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項目 内容
ID J3200496
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1769/08/29
和暦 明和六年七月二十八日
綱文 明和六年七月二十八日(一七六九・八・二九)〔日向・豊後・肥後〕
書名 〔宮崎県史 通史編 近世上〕H12・5・1宮崎県編・発行
本文
[未校訂]明和の大地震
明和六年(一七六九)七月二十八日の
地震による被害状況を表2―88に示し
た。この地震の後、八月朔日には風雨が追い討ちをかけ、
その被害を増大させるとともに藩の情報収集にも影響を
与えた。宮崎役所と村々の被害については八月八日、[高|たか]
[千穂|ちほ]郷と[豊後|ぶんご]領は十二日付けの「万覚書」(内藤家文書)にみる
ことができる。表2―88からも明らかなように、平野部
にあたる[城附地|しろつきち]と宮崎郡の被害が大きく、特に城附地で
は家屋以外にも被害が広がり道路破損や山崩波入などが
みられ、その山崩れによって[曽木|そき](北方町)では死者も
出ている。いっぽうで内陸部の高千穂郷の被害が比較的
軽いことも特徴的である。
 城内では、長坂御門の屋根が崩落し、[長坂|ながさか]御門および
御太鼓矢倉周辺の石垣が崩れたり半壊の被害に遭ってい
る。豊後領の被害状況を藩に伝えた[郡方|こおりかた]は、今回の地震
による被害を「六十年来之被害と唱候由」と報告し、約
六〇年前に発生した宝永四年(一七〇七)の大地震が人々
の間に語り継がれてきたことを記している。『災害史』に
よれば、宝永四年の地震は紀伊半島沖(マグニチュード八・四)宝
永地震として有名な巨大地震で、倒壊した家屋二万九〇
〇〇・死者四九〇〇人など全国的に大きな被害を与え、
九州南東岸より紀伊半島まで津波が来襲したという。日
向国では、地震による被害か津波による被害かはっきり
わからないが、死者一三九人・倒壊家屋一三四一八・流
失一五二五・破損一万六二四九・堤防破損六九五八八間・
石垣流失三五〇間、破損三四九間・田畑汐入泥入五七〇
○石などの記録が残る。時代はさかのぼるが、寛文二年
(一六五九)に発生した日向灘沖(マグニチュード七・六)を震源
地とする有名な[外所|とんどころ]地震津波での被害を『災害史』でみ
ると、[延岡|のべおか]・[高鍋|たかなべ]・[佐土原|さどわら]・[飫肥|おび]の諸藩城下町に被害が
あり、山崩れや津波が発生して死者二〇〇人・倒壊家屋
三八〇〇戸・沿岸の七か村周囲三二㌖が陥没し海とな
った、と記されている。この明和六年の地震の震源地は
日向灘沖でマグニチュード七・四であったという。
「万歳記大学」にみ
る地震被害の実態
(注、「新收」第五巻別巻五ノ二、二五二七頁「北川村郷
土史料集」がこの「万歳記大学」である)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 212
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 宮崎
市区町村 宮崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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