[未校訂]三 西代と地震
高橋伊岐夫翁覚書(水家所
蔵)に「明治五年二月六日大
地震(浜田地震)があり家屋
倒壊三十数戸、道路の破壊田
畑の乱雑甚だしきを極め、其
の土地境界の区別も知られざ
るに至れり人民数日の間絶食
の状態にて其の他の被害も極
めて甚大なりという」とある。
終戦直後の昭和二十一年十
二月二十一日早朝にも大地震
(南海地震)があり、全壊五、
六棟、半壊程度の被害は全戸
に及んだ。地震が余りにも急
に大ゆれが来たので戸障子の
開閉すら出来ず、大人でさえ
も屋外に出られず家屋が倒壊
した後で外部から助けを借りて、[命|いのち]からがら[這|はい]い出した
家族三人づれもあった。幸いにして人体に被害はなく不
幸中の幸いであった。地震後の再建復旧には村民の協力
を得て数ケ年を要した。あれからちょうど五十年にもな
るけれど記憶にはまだ新しい恐ろしい思い出である。
古い時代の当地方の地震については、寛永四年九月四
日、同九年十二月二十六日、同十年一月十一日、寛延元
年五月二十三日、嘉永五年十一月六日、同六年十月と十
一月、安政元年(一八五四)十一月四日から五日にかけ
ての大地震、同二年の一月および九月の地震等が平田市
誌に載っている。
右のうち安政元年の地震については「此の度の地震、
西方にて平田、直江の特別の捐じ無之、大津今市はずい
分家も[仆|たお]れ捐じ多く、西代村より灘分、島村並に坂田、
三分市、黒目等直江より平田の間ひびき強く仆れ候家も
大層に有之、土地割れ、田畑道路ともわれ、水もふき出
し、又泥を吹出し、大土手われ水をふき出し跡にては土
手ひしげ、土地平らに相成、新田にては五反、七反、二
町、三町、と所々われ地震治り候後、土地より三尺、四
尺と沈み、又は[泥界|どろうみ]の様に相成り、土地しまり不申処も
有之、坂田村川東にて家十軒計も、家の座、土地平らに
泥に成候処も有之由、西代村にては仆れ候家にしかれ一
人死人有之由」(滝川用留)旧版「松江市誌」とあり当
時の惨状をまざまざと伝えている。
この様な地震がもたらす地域的な要因がどこにあるの
か郷土史研究家の美多実氏編の斐伊川史に「北山断層構
造線」と題し次の如く述べておられる。
「この地質断層における断層上盤は南方中国山地の裾
部からゆるやかに[這|は]い降ってきているものであるが、そ
れだけに単向斜状をなし断層線の破砕帯附近で底点をな
し非対称的V字状の谷型基盤をつくっていると推測され
る。そしてこの様な地形条件に対して洪積世以来雲南中
国山系の準平原化と呼ばれる侵蝕運動にしたがい、斐伊、
神戸の両川の運ぶ土砂により、このV字型谷―(海谷)―
を埋積してついに簸川平野を形成し、北山断層崖を(島
根半島)陸[繫化|つなぎ]したのであった。」と解説されている。
別図の地震道の上の地帯に斐伊川左岸平野の地震に弱
い地盤がある様に推測される。