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項目 内容
ID J3200044
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1666/02/01
和暦 寛文五年十二月二十七日
綱文 寛文五年十二月二十七日(一六六六・二・一)〔越後〕
書名 〔上越市史通史編4 近世二〕上越市史編さん委員会編H16・3・31 上越市発行
本文
[未校訂]寛文地震
近世前期に上越地方で発生した大地震とし
ては、[慶長|けいちょう]十九年(一六一四)と[寛文|かんぶん]五年
(一六六五)の地震がよく知られている。このほかに、
[寛永|かんえい]十四年(一六三七)にも地震があり、[丑|うし]ノ年地震と
よばれ、[中魚沼|なかうおぬま]郡[外丸|とまる]郷では多くの潰れ地が出る被害が
出ている。
 寛文五年の地震は、年の暮れも迫った十二月二十七日
の午後三時ころであったとされるが、松平直矩の日記に
よれば、彼の領地である[越後|えちご]国[村上|むらかみ](現新潟県村上市)
でも[申|さる]の[下|げ]刻(午後三時から四時ころ)に地震が二度あ
り、そのうち一度は村上でも珍しいほどの大きな揺れで
あったという。
 在国していた直矩が翌六年一月三日に得た情報によれ
ば、高田城・[侍屋敷|さむらいやしき]・[町屋|まちや]が大破し、[小栗五郎左衛門|おぐりごろうざえもん]・
[荻田隼人|おぎたはやと]ほか多数が死去したが、[綱賢|つなかた]は無事とのことで
あった。十一日には、材木を求めて三日に高田を出発し
て村上に立ち寄った者が伝えた情報を得ており、その内
容は[門|もん]・[櫓|やぐら]も潰れ、城に近い侍屋敷も奥の方はほとんど
潰れ、表側
も被害のな
い家はな
く、昼夜に
三〇回も余
震が続き、
そのうち
一、二回は
大きく揺
れ、死人は
侍男女下々
あわせて二
〇〇~三〇
〇人、その
うち侍分は
子供も含め
て三〇~四
〇人、町や
寺もほとんどが潰れ、綱賢は庭に小屋をかけて生活し、
城番の侍も小屋の中に[勤番|きんばん]し、町の端には「武頭(鉄砲
組や弓組の頭)」らの侍が番所を立てて人の出入りを改め
ており、信濃あたりより買物に出ていた者も多く死んだ
というものであった。
 同日[酉|とり]の[上|じょう]刻(午後四時ころから五時ころ)に直矩が
綱賢から得た返報によれば、城や家は潰れ、家中は一五
〇軒余りが潰れ、死人は一四〇人余り、町屋は三七〇軒
が潰れ、死人は四三〇人余り、寺は一二軒が潰れ、死人
は三〇人とのことであった。このように被害情報には差
があり、直矩も「十人十色」との感想をもらしている。
 十七日には直矩が高田に派遣した使者が戻り、死人の
総数は四五〇人余り、二の丸は堀端の柳の大木が堀のな
かに植えられたような壊滅ぶりで、信州より盗人が多く
町屋に入り込み、追いかけると逆に鉄砲を打ちかけられ
るような無法状態で、昼夜いまだに余震が続いていたと
のことであった。
 江戸では地震の報せを一月二日に受けとった。幕府の
日記によれば、寛文五年十二月二十六日・二十七日の両
日の大地震で、高田城の本丸、大手門、角櫓がことごと
く崩れ、米蔵、土居、石垣、および民家が多く崩れ、小
栗五郎左衛門・荻田隼人などの重臣を含む三五人が圧死
した。そのほか、死者一二〇人におよんだという。幕府
[儒者|じゅしゃ]の[林春斎|はやししゅんさい]が一月五日に越後の[飛脚|ひきゃく]から得た情報に
よれば、城は崩れ、家老および士庶の死者は二〇〇〇人
におよび、民家はことごとく壊れ、火災も生じたが、幸
いにも[綱賢|つなかた]は無事というもので、近年にめずらしい「[大|たい]
[変|へん]」と日記に感想を残している。
24 寛文5年の地震被害
本丸
家屋全壊、櫓・門倒壊、左右門一部破損(要修復)
二の丸
門倒壊、土居橋・土橋など破壊
三の丸
人見土居破壊、追手一、二の門破損、搦手門崩れ
堀・塀
惣塀・惣曲輪・土堤破裂(ただし、雪下の状況は不明)
侍屋敷
2/3転倒、1/3破損(いずれも修理不能)
町屋寺社
2/3転倒、1/3破損(いずれも修理不能)
死人
侍分・与力30人余り、侍町男女上下150人余り、寺持衆3
人、寺社町等350人余り
けが人
2,000人余(完治10~20日)
牛馬
20~30疋圧死
在郷
1/10大破、遠方は被害なし(ただし、雪下状況は不明)
 十二日に光長には帰国の[暇|いとま]が与えられ、十四日に江戸
を出発した。光長の帰国をうけて、網賢がかわりに江戸
に参府した。三月十三日には幕府から金五万両が貸与さ
れ、家老の[岡島図書|おかじまずしょ]が受け取った。そのうち二万五〇〇
〇両を城下の復興にあて、間口一間につき一両ずつ、裏
町には二分ずつ貸し与えたという。松平直矩は七月二十
七日に高田に使者を派遣し、畳表二〇〇〇枚を送ってお
り、ほかの大名などからの支援物資もあったことと思わ
れる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 23
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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