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項目 内容
ID J3200093
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔逗子市史 通史編 古代・中世近世・近現代編〕H9・3・31逗子市発行
本文
[未校訂] 元禄一六年十一月二三日夜中の三時頃、マグニチュー
ド七・九~八・二の大地震が房総沖を震源地として起り、
南関東一帯に大被害を齎した。江戸と小田原は特に被害
が大きく、小田原では死者五千余人、倒壊家屋二万戸を
数えた。
 翌宝永元年(一七〇四)鎌倉郡十か村(山之内・扇ヶ谷・雪ノ下・谷合四ヶ
村・小町・極楽寺・長谷・乱橋・坂ノ下・材木座)の地震による被害状況(県通史3第1章)を
見ると、被害平均額が一貫四九七文の内、この平均値に
近い、又はそれを上廻る被害の多い村は海岸に添う村々
である。極楽寺村一貫三六二文、坂ノ下村三貫八四〇文、
長谷村三貫八七五文、材木座村三貫二九九文が引かれて
いる。材木座村の隣が小坪村、その隣が逗子村に続く小
坪村分新宿海岸である。逗子地区は鎌倉の東南に位し震
源地に近いので、被害はより大きかった筈である。因み
に貫文の表記は中世史料では貫五石としているが、鎌倉
寺社領村々は近世も貫文をつかい、これは鎌倉市史通史
編に「永一貫文=一・八七石」とある。
 元禄地震被害については『鎌倉郷土史料研究会編、近
世鎌倉災害年表稿(一九八五)』に、「元禄十六年の津波
の規模は波高一〇~二〇メートル」、「幕府への報告の記
録では極楽寺坂八八間、大仏坂三〇二間、名越坂一〇〇
間の長さに渡って崩壊」とあり、沢寿郎氏作成「年表」
には、「元禄十六年大地震にて浜の大鳥居破損、二ノ鳥居
まで津波、円応寺大破、光明寺津波に襲わる。小坪切通
崩壊す、大仏の台座崩れ大仏三尺傾く」とある。
 桜山名主石渡家文書には「元禄十六年十一月二十二日
夜半大地震、山崩れ谷埋め家潰、大津波、陸一里程迄押
入候」とある。「陸一里」は田越川沖積平野の全体を占め
るが、氾濫原を蛇行して流れていた田越川の流路につい
て、「手帳同人」篠田健三氏の教示により「逗子村、桜山
村境を大きく蛇行していた田越川は、元禄十六年大地震
の頃から流路をかえた」と考えた。この境界は現在も一
部は旧大字(地区)境として残って居り、暗渠になってい
る。地図29のAが旧流路村境で、Bが昭和二五年改修以
前の流路である。傍証として次の諸点があげられる。
 ①元禄大地震で、房総半島から三浦半島にかけて、最
高五・五メートルの隆起があった(理科年表)。
 ②AB境の内の逗子村分は、字名「[出口|でぐち]」の微高地で、
永正九年(一五一二)(一〇年説あり)三浦道寸が住吉城から新
井城へ退去の時、[殿|しんがり]を賜った弟、三浦道香の戦死地「逗
子城」の地に比定される場所である。
 ③明和六年(一七六九)字[才戸口|さいとぐち](図A点)で用水堀
が悪水堀となって二八歩の下田が荒地となり、字[袋|ふくろ](A点
より西北へ上がる弧線)で、川欠下畑六筆合計三反二四歩、同川欠未新
(明和二年カ)下畑二八筆合計二反四畝二〇歩が荒地となり、
字[内町|うちまち]で山崩押掛上田二〇歩、総計五反六畝二二歩が荒
地として書き上げられている。
 ④安永三年(一七七四)「桜山荒地書上帳」に、「元禄
十六年用水堀引四筆(二四歩・十三歩・五歩・十七歩)、宝永元年用水堀
引二筆(十歩・十五歩)、同年荒引二筆(十歩・十二歩)が記されている。
 ⑤天明二年(一七八二)六月「桜山逗子村境岩瀬川に
つき一札」文書に、「先年川瀬違古川ニ罷成候ニ付、右川
敷双方ヨリ田畑極出シ只今右有形百間余ノ小溝両村境ニ
相立テ、尤も川巾広キ場所ハ中央境ニ仕」として村役人・
地主代表が署名している。
 ⑥天明六年「岩瀬川開発地桜山分書上」は、地主二七
図30 元禄16年地震と田越川流路の変遷
江戸時代前期の田越川の流れ(村切りの際の村境が川筋であると仮定した)
明治7年11月製の一村全図(桜山村・逗子村・小坪村・山野根村)を使用
明治7年の田越川の流れ(元禄地震が各地の川筋を変え、その例と考える)
明治7年11月製の一村全図(桜山村・逗子村・小坪村・山野根村)
現代の田越川の流れ(昭和59年の逗子市白地図。この後、拡張工事施工)
昭和59年1月製の逗子市白図(2500分の1)を使用。篠田健三氏提供
人、田畑合二八筆 二反一畝七歩が書上げられているが、
田畑共に非常に細長いもので、中には長七二間・巾一間
の田や、長十五間・巾三尺の畑などが書出されている。
 以上によって両村境の旧河道は、明和頃には耕作地に
なって居り、天明二年、両村の立会で改めて村境をきめ
た。現在もこの旧村境は暗渠になっている。天明六年に
は新田畑の検地が行われたことがわかる。桜山勘定目録
では、天明八年「見取場」として田五畝十七歩、畑一反
七畝二〇歩が記されている。
 猶、「近世生活史年表」では元禄十六年以後天明六年ま
での七七年間に、関東地区の地震件数を九回記し、その
うち五回は明和・天明期の十数年間の記録である。これ
を理科年表と照合すると、こちらは六回で宝永三年M
六・六、同四年M八・四、元文二年(一七三八)M五・
五、明和四年M六・〇、天明二年M七・三、同六年M五・
五である。やはり元禄・宝永の地震・富士山噴火降灰で
川床の浅くなった両村境の蛇行川流域の田畑や新畑に水
が冠り荒地となって、「川瀬違、古川」になる場所も出来、
更に明和~天明期の地殻変動によって天明二年改めて村
境を定めた、と考えられる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 65
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 逗子【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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