[未校訂]元禄大地震
次々にやってくる災害は大風雨などの空
から来るものばかりとは限らなかった。
元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日の未明丑刻(午
前二時ごろ)、大地震が関東地方南部一帯を襲った。この
地震の震源は相模湾房総沖、地震の規模を示すマグニチ
ュードは八・二と推定されている。この規模からすると
元禄地震は江戸時代を通して相模国内で経験した最大の
地震といえる。そして、被害は想像を絶するものであっ
た。
震源地に近く、海岸添いに位置していた東海道の大
磯・平塚・藤沢・戸塚などの宿々では、家屋はわずか数
件を残して倒壊し中には全滅した宿場すらあった。また
小田原では、城の天守・本丸・二の丸屋敷などはことご
とく倒壊し、城下町の武家屋敷・町屋も揺り潰され、そ
の後発生した火災により焼き尽くされ惨憺たる状況とな
った。死者は小田原藩の城下で家臣八六人・町人六五一
人・旅人四十人の計七七七人、相模国内の領内だけで七
八二人。倒壊家屋は城下を除く相模国内の領分で六、三
〇〇軒に達したとされる(『県史』通史編3近世(2))。こ
のほかにも、箱根の山中では、東海道は所々で崖が崩れ
道を寸断し、掛けられていた橋は落ち、関所の石垣も崩
壊している(同上)。県内の内陸部でも、愛甲郡厚木町で
は、町屋は大方が倒壊し、火災で六二軒焼失、死者も五
九人にのぼっている。また当時寺社奉行を勤めていた阿
部正喬の所領が高座郡の当麻・下溝・磯部・新戸(相模
原市)・上河内村(海老名市)など七か村にあったが、こ
こでは倒壊家屋八二軒を出している。さらに、大住郡の
大山(伊勢原市)でも諸堂宇や門前町などの多大な被害
を記録している(東京大学地震研究所編『新収日本地震
資料』第二巻別巻)。武蔵国多摩郡野津田村でも家屋四九
戸が倒壊し、残る大部分も半壊状態であると記録してい
る(『町田市史』上巻)。このように地震の被害はかなり
内陸部までにも及んでいることがわかる。
また、道志川や中津川などで盛だった鮎漁にも被害が
出ている。道志川・秋川・沢井川・早戸川・串川など津
久井県内の五河川では、地震で砂川になったため鮎が獲
れず、周辺の村々は鮎運上の免除を願い出ている(『県史』
資料編9近世(6)、産業編資料86)。中津川でも愛甲郡の宮
ケ瀬村や煤ケ谷村(以下清川村)では、道志川などと同
じく地震により砂川になり不漁で塩鮎が献上できず、代
わりに永一貫文を納めている(『県史』資料編6近世(3)、
資料257)。
このように元禄大地震の被害は相模国内のほぼ全域で
記録されているが、町内の資料には被害を記録したもの
はない。しかし、周辺地域の状況からみると町内でもこ
の被害を免れることはできなかったと考えられる。