[未校訂] 天正十三年(一五八五)内ヶ島[氏理|うじまさ]は越中の佐々成政
の応援に出陣した留守を金森長近に攻め入られ、急いで
帰国した氏理は降伏して長近を鍋山城に訪れた所、長近
より本領安堵を申し渡された。氏理は好遇に感激して帰
城したが、その年十一月二十九日、地震のため保木脇の
山崩れがあり帰雲城は埋没し一族悉く惨死した。
図5 「中村湖」の成立
帰雲城の埋没
大坂の貝塚願泉寺住職宇野道喜が書き
残した「貝塚御座所日記」に
廿九日(天正十三年十一月)夜四ッ半過ぎ大地震、十余日
止まず、京都三十三間堂の六百体の仏像すべて倒る。飛州の
帰雲といふ在所、内ヶ島といふ奉公衆ある所なり、地震に山
河多くせかれて内ヶ島在所へ大洪水はせ入って、内ヶ島の
一類[地下人|ぢげびと]にいたる迄残らず死にたる也、他国に行きたる
四人残りて泣く泣く在所へ帰りたる由、彼の在所はことご
とく淵になりたる由なり。
とあり、また「三壷聞書」に、
飛驒国阿古白川と云在所三百余軒の所、地震にて高山崩落、
男女数百人一人も不残荒山となりぬ、此時帰雲山の城郭大
地震にて大山頽落ち圧埋め、内ヶ島氏理一族主従、男女、僕
婢、城下の人馬に至るまで不残圧死して内ヶ島断絶せり。
とみえている。
この大地震は中部・北陸・近畿にまたがるもので白川
郷は特に被害が大きく、それは大坂にまでくわしく伝わ
っている。
また前掲の「三壷聞書」は加賀・能登・越中三か国の
地震を記録した金沢前田家所蔵本であるが、これに飛驒
帰雲城埋没事件を特筆していることは、いかに衝撃が大
きかったかを物語っている。
帰雲城の山崩れ跡(白川村保木脇)