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項目 内容
ID J3200021
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕
書名 〔二宮町史通史編〕H6・3・31二宮町編・発行
本文
[未校訂]明応の地震
一四九八(明応七)年八月二十五日に発
生。震源地は、静岡県御前崎沖数十キロ
メートルの海底(図6参照)。M=八・六(日本ではM=八・六を超える地震は記録がない)。紀伊から房総に至る
海岸と甲斐で振動強く、津波が紀伊から房総に至る海岸
を襲い、伊勢大湊で流出一〇〇〇戸、溺死五〇〇〇人、
静岡志太地方で流死二万六〇〇〇人、伊勢志摩で溺死一
万人という。このとき、浜名湖は海に通じた(国立天文
台、一九八一)。
 この地震で、二宮近辺でも崖崩れ等の被害があった。
その一つは中村川の河口近くで生じた。当時、現在のJ
R鉄橋と小田原・厚木道路との間には湖(中村湖、筆者
命名)があり、ここから流れ出ていた川を[廐川|うまやがわ]といい、
現在のJR鉄橋付近から流路を西に変え、前川で海に注
いでいた。その流路の痕跡はJR線沿いの地形に残って
いる。前川は廐川の[訛|なまり]であるという(志澤、年不詳)。志
澤選(談)によれば、小田原市中村原禅龍寺の北には、
この湖の渡し場があったという。その地点の高度を、現
地で確かめてみると、約二五メートルとなる。これによ
って、中村湖を再現したものが図5である。
 この地震によって生じた崖崩れのため、廐川は橘中学
校の南で堰止められた。そのため、中村湖の水位が上が
り、南方に発達していた砂丘を押し切って、直接海に流
れ出るようになった。これが押切の小字の起こりである。
 『新編相模国風土記稿』(長坂、一九七五)には、次の
記事がある。
 「古は村内字根からみに堤ありて、曲流し、西隣足柄下
郡前川村に注ぎしが、中古水溢し、彼堤崩壊せし後、今
の水路となれりと云」
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 12
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 二宮【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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