[未校訂]貞享大地震と飫肥城改修
延宝の地震からわずか四年後の貞享元
年(一六八四)十一月六日、再度大地
震が発生した。寛文二年から数えて二三年間に三回もの
大地震の襲来である。この地震で[本丸|ほんまる]の公寝所の下が破
裂し、いよいよ本丸の建物が維持できなくなったため、
翌年八月、平部小左衛門を幕府に遣わして、[飫肥|おび]城(日
南市)の大規模改修を願い出ている。その絵図によると、
以下の改修がなされる予定であった。
○[中ノ丸|なかのまる]の大半と[松尾|まつお]の丸、[今|いま]城の一部を切り崩し、
[犬馬場|いぬばば]に押し出して新しい館の敷地(本丸)をつく
る
○それにともない、新たに土留めの石垣を二〇六間五
尺築く。ただし、東側は土居(土塁)とする。土居
は底辺の幅六間、上幅三間、高さは一間半とする。
これによって、本丸敷地の大きさは、東西五八間、
南北八五間、入り隅の部分を含めて全体で四六八五
坪となる。なお、石垣の高さは南側で二間半である
○新しい館には西側、南側、東側の三か所に門を設け
る。西側が最も大きく門幅五間、南側は二間、東側
は三間である。西側の正門は二階建てで、前方に門
幅三間の前門を設ける
○[搦手|からめて]口の門を三間半北に移し、土橋を板橋に替える
とともに、橋台と左右を石垣とする。橋台は高さ二
間半、長さ五間、門の両側の石垣は南北三間半、東
西四間、高さ六尺とする
○中の丸の切り崩しは、北側に土居として一部を残す
写4―18 日州飫肥城庚申・甲子両
年地震引割就難成居住屋
敷構以絵図奉願之覚
(日南市所蔵)
○本丸には南東隅と東側に二階矢倉を設ける。このう
ち南東隅の矢倉は正面五間、側面四間で、東側の矢
倉はそれより一回り小さく正面四間、側面三間であ
る
○飫肥城は砂地であるので、堀が埋まりやすく、つい
でに浚える
以上の大改修について、幕府より許可がおりたため、
貞享三年三月二十三日、改修工事の総奉行として伊東[左|さ]
[門祐信|もんすけのぶ]と伊東[主水|もんど]正昭、普請奉行は山田次郎左衛門・長
倉八郎左衛門・川崎佐兵衛・平部小左衛門、兵道者は日
高左衛門と時任八郎が任じられ、鍬初式が行われた。地
形普請と呼ばれる地ならし工事は、農繁期が終わる八月
五日から始まり、飫肥藩内を地区別に六組に分け、百姓
はもとより、国中の諸士足軽、[小者|こもの]にいたる一六歳以上
六〇歳まで、一組五〇〇人として総勢三〇〇〇人が動員
された。各組は一日ごとに交替して作業を行い、十月十
四日には地形普請を終了している。引き続き石垣普請が
行われ、元禄四年(一六九一)に石垣・土居の普請を終
了した。なお、石垣に使用した石材はシラスが固まった
溶結凝灰岩で、飫肥城下の南に近年まで石切場があった
ことから、飫肥城周辺から持ち運んだとみられる。
同年十二月十四日には地割り式が行われ、建物普請の
作業奉行として田原権右衛門・長倉十左衛門が任じられ
ている。兵道者には時任兵八郎・日高平左衛門・日高仁
兵衛が任じられた(平部嶠南『日向纂記』)。なお、城下の小鹿倉家に
は明治十二年(一八七九)に飫肥城から移された「付書
院地板裏書」が残されており、元禄六年二月十六日の日
付で、上記二名の総奉行のほかに、下奉行として緒方権
助・平部次左衛門・野中加兵衛・高崎五兵衛をはじめ、
惣大工、下代、大工棟梁、同[肝煎|きもいり]など関係者の名前が知
られる。新しい館となる建物は同年五月十六日に完成し、
五月二十八日に落成式が行われた。藩では落成を記念し
て十一月十八日と十九日に能興行を行っている。新たな
本館は[大書院|だいしょいん]、[小書院|こしょいん]、松の間、小座敷、大広間、舞台
の間、後宮などからなっていた。
本丸の館が完成した後も[追手|おうて]([大手|おおて])門の改修工事が
続けられたようで、昭和五十三年(一九七八)の大手門
復元工事によって発見された「追手御門臺石垣并御門修
復」銘文の台石には、正徳三年(一七一三)四月の工事
関係者の名前が刻んである。台石は大手門の石垣の最上
部に伏せてあり、大きさは縦一六五㌢、横六五㌢、高さ
六三㌢、正徳三年の大手門修復完成に際して置かれたも
のである。この銘文によると、普請奉行は田原作馬、小
奉行に郡司久蔵と川崎彦右衛門、穴太頭は守永四郎左衛
門、大工棟梁は長峯市之允、大工小棟梁は三里伝兵衛、
総役所奉行は大田原久兵衛、割場頭取は岩城猪右衛門と
永井当助、大工頭取は河野源兵衛、作事積方は平部次郎
右衛門となっている。
なお、正徳三年の修復からわずか三〇年後の寛保三年
(一七四三)に再度大手門矢倉の普請が行われているが
(「万覚書」山之城トシ家文書)、寛保元年の[会所|かいしょ]焼失の際に延焼があった
のかもしれない。
飫肥城の本館は、その後約二八〇年の間飫肥藩伊東家
の中心施設として機能してきたが、明治維新間もない明
治二年十二月二十七日、伊東家が大手門前の[豫樟館|よしょうかん]に移
り、本館は明治政府の総務館とされた。しかし、明治六
年には、大書院以下櫓にいたるまですべて取り壊された
(平部嶠南『六鄰荘日誌』)。
飫肥城改修とその意義
寛文・貞享大地震が直接の契機となって
[飫肥|おび]城(日南市)は中世的な城から近世
の城へと大きく改修されることになる。その意味につい
て、それまで城内中心部の各[曲輪|くるわ]に一族・重臣が住んで
いたが、この改修によって、「縄張りという一種の軍事的
統制の面でやっと一族・家臣団に対する圧倒的な優位性
を確立した」(木島孝之「九州における織豊期城郭」)と評価されるのである。