[未校訂]天和の地震と五十里湖出現
天和三年(一六八三)九月一日午前二
時頃、日光・藤原地方に大地震があっ
た。マグニチュード六・八の激震だったという。五月に
も二度地震があり、その時もマグニチュード六・四と七・
三だったという(『藤原町史』通史編)。完成したばかり
の日光東照宮も大きな被害を受け、「石垣残らず崩れ、双
輪塔も押倒」され、諸大名献上の石燈篭などは残らず倒
れている。
この地震が南山御蔵入領の最南端五十里村の下流で、
男鹿川と湯西川の合流する僅か下の、現在[海尻|うみじり]橋のかか
っているあたりの戸板山(葛老山)を崩して川を堰止め
てしまった。会津側から見れば川向かいの山が崩れたわ
けだが、その土石量は「川なり四百拾間程、高さ十二三
丈[計|ばかり]、大石大木夥しく落ち重り、流末を突き留め、(その
土石量は手前の)布坂山の麓山頂より高く」なる程であ
った(「実世実紀」『町史」6(上)六〇一ページ)。メートル法で換算すると谷幅
一五〇㍍、谷の深さ五〇㍍、土石の上流から下流まで八
〇㍍、土石量は六〇万立法㍍、重量約一二〇万㌧と概算
できるという(『藤原町史』)。
五十里村は一二五石五斗四升六合の石高で百姓数四三
人、御蔵入領分では最南端で、宿駅をつとめていた。男
鹿川(五十里川)の右岸にあり、現在の国道よりすれば
対岸に位置していた。堰止められた川の位置は次第に上
り、約九〇日で満水となり、今日の五十里湖より少し大
きいくらいの湖になったという。この九〇日間に五十里
村は完全に水没したので、湖水の北端の石木戸に一〇戸
移転し、残りは湖水中間の左岸、〈上ノ屋敷〉に移った。
石木戸と上ノ屋敷の間は一里二町離れているが、両者を
つなぐには湖上に舟を浮べるしかなかった。
会津藩は対策として街道を中三依村より塩原温泉湯本
の地蔵そねに迂回路を作り、高原新田村へつなげば、路
程も五十里村廻り高原新田村と大差がないからと有力な
案として提出された。しかし御蔵入奉行飯田兵左衛門は、
その案は五十里村一二〇石余の百姓を捨てることになる
と反対し、湖水の水抜き工事を試みる方向に藩の意見を
動かした。
その前に、江戸幕府
に状況を報告し、五十
里湖に小鵜飼舟四艘を
浮べ、石木戸と上ノ屋
敷を連結し、上ノ屋敷
からは従来通りの道で
高原新田村へ陸送し
た。
天和三年の会津藩に
よる水抜工事は、御蔵
入領全域の各村に人夫
を割当て、合計三九四
一名が参加した。割当
法は上郷(田島・川島・
高野・熨斗戸四組)は
一〇〇石当り一〇人八
分、下郷四組は一〇〇
石当り八人、伊南郷は
七人二分、伊北郷三組
1―13天和3年出現 五十里湖水の図
(大塩・黒谷・和泉田)は六人、金山谷四組(大石・野
尻・大谷・滝谷)は二人七分、尾岐郷三組(永井野・東
尾岐・冑)は三人である。工事の途中に大きな一枚岩が
あらわれ、中止の止むなきに至った。以後たびたび水抜
の陳情があり、また大工事も着手してみるが何れも失敗
し、宝永以後は水抜きの声は止まってしまった。