[未校訂] 私は二〇年位前より歴史会の一員として、また三年ほ
ど前から同好の志と共に杉本文書を中心に「古文書を読
む会」を設け、その一員として関係古文書の勉強を始め
ている。
数多い同文書のうち、安政五年(一八五八)二月二十
六日(現四月九日)暁天八ッ[時|とき](午前二時頃)跡津川の
有峰活断層において震度6、マグニチュード6・8の大
地震が発生した。このことについては今更説明するまで
もないが、当時上条組十村であった石割村杉木弥五郎有
一、その嫡子弥八郎有貞はその対策に腐心、被害状況の
取纏めと上局への報告、被害住民の救済、泥沼砂利化し
た田畑の改修、流失した橋の架橋補修等々に寧日なき日
を送っている。
このことの詳細は同文書自体に上条組、下条組、高野
組を主体に新川郡全域の被害と対応策が記されている。
私は之等の中で初めて知ったことは、弥五郎氏は大地
震当時「[夫食預方願|ふじきあずかりかた]」に金沢へ出府したことで、金沢城
下の越中屋平七方に旅装を解き、同宿の岩城七郎平(下
条組十村)結城甚助(弓庄組十村)朽木兵三郎(高野組
十村)宝田六左衛門(西加積組十村)と共に就寝中であ
り地震を感じて飛び起き、翌日金沢城下のもの騒がしい
様子や新堀(兵三郎)の飛脚によって大地震の本拠地が
越中であることを知り急遽帰国していること。
又越中の大被害は各文書によって十分に知る機会もあ
ったが、弥五郎氏が遺した文書によって現岐阜県吉城郡
宮川村及び川井村等断層震源地一帯の被害模様を知り得
たことである。即ち別添(1)に「文書写し申し候」という
一文があり、どのような経緯を経て入手したかは不明で
あるが、相当詳しく取纏められ、小字名も載せられてい
るが、手近な岐阜県地図や郵便番号簿を調べてもその半
数も確認できない。やはり現地に赴き地域住民の方々よ
り確認するより方法がないと思われる。
又別添(2)に関係古文書の題名のみ記載し、内容は膨大
になるので省略したが安政五年以降明治二年に至るまで
の関係文書名を取りあげたものである。
御参考にして頂ければ誠に有難い。
別添1 文書写し申し候
飛騨往来西山中地震の事、午(安政五年)二月二十五日
夜九ツ時南の方より振動し加賀沢村家惣潰れに相成り申
し候。
怪我人なし、鮎飛村家惣て潰れ申し候、巣谷村家惣潰れ
四人死す、小豆沢村怪我人なし、川水番所の家根(屋根
か)上貳尺上がり候。
桑谷村四軒これ有り候處、川へいざり行き申し、その内
治郎兵衛と申す家は法事にて残り候へども寺の小僧一
人、大工一人、商人一人の三人死す、家内人無事。
仁加沢村拾九軒に寺一軒これ有り候処、皆潰れ三人と
牛一疋残りあとは川へいざり込み死に申し候。但しこの
三人は田地畠もなし、□方へ行図りにて三里半ばかり山
越えいたし行々処喰物これ無く皆死に申し候。
中上沢村家一軒潰れ怪我人なし、塩道舟渡し村九軒潰れ、
四人死に候。平坪村無難、ぶんぞう寺村、石やせ村と申
す處あり、それより小川村はまるでぬけ、山川へいざり
込み申し候。
大瀬村貳軒これ有り川端へいざり込み候へども家人は無
難なり。栄内村家九軒これあり候うち貳軒潰れ四人死す。
山川原村家廿五軒これ有り候うち野村紀兵衛と五郎左衛
門と貳軒残り、人は七人残り申し候。村方の下に船渡し
これ有り候処、山秡け致し未だ出ず。
棚蔵村家六軒あり内四人死す。丸山村家四軒に人三十人
居り候処、内三人残り又牛一疋残り跡は皆々川へいざり
行き宮も潰れ是より山秡けして山川原より丸山方へ秡
け、丸山より山川原方へぬけ候て水の深さ三十八間ばか
りと唱え候。又下牧と申す村これ皆川底と相い成り未だ
出ず、高牧村惣て潰れ壱人死に候。忍び村、森安村惣潰
れ、外にゆうねん坊と申す寺あり此寺ぬけ一人死に候、
家内は無難なり。かんのう寺と申す禅寺あり此寺皆潰れ
上下十四人死す。
臼坂村家貳軒これあり候處無死なり。
林村外に寺一軒と惣潰れ怪我人三人あり、牧戸村潰れ怪
我人一人あり、野谷村惣潰れ怪我一人ありその上川留り
の処あり但し西は森安村より秡け東は林村より秡水の高
さ十六軒(間か)と覚え候。
角川村留りこの村より落合方まで秡け[咄|はなし]に水の高さ三十
七間ばかり、その内角川村酒や徳兵衛と弥五郎と申す家
と貳軒残り其跡九十七、八間ばかり皆潰れ外に信正寺と
申す内陣の寺あり暫時の間に潰れ娘一人死に候、但し
村々廿五人死に候。
落合村惣潰れと申し候内、又兵衛と申す家に牛一疋、人
一人死に候、残り人無難。
大無加ら村惣潰れに相成候へども人無難なり、角川筋中
上沢村惣潰れ人八人[午|うま]九疋死す。
羽根むら惣潰れに五人死す、元田村惣潰れ三十七人死に
午皆死す。家寺人と水の下に相成り申し候。濤(カ)村貳軒こ
れあり人は貳十貳人居り申し候、家潰れ人は皆死に十日
牛馬ともに皆死す。
稲越慶楽村五軒これあり候うち三軒潰れ五人死す。[土蔵|どぞう]
[蔵|くら]と川へいざり込み申し候。
立石村荒町村漆野村と三ケ村家貳百軒これあり候処皆潰
れ相成り申し候、併し娘一人残り居り候此の人は高山へ
奉公に行き居り候て無難なり。
その外皆々水底に[泥|しず]み未だ土石に[埋|うず]み死す何とも相知れ
申さず候。
右書印し候又聞は信□名古屋と無難なり。
安政五年(一八五八)三月十七日写書
中道の事
茂住村七軒あり三件(ママ)潰れ寺は後れ高山七軒焼ける
残り十六は半潰れいたし□□□□
中山より丹と町まで所々ぬけ申し候
神通河一日半とどまり……以下中断記載なし
別添2 年代順にその題名を記載すると
(1)安政五年の水害に伴う新川郡内各組被害状況調
(安政五年・一八五八)
()2夫食御貸米代籾題紙 (安政五年四月付)
(3)上条組変地歩数[調理|ことわり]帳 (安政五年九月付)
(4)上条組変地手帳 (同上)
(5)二月二十五日大地震にて村々御田地相い損じ候歩数
書き記し申帳 (安政五年・上条組分)
(6)三月十日・四月廿六日常願寺川泥水押出し白岩川筋
清水堂領へ入川仕り川筋御田地変地泥石砂置きに相
いなり候村々書き上げ帳 (安政五年・上条組分)
(7)三月十四日山抜け常願寺川より白岩川筋清水堂領へ
入川、川筋御田地変地泥石砂置きに相いなり候村々
書記し申し帳 (安政五年・上条組分)
(8)右同覚書 (々々)
(9)當二月廿五日夜の大地震にて御田地など相い損じ候
ケ所調理書上申し帳 (安政五年・下条組分)
(10)當二月廿五日夜の大地震にて潰し家など相い損じ候
分
相調理書上申し候 (安政五年・下条組分)
(11)常願寺川三月十日八ツ半時頃俄に泥洪水にて御田地
泥置き等に相成り手帳 (安政五年・高野組分)
(12)泥洪水の変地につき御郡銀并びに組銀取り遣い帳等
一件 (安政五年十二月)
(13)五月十九日白岩川・常願寺川大洪水にて常願寺川・
白岩川へ切り込み流失家等これあり御注進方一巻
(安政六年・上条組分)
(14)五月十九日より大洪水御田地并びに水附家等一件
(安政六年五月付)
(15)五月十九日より時々出水・流失家等相調理書出
(安政六年九月付上条組分)
(16)萬延元年三月夫食御貸米割符帳
(蔓延元年三月付・一八六〇)
(17)萬延元年三月・三分以上村々御貸米割符帳
(々々)
(18)水損御救い米銀下され一件
(文久元年・同二年・一八六一、六二)
(19)午年(安政五年)より酉年(文久元年)まで四ケ年
常願寺川筋御入用本勘銀書出し申し帳
(20)去[戌|いぬ]年(文久二年・一八六二)変地村々等御取扱い
の品々書出し申し帳 (文久三年・一八六三)
(21)立毛・空立・立枯里方村々[蝗虫|いなご]枯穂に相成り天保七
年(一八三六)以来三十四年の大作難・上新川貳百
三ケ村・下新川百ケ村御見立等諸事一件
(明治二年巳九月・一八六九)