[未校訂](勝浦市浜行川地区における元禄津波災害)本吉正宏著
1 はじめに
二〇〇四年一二月二六日、インドネシア共和国のスマ
トラ島沖でマグニチュード九・〇の大きな地震が起こり、
それに伴って巨大な津波が沿岸各地に襲来し、多数の犠
牲者が出たことはメディアにより全世界に送られ、映像
等も頻繁に流されたことからよく知られている。津波は
インド洋に面した九ヵ国の沿岸に襲来し、死者・行方不
明者数は二二万六千余人と報告されているが、さらに増
えるとの見方もあるようである。
我が国にあっても、「東海地震」「東南海地震」「南海地
震」「宮城県沖地震」等の発生が危惧されて、国では対策
について活発な活動を行っているようである。
こうした地震やそれに伴う津波の発生は、地球の表面
がプレートと呼ばれる一〇数枚の地殻で覆われ、地球の
自転・公転・マントル対流等の影響により移動し隣り合
うプレートの下に潜り込むことによって引き起こされる
と考えられている。
本市においても、今日までに数多くの大きな地震とそ
れに伴う津波が発生し、それにより人命や財産等に多く
の被害をだしている。
ここでは、今から三〇〇年ほど昔の江戸時代中期の元
禄年間に起こった地震と津波について、本市浜行川の三
葛木旺家資料から同地区の様子についてみていくことと
する。
2 三葛木家について
三葛木家は、代々系図によると鎌倉時代以来続く家柄
で、「三葛木」姓で早くから浜行川村に住居を構えていた
ようである。しかし江戸時代には、元禄津波の直後にあ
たる宝永年間(一七〇四~一一)には「吉野」姓を名乗
り、「市兵衛」「武兵衛」を襲名していたようである。江
戸初期の頃から浜行川村において名主役を務めており、
浜行川村での網主であったとともに酒造業も行ってい
た。江戸末期には、「三葛木」姓に復姓している。当家に
は、七百点を越える文書類が伝来しており、江戸期にお
ける浜行川村の様子を知るには好資料といえる。
3 浜行川地区の様相
浜行川地区は、本市の西端付近に位置し南に太平洋を
臨み、北側には標高一〇〇メートルほどの急峻な崖地が
海岸近くまで迫っており、急崖は海に落ち込んで岩礁性
の海岸を形成している。平地は、海岸から南西に入り込
むように形成された狭隘な谷間部分のみにあるといって
もよく、可耕地面積は少ない。この谷の出口では西側に
回り込んだ急崖が包み込むように浅い小湾を形成してい
る。浜行川の中心集落はこの谷と湾の周辺に形成されて
いる。
こうした地形のため、かつての生業は漁業を中心に行
われ、房総丘陵の急崖が落ち込んで作り上げた岩礁海岸
は、沿岸に良好な磯根を形成し、これを漁場としての潜
水漁や一本釣り漁、さらには近世においては八手網漁や
地引き網漁などが盛んであった。特に元禄の頃は、イワ
シの豊漁期であったことから、網漁が主体であったこと
がうかがえる。農業は、全体には平坦地が少ないことか
ら畑作が中心であったとみられ、水稲にあっては急崖を
登りきった台地上に枝村の岡行川があり、この付近に広
大とはいえないが可耕地を見いだすことが出来る。
「元禄郷帳」では、浜行川村の村高は三一六石で、寛政
五年(一七九三)の「上総国村高帳」では、徳川御三卿
のうちの清水家の所領で三五九石二斗八升二合の村高、
戸数一〇七戸、明治初年に記された「旧高旧領帳」では
三五九石である。
浜行川村の人口は、元禄地震発生当時の三葛木家資料
の「津波流御拝借■人カ別改帳」(合本)によれば、惣人数四
図2 浜行川地区の地形図
三六人とある。また、慶応二年(一八六六)では五八六
人であった。
4 元禄地震
元禄地震は、江戸時代中期の元禄十六年一一月二三日
(一七〇三年一二月三一日)の夜半、子の刻或いは丑の
刻の頃(午前〇時から午前二時頃)に発生した。震源は、
北緯三四・七度・東経一三九・八度で、千葉県の野島崎
沖約二〇キロメートルほどの場所となる。地震の規模を
示すマグニチュードは、七・九~八・二といわれる。揺
れの大きさを表す震度は、震源に近い房総半島南端で最
大震度七で、県内の殆どの地域で震度六以上であったと
いわれる(羽鳥一九七六)。また、地震による地盤変動も
激しく、房総半島南端では最大六メートルの地盤隆起を
もたらし、海岸部での景観を一変させてしまった。隆起
量は北部に行くに従って減少し、隆起とは逆に地盤の沈
降を生じた地域もあった。本市に隣接する鴨川市小湊地
区では、地震前の絵図面との比較により内浦湾周辺で地
盤の沈降現象が確認できる(本吉二〇〇四)。
この地震は、大きな揺れや地盤変動にとどまらず、地
震後に大きな津波を引き起こしている。津波は、房総半
島北端の銚子付近から伊豆半島付近にかけて襲来し、各
地に大きな被害をもたらしており、元禄地震津波あるい
は元禄津波とも呼んでいる。
この元禄地震や津波等に係る被害の様子を、被害を受
けたほぼすべての地域に亘ってかなり詳細に記録した史
料が今日伝えられている。それが「楽只堂年録」である。
本史料は、将軍綱吉の御用人として権勢をふるっていた
柳沢吉保が、荻生徂徠や小田政府らの儒臣に編纂させた
伝記で全二二九巻から成っている。本書第一三三巻の元
禄一六年一一月二三日からの記事には、吉保自身の元禄
地震体験の記事に続いて、地震後に各地から届けられた
被害の状況が細かに記録してあることで貴重な資料であ
る。一例を挙げれば、小田原では地震と津波により城下
が壊滅したことや甲府城の西門や多門櫓等に歪みが出た
などである。さらに本県では九十九里地域等で津波によ
る被害が甚大であったことなどもわかる。
九十九里地域では、被害が大きかったことを裏付ける
ように、この地域の沿岸各地に津波犠牲者を葬った塚や
供養碑・過去帳などが数多く伝えられている。なかでも
茂原市にある鷲山寺には、今日の長生村や白子町・大網
白里町での犠牲者数を村ごとに記した供養塔が建てられ
ており、その総数は九村一郷で二一五四人に上る。
房総半島の南部でも地震や津波による被害が大きく、
犠牲者を葬った供養塔や位牌・曼荼羅といった形で供養
され今日に伝えられている。
鴨川市小湊地区の誕生等に伝わる廿二日講曼荼羅に
は、四〇七名の津波犠牲者が記されており、この地域で
の津波被害の大きさを物語っている。
本市においては、今回紹介する三葛木家資料以外に、
勝浦地区の高照寺過去帳中に犠牲者名だけでなく、津波
が市街のどのあたりまで浸入したのかなども記されてお
り貴重である。また、同寺墓碑・本行寺墓碑・興津の妙
覚寺墓碑などに犠牲者の記録が見える。
5 浜行川村における元禄地震の被害記録
浜行川地区の被害の様子については、先述したように
当地在住の三葛木家文書群に記録が多く残っている。今
これらのなかから被害の様子がよくわかるものの一部を
紹介することとする。
*以下資料中 ■は虫食い等で不明
●は判読不明
(資料1)「津波流御拝借■人カ別改帳(合本)」
惣人数四百三拾六人之内
一 人数百九拾六人 百性ママ家数三拾八軒
百拾人 拾五歳以上男
内 此夫ママ食麦三拾三石
八拾六人 女但内拾九人五歳ゟ拾四歳迄男女
此夫ママ食麦拾七石弐斗
夫ママ食麦合五拾石弐斗 但一日壱人ニ男三合女弐合
此代金三拾両永弐百四拾三貫 但金三両迄者六斗六升
かへ
訳ケ
一 人数九人内 五人男四人女 又次郎
(中略)
右者當月廿二日之夜大地震其上津波入
百性ママ家居家財網船等波とられ申候付御注
進申上候得者 早速為御見分御手代中村旦右衛門様
被差遣御見分之上波ニとられし民家網船等帳
面差上申候 然共右之通夫ママ食方ニ波ニとられ
候ニ付 當方ゟ●●と飢及申ニ付夫食御貸可
被下様奉願候付惣百性ママ数九拾三軒之内波ニ
家財被取候百性ママ数三拾八軒此人数百九拾六人
一日壱人ニ大麦男三合女弐合ッッ廿三日ゟ三月五日迄
御貸被下難有奉存候 右夫ママ食麦名主組頭
預リ置百性ママ人数ニ応シ度々ニ相渡シ少も●米ニ
不仕可とそ四月中迄右之夫食を以相続候様ニ
随分念入品渡可申候 其内網船等支度仕御運
上金共上納仕候様ニ可仕候返納之儀ハ来甲ママ暮
ゟ子年迄五ケ年ニ被仰付難有奉存候年
数之通急度上納可仕候為其連判
証文差上ケ申候 仍如件
上総国夷隅郡濱行川村
名主 八郎兵衛
年寄 市兵衛
同 惣右衛門
元禄十六年未十一月
御代官様
(資料2)「残家之内夫食有人別改(合本)」
乍恐以書付御訴訟申上候事
上総国夷隅郡濱行川村
津波残家五拾五軒
此人数弐百四拾人内男百三十四人内五才以上下カ十四人
女百六人内五才以上下カ八人
右人数之内夫食有之人数
人数廿弐人内 男十三人
八郎兵衛
女九人
是ハ岡方親類ゟ借用仕リ而夫食相続申候
其者共吟味仕リ候らハハ被仰付奉畏
日別前書印差上ケ申候 哀御慈悲を
夫ママ食御拝借被為仰付ケ候ハハ難有
奉存候以上
元禄十七年甲ママ正月
名主 八郎兵衛
年寄 市兵衛
同 惣右衛門
御代官様
資料1は、津波により家財類を失い被災した住民のた
め、食料給付として大麦を代官所から借り受けようとす
る内容である。そのために被災住民の内容や成人(ここ
では一五歳以上)男性には一人一日三合、女性には二合
を、一度には配給せず四月中まで、名主や組頭による管
理の下その都度配給するようにして厳密に行うことを申
し添えている。
この資料からは、浜行川村では人口が四三六人あり、
この内一九六人が被災した事がわかる。これは、村人口
の約四五%が津波により家財等を失うなどの被害にあっ
たことになる。この資料からは津波による死者数はあげ
られておらず不明であるが、住居や家財も流失してしま
う様子からして人命の被害があったであろう事は強くう
かがえよう。また、救済対象では約五六%が成人の男性、
つまり生計及び年貢支払い等の中心的担い手であったこ
とがわかる。このことは、代官所への願い上げを行うに
あたって、貸し付けによる救済が行われなければ領主の
生計基盤である年貢等が将来において収納できないこと
を示唆していたといえる。
次に、資料2は、元禄地震津波の二ケ月後に代官宛に
出されたもので、津波で残った家五五軒についても扶食
(援助)が必要であるとし、その人数を二四〇人として
いる。そしてこのうち名主であった八郎兵衛宅の二二人
は、親類からの借用によって扶食が足りているとしてい
る。差し引き二一八人が援助を求めていることになる。
また両資料を合わせて見てみることにより、村の戸数
が九一軒であることもわかる。
当初、津波で家が失われなかった五五軒(約六〇%)
の二四〇人(五五%)のうち、五四軒(五九・三%)の
二一八人(五〇%)が津波後二ケ月において援助を必要
とすることになった事がわかる。名主であった八郎兵衛
家のみが内陸部の親類から援助を受けることができたと
いうことは、他の家々においても岡方に親類等があった
ものもいたはずであったと思われるが、援助を受けられ
なかったということは、岡方においても相当の被害があ
り、たとえ親類であっても援助できるような余力さえな
い状態であったということが想像される。
それでは津波による漁業被害はどうであったのだろう
か。次の資料を見てみよう。
(資料3)「金子借用連判状」
差上申一札之事
合金百七拾七両壱分 本代金也
右者去未ノ十一月廿二日夜大地震津波入漁舟数大小合
三拾艘八手網大小五帖地引網弐張海老網九百(以下欠)
目網九百八拾反此代金八百四拾両壱分銭八貫八百廿四
文 先達而書上ヶ仕候通波ニ被取惣百姓稼可仕様無御座
候大勢之者及飢申ニ付御拝借奉願候得共書面之通り
永代金として御拝借被仰付惣百姓助リ難有奉
存候 返上納之儀ハ当申ノ暮ゟ戌暮迄三ケ年ニ被仰付
奉
畏候依之返上納之儀御尋ニ御座候右拝借ヲ以網舟
■■猟仕度舟漁師共夫ママ食相渡シ候外代金名主組
頭長百姓立合請取置申候者返上納少茂遅
手支申儀無御座候 為後日差上ヶ申連判如件
名主
年寄
組頭
元禄十七年申三月
御代官様
この資料からは、浜行川村における漁撈用具の被害が
わかる。即ち、漁船が大小合わせて三〇艘、八手網五、
地引網二、海老網九〇〇、平目網九八〇で、これらの被
害総額は八四〇両一分に上ることが記されている。漁業
復興のための資金として代官所から一七七両一分を三ケ
年返済で借用している。
さらに次の資料では、その持主ごとの被害内容を記し
ている。
(資料4)「船網諸道具書上帳」
大八手網壱帖 持主 八郎兵衛
此分ケ
舟弐艘 長三丈五尺横八尺
代金百四両
舟壱艘 長三丈横六尺五寸
代金四拾五両
一 平目網廿五反 六右衛門
海老網合四百三拾四反
代三拾六両六百三拾弐文
平目網合四百七反
代五拾両三分ト五百文
惣金高合
金八百四拾両壱分
銭八貫八百廿四文
(二行墨消し)
漁船合大小分ケ共三拾艘
八手網大小 五状
地引網衆 弐状
海老網衆 九百八拾八反
平目網合 九百八拾反
右書上ヶ候通去ル十ママ二月廿二日夜津波ニ舟
網諸道具被取申候 書上ヶ申候以外ニ
舟四艘残申候得共津波ニ打被破シ間大分ニ
損レ申候 尤大工掛ヶ申し候ハハ拵可申候へ共大
分ニ金子入申候得者拵申事不罷成漁職
不仕罷有候以上
名主 八郎兵衛
年寄 市兵衛
同 惣右衛門
元禄十七年甲ママ二月
御代官様
この資料は前出の資料3の中にある「先達而書上ヶ仕」
書類の事であり、各種網や漁船の被害合計は、前出の資
料3と同数である。
ここで注目されるのは、舟が四艘残りこれらは破損し
ており修理が必要であることが記されていることであ
る。即ちこれは、前出資料とここに書き上げられた漁船
や網の数々は、津波により流失或いは修理不能で全損し
てしまった諸道具類であろう事がわかる。また、とりわ
け大型の網の持主名を記して、この網一カ統に係る被害
を書き出している。書き出された舟の大きさからは、浜
行川村でもっとも大きな舟であったのであろうか。また
数ある平目網の中でも多くを所有していた網主名も記し
ていることなどは特徴といえる。
こうした漁業被害は、これに係る領主への各種税の減
免や赦免を申し出ることとなった。次にその一部を見て
みる。
(資料5)「蚫御運上御赦免願書(合本)」
乍恐以書付奉願候事
上総国夷隅郡濱行川村御請負人
行川村蚫御運上 市兵衛
永九貫八百三拾四文三分
一永四貫九百拾七文
但未ノ六月ゟ同十一月迄六ケ月分
右之通岸根蚫御運上之儀 去午ノ年百川武兵衛様
御代官所之節午ノ五月ゟ酉ノ五月迄三ケ年ニ御
請負仕午ノ五月ゟ未ノ六月迄壱ヶ年分武兵衛様へ
差上ヶ申候 然處ニ去十一月廿二日夜津波入家
財猟職抱之漁共流申ニ付御上納可仕様無御
座候ハハ御赦免被下候様ニ奉願候者被聞召分ヶ
御運上月割ニ候未ノ六月ゟ十一月迄六ケ月分上
納仕候様ニ被仰付奉畏候併右申上候通リ猟
船被取波候得共猟可仕様無御座候 当方及
飢申躰ニ御座候ハハ右六ケ月分永来八月
十月十二月三度ニ上納仕候様ニ奉願候 勿論抱
之猟船共ニ無御座家職不仕候ハハ去ル十二月ゟ
御請負之岸根蚫浦差上申度奉願候
哀御慈悲ニ十二月ゟ御赦免ニ被為●●●候ハハ
難有奉存候 其内漁并船猟職網申候ハハ
早速御訴申上浦御請負可奉願候以上
上総国夷隅郡濱行川村
請負人 太兵衛
名主 八郎兵衛
年寄 市兵衛
元禄十七年甲ママ正月
御代官様
この資料では、濱行川村から運上していたアワビにつ
いて、津波により道具等が流失してしまったことから赦
免を願い出たところ、津波以前の六ケ月分について上納
するようにとのことであった。そこでこれを八月以降二
ケ月分ずつ三回に分けて納めたい旨の内容である。こう
した資料から漁業被害の深刻さがうかがえる。
次に漁業以外の被害について記した資料を見てみよ
う。
(資料6)「酒造休止願」
乍恐以書付奉願候
一 寅年 酒造米拾三石六斗
古川武兵衛様御改請也是ゟ酒造米減申候
一 卯年 酒造米壱石
一 辰年 酒造米壱石五斗
一 巳年 酒造米四斗五升
一 午年ハ相休申候
(一行墨消し)
右之通寒造仕候得共去未ノ十二ママ月廿二日夜
大地震ニ酒桶道具ゆり潰シ申候ハハ酒造可
申様無御座候故去未ノ年ハ相休申候 五割
御運上之儀御赦免奉願候 酒桶取立候節ハ
御訴可申候 以上
酒屋 新八
名主 八郎兵衛
年寄 市兵衛
元禄十七年甲ママノ正月
御代官様
この資料は、代官宛に提出された同村で酒造業を営ん
でいた「酒屋新八」の酒造に係る酒造の休止願いの文書
である。
過去四年間の酒造の仕込み実績を列記しながら、地震
の前年である午年(元禄一五年)に仕込んでいよいよ蔵
出しする予定でいたであろう酒造りを休止するというも
ので、元禄地震によって酒桶等の道具類が壊れたことに
よるものとしている。そのため五割の運上について、道
具類が揃うまで免除してくれるように願い出ている。
しかし、領主側ではこの文章だけを見ても、大きな地
震により具体的にどれだけの被害があったために酒造を
休止せざるを得なくなったのか、ということはわからな
い。従って、次の文書を提出することにより、酒造に係
る具体的な被害状況が初めてわかるのである。
(資料7)「申之歳酒御改書上ケ帳 酒屋新八」
覚
一 五尺桶 壱本
但地震ニ而潰たたミ置申候
一 三尺五寸桶 六本
内 三本ハ地震ニ而蔵上道具落右之桶打破申候三本ハ地震ニ而潰多たミ置申候
一 三尺桶 壱本
但地震ニ而潰たたミ置申候
一 坪臺桶 四本
内 弐本ハ地震ニ而蔵之上道具落右之桶打破申候弐本ハ地震ニ而損シ申故たたミ置申候
一 半切 八枚
一 酒船 一艘
〆六色
カ右之通り酒道具只今迄持来り候御吟
味被遊一色茂書付之外尓出候ハハ何分
之御仕置ニ茂可被仰付候 為後日書付差
上申候 以上 上総国夷隅郡濱行川村
酒屋 新八
寳永元年申十月十五日 名主 八郎兵衛
阿部播磨様御代
山口喜助殿
これは、資料6の後に出された文書で、先の文書を補
完すべく、直径三尺(約九〇センチ)や五尺(約一五〇
センチ)といった大型の仕込み用の桶類が数多く潰れて
しまっていることを書き上げており、このことから酒造
が出来ないことがわかる。
こうした被害を書き上げて領主に提出することは、こ
れらに賦課される税について、免除(赦免)の願いを出
すためには大変重要であったといえる。この資料は、具
体的な被害状況を記すことにより先に提出した願いを補
強するものであるといえよう。
6 濱行川村の元禄地震と津波の規模
ここまで濱行川村の元禄地震と津波により受けた被害
の様子を文書資料から見てきた。人命の被害は「楽只堂
年録」にも見えてはおらず不明であるが、住居・家財・
漁撈用具等に甚大な被害をもたらしたことがわかった。
そこで、これらの資料からうかがえる地震や津波の規
模を想定してみたい。
まず、地震の揺れの大きさであるが、資料7にあるよ
うに酒屋(酒造家)での仕込み用の桶類の被害では、落
図3 濱行川村における元禄津波想定到達域
下で壊れたものを除いて三尺以上もある大きな桶類を
も、転倒して壊してしまうほどの非常に大きな揺れであ
ったことがうかがえる。このことから、今日の震度階基
準での「(震度6強)固定していない重い家具の殆どが移
動・転倒する」や「(震度7)殆どの家具が大きく移動し、
飛ぶものもある」という様子がうかがえることから、震
度6強から最も強い震度7に達する縦揺れを伴う非常に
強い揺れであったことが想定できよう。
次に、この地震で発生した津波であるが、資料1と2
から、村内九一戸のうち三六戸(約四〇%)の住居が津
波で被害を受けており、津波の被害を受けなかったのは
五五軒(約六〇%)であった。濱行川村の今日の集落の
分布の様子を見てみると、平地の少ない海岸部には余り
多くの住居はなく、殆どが谷の中に分布していることが
わかる。こうした様子と津波の被害家屋数とから、元禄
津波は海岸部に打ち寄せてから谷に沿って入り込んだこ
とがうかがえる。そして、資料からも三葛木家までは到
達しておらず、被害家屋数とを考え合わせると、津波は
標高一〇メートル付近まで押し寄せたことが想定され
る。
7 おわりに
元禄地震津波は、浜行川に残る資料から当地に大きな
被害をもたらしたことがわかった。今回、浜行川に残る
これら一連の資料の一部をもとに、それまでの生活を一
変させてしまうような大きな被害をもたらした元禄津波
が、濱行川村ではどのあたりまで浸入したのかを復元し
てみた(図3)。
浜行川地区に近接する守谷地区には、波打ち際にほど
近い場所に守谷海蝕洞穴が所在しており、弥生時代の遺
物層を持っている。大正期に行われたこの洞窟の調査に
よれば、海水の影響を受けた三つの層が存在していると
のことである。当時の報告では地盤の沈降によって海水
が流入して形成されたとしている。しかし、海水の影響
を受けている土層には木炭や生活遺物類も混在している
ことを考えると、これは津波等によって短期間に形成さ
れたものと考えてもいいのではなかろうか。そうだとす
れば、弥生時代の頃から、この地域では人の生活する場
所において、津波という自然災害を経験していたのであ
る。この付近の津波について近年では、昭和三五年(一
九六〇)のチリ津波の際に、興津地区では市街を貫通す
る国道一二八号線旧道付近まで、津波が上がったという
証言もある。
浜行川地区は、古代にあっては安房国長狭郡置津郷に
所属し、平城宮出土の木簡には天平年間(七二九―四九)
に、置津郷からアワビが都に運ばれていたことがわかっ
ている。この地は、それほどに海産物の豊富な地域であ
った。しかし、一方でこの地に暮らす人々は、津波とい
う自然災害を何度か経験してきた。こうした中にあって
も、人々はその度ごとにたくましく復興を成し遂げてき
た。濱行川村の村高は、江戸時代、元禄年間の三一六石
から天保年間には三五九石へと増加しており、さらに戸
数は、津波時九一戸が寛政年間には一〇二戸へ、人口も
四三六人が幕末期の慶応年間には五八六人へという具合
にである。
今日、浜行川地区は、市街中心から外れた市境に近い
小湾を抱いた谷間の地区でありながらも、そこに暮らし
てきた人々のたくましさを改めて感じずにはいられな
い。
(参考文献)
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二〇〇三
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博物館研究紀要vol.11 二〇〇四