[未校訂]元禄の大地震
貞享二年(一六八五)一二月、当市域
を支配していた小田原藩主稲葉正通
は、越後国高田(新潟県上越市)に転封となり、代わっ
て翌年一月、幕府老中大久保[忠朝|ただとも]が下総国佐倉(千葉県
佐倉市)から入封した。大久保[忠隣|ただちか]の改易後七二年を経
て再度の入封である。小田原藩主となり、ここにようや
く念願のかなった大久保氏であったが、こののちの小田
原藩は、天災続きであった。元禄の大地震と富士山の噴
火、そしてこれらが原因の酒匂川の氾濫におそわれ、藩
領内は大きく荒廃した。とくに領民たちは、近世を通じ
て最も悲惨な状況におかれた。当市域に住まいした人び
とも例外ではなく、地震・噴火・氾濫により、生活・生
産基盤を根こそぎ奪いさらわれてしまった人びとの姿が
あった。
爛熟を見せた元禄の世が終わろうとする、同一六(一
七〇三)一一月二二日午前二時ごろ、マグニチュード七・
九~八・二の大地震が南関東全域を襲った。この地震を
きっかけに翌年三月「宝永」と改元され、さらにこの地
震の五年後、宝永四年(一七〇七)一〇月には東海地方
を中心とした地域で宝永地震とよばれる大地震がおこ
り、次いで一か月半後の一一月二三日に富士山が大噴火
するのである。
元禄の大地震は、石橋克彦『大地動乱の時代』(岩波書
店)によれば、「地震動が最も激しかったのは川崎から小
田原までの東海道筋、神奈川県中西部、房総南部で、震
度七に達した。なかでも小田原は一番激烈で、天守閣を
はじめとする城郭も城下町もほとんど潰れたうえ焼失
し、約八百五十人が死んだ。さらに相模湾沿岸、伊豆半
島東岸や外房から九十九里浜にかけて大津波に襲われ
た」とされる。さらに石橋は、この地震と大正地震(関
東大震災)の震度分布等は似かよっていると付け加えて
いる。また『武江年表』には、地震のゆれの被害は小田
原が最もひどく、死者はおおよそ二三〇〇人、小田原か
ら品川まで一万五〇〇〇人、津波に襲われた房州で一〇
万人、江戸では火災に巻き込まれた人も含めて三万七〇
〇〇余人であると記録されている。
壗下村名主家の地震記録
さて当市域の元禄地震の被害はどの程
度であったのだろうか。残念ながらこ
の地震に関することがらを記録した古文書は矢倉沢村、
[壗下|まました]村、[猿山|さるやま]村(広町)にしか残っておらず、現在では
断片的なことしかわからない。そのなかで、「先年大口大
破旧記之写」(『市史』3No.93)には、当市域を含めた小
田原藩領のこのときの状況が比較的詳しく記されてい
る。ただしこの史料は幕末期、壗下村名主で組合(藩が
定めた村をこえた支配単位)取締役でもあった加藤与惣
右衛門が、嘉永二年(一八四九)に同家に残る古記録を
写し取ってまとめ上げたものであるので、若干の注意を
要することを断っておく。
元禄一六年(一七〇三)一一月二二日の夜暮れ六つ
(午後五時)過ぎ、小田原沖の海面に火の手〔火柱か〕
が見えたので、当市域へ来ていた小田原の人たちは
不安に思い、直ちに帰宅した。そして人びとが寝静
まった夜八つ時(午前二時過ぎ)南の方より大地震が
やってきた。あわてて起きようとしたがゆれで立つ
ことができず、ようやく立ち上がって戸を開けよう
としたが開かなかった。このようななかで家が潰れ、
桁や梁に打たれて死亡する人が多くでた。また家が
潰れたが、柱などに押しつぶされなかったものは、
どうにか自力ではい出てようやく命が助かったもの
もいた。
また道や橋は破壊され、山々や谷は割れ崩れた。
[皆瀬川|みなせがわ]村〔山北町〕か中川村〔同前〕では山崩れにより
家三軒がのみこまれ、人が一五、六人、馬が四匹埋
まってしまった。[玄倉|くろくら]村〔同前〕では寺一軒、家四、
五軒が埋まり、二〇人ほどが行方不明となった。
小田原城下では武士の家も町人の家も残らず潰
れ、城も潰れて焼けてしまった。城下の所々から火
がでて、潰れた家からはい出られなかった人びとは
生きながら焼かれてしまった。こうなってしまった
人は、旅行中のものや小田原に住む人びとで、その
数はわからない。親子が潰れた家の下敷きとなり助
けだそうとしたが、火のまわりがはやくて、ただ見
ているだけで助け出せなかった場面もあった。小田
原町内でも、竹花町から壱丁田町、万町の半分、新
宿は焼けなかったが、潰れ家による圧死が多かった。
伊豆川奈村近在の村は津波に襲われたが、夜中で
寝ていたときなので逃げるまもなく、人も馬ものみ
こまれてしまい、死者の数はわからない。また房州
の海岸にも津波が押し寄せ、多くの死者がでたと聞
いた。
余震がしばらく続いたので、庭に避難小屋を建て、
戸板などをしいてしばらく生活した。ようやく本宅
に戻れたのは一二月二九日であるが、翌年の一月ま
でゆれは続いた。この地震で強く揺れた地域は小田
原、西郡(足柄上・下郡)、駿州[御厨|みくりや](静岡県御殿場市・
小山町)までで、沼津や三島は少ししかゆれなかっ
た。中郡(二宮・大磯町)から江戸までは所々で潰れ
た家があった。
という以上の記録である。
震災後の矢倉沢村
矢倉沢の田代克巳家には近世を通
じて膨大な古文書が残されている
が、その中に元禄地震に関する史料が数点あるのでみて
みよう。
名主の沢兵衛(矢倉沢村の名主は代々五郎左衛門を名
のっているが、この時は何らかの事情があったものと思
われる)は、地震に襲われた六日後の一一月二八日に早
くも御城米人足の拠出免除願いを出している(『市史』3
No.67)。これによると村は、潰れた建物が八九軒、馬は一
匹死亡という被害を受けたことが知られる。史料には死
亡者の記載がないので、死者はいなかったようだ。さら
に藩の御用を勤める人足は村で三二人ほどいなければな
らないのだが、関所への人足と、[郷継|ごうつぎ]の人足を出してし
まうと手いっぱいで、残りは地震での怪我人ばかりなの
で御城米人足役を免除してほしいと、西筋代官に願い出
ている。別の史料では、潰れた建物の内訳は住宅五五軒、
馬家三四軒で、この中には名主宅や寺の江月院・宝珠院
も含まれている。馬屋の数が多いのは、当村には関所が
あり、かつ往還継立の村でもある陸上交通の要衝だった
ことを示していよう。当時の村の家数は宝永五年(一七
〇八)の村明細帳から九〇軒余りと推測でき、半数以上
の家が被害をうけていることになる。しかし、人足免除
願いの件は藩が聞き入れたかどうかはわからない。
さらに村では地震の二次災害が起きている(『市史』3
No.68)。地震により山々の表面地盤が崩れていたり、ゆる
くなっていたところ、翌元禄一七年(一七〇四)二月二
日の雨で、これらが沢から土砂となって押し出され、小
百姓羽右衛門、無田佐五右衛門の住宅や小屋四軒を流し
てしまった。さらに八人の百姓家と江月院が危険である
と藩に報告している。その後同月一九日の大雨でこの土
砂が押し出され、[本村|ほんむら](村北側の集落)の田畑の半分と、
小百姓助兵衛・九左衛門ほか四人の住宅や馬小屋九軒を
のみこみ、その際、無田岸兵衛と女房、孫作の母が生き
埋めになり死亡するという惨事に至っている。
藩の対応
さてこのような震災に対して支配者であ
る小田原藩はどのような対策を施したの
であろうか。岩崎宗純・内田清・内田哲夫共著『江戸時
代の小田原』によれば、地震当時江戸にいた藩主の大久
保[忠増|ただます]は、幕府より一万五〇〇〇両の拝借金を得て一二
月五日小田原へ帰り、早速城内及び府内や箱根・根府川
両関所を巡回した。臨時の陣屋が城内の元蔵に設けられ
たが、同月の二二日には忠増は早くも江戸へ帰っている。
忠増が幕府から借りた一万五〇〇〇両は、領内の被災地
の復興に使われたかのように思われがちであるが、実際
には倒壊した小田原城の再建に費やされたと思われる。
城は宝永三年(一七〇六)に再建されている。
藩による被災者への救援施策は、これを物語る史料が
市内にはみあたらないのと、この後に述べるが、地震の
後におこった富士山噴火の降り砂に襲われた領民たちへ
の藩の対応を考えてみると、被災者への藩の救援施策は
ほとんど行われなかったと思われる。