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項目 内容
ID J3200043
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/10/31
和暦 寛文二年九月二十日
綱文 寛文二年九月二十日(一六六二・一〇・三一)〔日向・大隅〕
書名 〔宮崎県史通史編 近世上〕H12・5・1宮崎県編・発行
本文
[未校訂]寛文大地震
寛文二年(一六六二)九月十九日夜、[日|ひゅう]
[向灘|がなだ]を震源とするマグニチュード七・六
という大地震が発生し、地震と津波によって[飫肥|おび]藩は大
きな被害を受けた。震源に近い[清武|きよたけ](清武町)では、[加|か]
[江田|えだ]川河口周辺を中心に本田畠四六〇町、八五〇〇石余
(うち二五二五石は水没)、潰家一二一三軒(うち一三六
軒は水没)、被災者二三九八人の内死者一五人という甚大
な被害であった(「万覚(抄)」近4―七二六)。当然のことながら飫肥城
下(日南市)にも多大な被害が及んでいる。『[日向纂記|ひゅうがさんき]』
によると、飫肥城の石垣九か所九二間が壊れ城[隍二|からぼり]か所
が埋もれるとともに、諸士屋敷土蔵石垣などの破損数え
きれずとあり、被害の大きさが想像される。
 大きな被害を受けた飫肥城については、さっそく同年
十月六日付で「飫肥城石垣改築並堀浚門建直し願」を幕
府に願い出ている。それによると、地震によって崩れた
[本丸|ほんまる]枡形石垣、本丸北門石垣、城内石垣、[谷|やつ]ノ口石垣、
[追手|おうて]([大手|おおて])口石垣、[十文字|じゅうもんじ]口石垣、二重木戸石垣、西
ノ丸石垣、[長吉|ながよし]口石垣の九か所の復旧と堀二か所の[浚渫|しゅんせつ]
を行う。また、大手口の石垣は北へ三間拡張するととも
に、若干西へ移動させることを申請している。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 23
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 宮崎
市区町村 宮崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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