝七 女房
〃 尉八 事 〃 〃 母
〃 助左右衛門 事 〃 〃 女房
〃 〃 娘リン 〃 藤兵右衛 女房
〃 〃 娘シヲ 〃 佐右衛門 女房
〃 〃 息幸八 〃 茂八 事
〃 〃 母 〃 〃 女房
〃 茂八娘息才蔵 〃 清八 事
〃 〃 母 〃 〃 女房
〃 〃 娘リヲ 〃 〃 娘
〃 儀七 事 〃 〃伯父五平次
〃 〃 母 〃 〃 娘フデ
〃 〃 〃 スミ 〃 六右衛門 女房
〃 松三良 事 〃 〃 女房
〃 〃 息伝十良 〃 源之丞
〃 〃 女房 〃 〃 娘リヲ
〃 〃 娘 〃 武右衛門 女房
〃 〃 娘 〃 文四良 事
〃 〃 息 〃 〃 女房
〃 源助 事 〃 嘉平次 事
〃 〃 女房 〃 〃 息吉次郎
〃 〃 〃嘉吉 〃 〃 息
船津源助 母 〃 宇右衛門 事
〃 〃 女房
〃 〃親父太右衛門此人♠不死同日、受同難終死故此記、
又一門改
〃 〃 娘ハナ 〃 〃 娘
〃 小平次 女房 〃 〃 娘キク
〃 助蔵 〃 〃 息伊三良
〃 〃 女房 〃 〃 娘
〃 助作 事 〃 〃 女房
〃 〃 息徳治良 〃 惣吉 息市五良
〃 安右衛門 〃 〃 女房
〃 〃 息尉平 〃 〃 〃杢助
〃 〃 娘カヤ 〃 〃 孫久平
〃 小治平 事 〃 新左右衛門
〃 八兵右衛 〃 久四良父善助
〃 〃 女房 〃 〃 娘キク
〃 〃弟長十良 〃 〃弟利三良
〃 〃 弟和七 〃 〃 和七女房
〃 清助 女房 〃 〃息清四良
〃 次七 事 〃 〃 女房
〃 〃 娘マサ 〃 〃息林右衛門
〃 〃 〃惣右衛門 〃 喜平治 女房
〃 〃 息福蔵 〃 武三 事
〃 〃 女房 〃 〃 息密右衛門
〃 〃 母 〃 佐次良 母
〃 〃 姉ユリ 〃 〃 兄喜七
〃 善七 事 〃 善作 事
〃 武吉 事 〃 〃 女房
〃 〃 母 〃 〃 息
〃 惣治良 〃 〃 女房
〃 〃 伯父伝吉 〃 嘉三 事
〃 又吉 事 〃 又助 事
〃 〃 女房 母歟 〃 〃 父甚四良
〃 利三次 事 〃 善吉 事
〃 〃 母 〃 浅右衛門 女房
〃 〃 娘 〃 平治良 事
〃 佐平次 女房 〃 〃 母
〃 〃 息菊松 〃 〃 娘ソヨ
〃 〃 息某 〃 半七 事(抹消してある)
〃 〃 女房 〃 弥三次 事
〃 〃 女房 〃 平治良 事
〃 〃 女房 〃 〃 妹
〃 〃 娘 船津弥三次 母
〃 源治良息忠平 〃 長七 事
〃 〃 息甚兵右衛 〃 〃 妹フデ
〃 九兵右衛 〃 文助 事
〃 〃 女房 〃 〃娘 スエ
〃 伊七 事 〃 甚八 事
〃 治右衛 女房 〃 嘉右衛門
〃 惣助 事 〃 宇助 事
〃 惣五良 事 〃 勘之丞 事
〃 〃 女房 〃 〃 娘キハ
〃 孫助 事 〃 又四良女房
〃 助作 事 〃 某 但サン夫
〃 茂平 事 〃 田ノ中儀七 事
〃 新助 妹 〃 安左右衛門ババ
〃 和平治父 〃 和平治女房
〃 〃 弟 〃 〃 娘
〃 〃 娘 〃 〃 シウ(姑)ト
〃 〃 悴(せがれ) 〃 新七 事
〃 〃 女房 〃 〃 娘
〃 〃 娘 小河内喜三良息長右衛門
〃 〃 息浅右衛門 〃 伊三次 母
〃 惣左右衛門息久太事 或云久作
〃 勘右衛門 〃 惠七 事
〃 作次良息又吉 〃 〃 息佐吉
〃 惣右衛門 事 〃 長三良 事
〃 和七 事 〃 〃 弟伊助
小河内安兵右衛息伊右衛門事 〃 〃 〃清右衛門
〃 金右衛門息政右衛門事〃 儀右衛門 事
塩屋村 惣助 事 〃 〃 女房
〃 〃息弥治良 〃 〃 〃 松蔵
〃 〃 娘ソメ 〃 十良左右衛門
〃 〃 女房 〃 〃 (息)惣市
〃 〃 (娘)サク 〃 〃 (〃)スエ
〃 惣右衛門 〃 〃 女房
〃 吉左右衛門女房 〃 惣左右衛門
〃 惣左右衛門女房 〃 〃 (娘)トセ
〃 〃 (娘)ユイ 〃 〃 (息)茂八(事)
〃 〃 (〃)藤平 〃 忠左右衛門(□)
〃 〃(息)政右衛門 〃 〃 母
〃 善右衛門 〃 〃 女房
塩屋村 善右衛門(息)夫八 〃 〃 (息)和作
〃 〃 (〃)相蔵 〃 〃 (〃)貞蔵
〃 左助 〃 〃 女房
〃 〃 (娘)ユク 〃 〃 (〃)ナヲ
〃 善助 母 〃 〃 (娘)りき
〃 権七 事 〃 〃 (息)善治郎
〃 〃 (娘)チヨ 〃 〃 (〃)マサ
〃 長右衛門 〃 八助
〃 金右衛門 〃 〃 (息)市平
〃 太治良 〃 清治良 事
〃 〃 女房 〃 〃 (息)栄蔵
〃 銀平 〃 〃 (息)三蔵
〃 平兵右衛(娘)ミヨ 〃 伊右衛門
〃 〃 (息)平十良 〃 〃 (娘)ラク
〃 〃 (〃)キヨ 〃 惣四良 事
〃 市左右衛門息万蔵 〃 甚之丞娘カラ
〃 夫七 娘エン 〃 甚八 事
〃 左兵右衛 事 〃 源右衛門 事
〃 傳七息金蔵 〃 〃 〃和平
〃 吉之丞息金之丞 事 〃 左三次息甚之丞
〃 又右衛門事 〃 次良八 事
中河内左平次娘リセ 〃 仁平 事
〃 杢平女房 〃 清三良娘ムイ
〃 五良右衛門 〃 作右衛門
小森伊三次息養助 事 葛山伝七子市五良
〃 平兵右衛女房 清田甚之丞子善兵右衛
近津村嘉平次 〃 〃 女房リツ
〃 〃 娘ユク 〃 〃 〃カツ
〃 次兵右衛 事 〃 〃 女房
〃 〃 息茂平次 〃 〃 〃四右衛門
〃 〃 娘イト 〃 〃 娘サモ
〃 甚左右衛門息和平 〃 〃 〃 万蔵
〃 専右衛門 〃 〃 娘マシ抹消してある
〃 久左右衛門女房 〃 専左右衛門女房
〃 助右衛門 〃 〃 息半右衛門
半治郎歟
〃 〃 娘セン 〃 惣兵右衛弟
〃 〃 娘マシ 〃 与四右衛門
〃 〃 女房 〃 〃 娘カヨ
白濱甚治良 事 〃 市之助 事
〃 〃 女房 白濱文左右衛門妹キン事
〃 忠左右衛門 事 〃 〃 女房
〃 〃息伊三 事 〃 〃 娘
〃 五良七女房 〃 〃娘太兵右衛女房
〃 忠五良 事 〃 〃 女房
〃 〃 娘エン 〃 善九良娘ツヤ
〃 喜三郎 事
〆溺死四百六十有七名、嗚呼非常之惨状哉
此外三十有余名者死体不分明何処某(男十九人女二十二
人)