[未校訂] ところで元禄年間最大の災害は、元禄十六(一七〇三)
年十一月二十二日に起こった大地震による被害が最も大
きかったといえる。この地震は、マグニチュード八・二
といわれる巨大地震で、小田原城の倒壊、小田原町の死
者総数二三〇〇余名、相模湾岸一帯への津波、厚木町全
戸の倒壊など各地に被害が及んだとされる(『平塚市史』
9通史編古代・中世・近代)。ここ二宮でもこの地震によ
る被害が、山西村内の押切橋の崩壊、さらには中里村内
の堰堤五か所の崩切れなどに見ることができる(資料編
1近世史料33・146)。また、地震の被害は耕作地にも及び、
宝永二(一七〇五)年に中里村倉橋知行所分ではこの地
震のため畑九反八畝一一歩が地震荒当不作引として減免
されていた。宝永年間での災害は、なんといっても宝永
四年十一月の富士山の噴火による被害が上げられる。こ
の噴火の被害は、元禄地震の復興も終わらない村々に決
定的ともいえる打撃を与えた。元禄十六年の大地震の被
害を直接伝える史料が乏しいのに比較し、富士噴火の被
害を直接物語る史料は二宮村でも整っている。そこで次
にこの富士噴火について、その被害状況を中心に見てみ
よう。