Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3100246
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・能登・加賀・越前〕
書名 〔広田郷土史〕○富山市広田郷土史編纂委員会編H8・7・7 広田校下自治振興会発行
本文
[未校訂]第二節 安政大地震と常願寺川の改修
一 大地震と後遺症
地震の規模と被害
 安政五年(一八五八)二月二十
六日(新暦四月九日)午前二時、
跡津川有峰断層の活動によって大地震(マグニチュード
七・〇~七・一)が起きた。宇佐美龍夫著『日本被害地
震総覧』(東京大学出版会)によれば「飛驒北部・越中で被害大、
飛驒の高原・小島・小鷹利(高原川・宮川流域)・白川の
各郷および照蓮寺領で戸数一万二〇〇九、人口八四五六
のうち、潰れた家三一九、半潰れ三八五、死者二〇三、
第16表 安政5年より

大田

広田
高野
上条
合計
安政5年
変地高

9,638.829
8,489.409
5.189
2,790.868
1,061.09
安政6年
再変地高

810.911
3,535.975
331.04
590.072
343.303
安政6年
新変地高

139.504
472.704
773.89
941.02
万延元年
再変地高

113.2
108.931
66.706
29.484
万延元年
新変地高

43.999
130.42
157.72
23.8
負傷者四五、跡津川断層付近の村の潰家率は中沢山・森
安が一〇〇パーセントであり、五〇パーセント以上の村
は断層上に集中している。この地震は、跡津川断層の運
動(右横ずれ、北側隆起)によるものと考えられる・・
(中略)・・常願寺川流域の本宮付近で死者三六人を出す
山崩れがあった。富山城の石垣・鉄門・塀の破損、富山
藩の家中、足軽の家屋の潰・半潰三一八、町方の潰・半
潰れの家一八七二、土蔵の潰・半潰れ一二四〇棟、その
ほか富山の土地、田の地割れによる損害五町歩余、各地
で地が裂け水が噴きだした・・(後略)。」とある。
 そのほか、八尾では全壊二一一戸、半壊一〇六戸、二
七〇の蔵壁が落ちたといわれ、高岡・伏木でも大地が裂
けて地下水が吹きだし、瑞龍寺の利長廟の石柵や燈籠が
みな倒れた。富山城下の町々では続いて起きる余震にお
びえた人々は、庭や道路上にたんす・長持など並べて、
戸障子で囲って夜露をしのいだと言われている。
カルデラ壁の大崩壊と大洪水
 この地震によって常願寺川の水源
地帯にある大鳶・小鳶山のカルデラ
(火山の中心部または周囲にある円形の大釜と呼ばれる
窪み)壁が大崩壊し、山腹に積もった多量の雪とともに、
谷川を塞ぎ、数か所に山上の自然ダムを造った。
 地震後、十四日経った三月十日、ダムアップし水圧に
たえきれなくなった堰が突然、大音響を発して一時に決
壊し、大土石流となって川下の村落を襲った。当時の状
況を高野組の十村朽木双水はつぎのように記している。
(広瀬誠編著『越中安政大地震見聞録』)
(注、省略)
四月二十六日の大出水
 石割村の杉木有一(双水のこと)
が御郡所へ宛てた報告書にはこの日
の前後の事情は次のように書かれている。
 「三月十二日、奥山の状況を見届けるため、兵三郎・十
兵衛を山へ向かわせました。その持ちかえった報告によ
りますと、芦峅、千垣の木こり共八名を登らせ見届けさ
せましたがたぶん今後水難はあるまい、とのことだった
ので、その旨、兵三郎から御郡所などへも報告させてお
きました。ところが、それから一ヵ月半後の四月二十六
日、奥山に淀み溜まっていた水が一時に流れ出し、見上
げるような大津波の瀬先は、各所の堤防を一気に押し切
り、四つの瀬に別れ、左岸の村や町を押し流しました。
三室荒屋あたりを襲った流れは、太田本郷へ向かい、清
水村で鼬川に入り、富山町内に架かる橋という橋をすべ
て押し流して、神通川へ落ちました。大場前の荒川口御
請場から乱入した一瀬は西の番・大場村・天正寺村・東
長江・柳町・綾田あたりから稲荷町辺を流し、奥井村の
あたりから神通川へぬけました。別の瀬先は、中川口御
普請場の上・下の工事区域、大島・中島・小島の工事区
図10 安政5年大泥水被害地図(『東岩瀬史料』より)
域の全部を押し切り、氾濫した土石流は、金代・荒川・
新庄新町をおし潰し、上冨居・鍋田・粟島・中島村のへ
んから神通川へ落ち入りました。また、朝日村御普請場
の上工事場へんから氾濫し、この洪水は朝日、藤の木・
中間島・新庄・一本木・手屋村辺からもとの常願寺川へ
落ちました。おおよそ常願寺西岸区域は、南北五、六里。
東西二里ばかりの間一面の泥世界となり、田地は加賀藩
領およそ二万石(富山藩はわかりません)が全滅しまし
た。」
 と惨状を訴えている。また、島組裁許十村岩城七兵衛
の注進書からは、臨場感が漂ってくる。
「常願寺川西の方
島組注進書
 本日二十六日ひつじの上刻(午後二時頃)常願寺川が
突然大洪水をおこし、私が当分裁許(臨時支配)を仰せ
つかっています島組の中川口という川除け堤防修理個所
を打ち破って、入り川となり、朝日新村・河原新村・大
中島・川原毛・島・西芦原新・貫田・古川・日俣・本郷
島・向新庄・一本木・手屋・宮成新・中野新・宮成・高
島新・金泉寺・町新庄・新庄町・東長江・西長江・双代・
綾田・田中蓑輪・上冨居・上赤江・下赤江・粟島・粟田・
広田中島・城川原・下冨居・広田上野新、以上の村々の
御田地を押し流し大変な泥で埋めてしまいました。入り
川の流末は両手に分かれ、一方は町袋の上で常願寺川に
流れ落ち、一方は神通川へ押し出し、御田地は申し上げ
るまでもなく、人家の流出、あるいは泥入りなど大変な
ことになりました。
 おいおい、お届け申して来ましたので、私は早速罷り
出て防ぐ手だてを講じております。
 なお、おって御田地の変損箇所、川除け工事の流出箇
所および流出家屋など詳細にとりしらべ報告申し上げま
す。行方不明の人馬も多数ございますので、なおさら調
査に全力を尽くしております。とりあえずこのことを急
報申しあげます。
午年四月二十七日 岩城七兵衛
御改作御奉行所(あて)」
 続けて次の注進書では、
 「昨二十六日、常願寺川が大洪水をおこし、流域の村々、
田地一面、大変な泥に埋まりました。島組・広田組の村々
の御田地を過半養っていました、広田・針原用水口から
町新庄村下手までの長い間、泥・石・砂などがどっと入
り、平地同様に埋まり、用水路は全潰になってしまいま
した。
一、島組の村々のうち、御田地を養っていました島用水
なども、前条同様、石・砂・泥に埋まってしまいま
した。
一、広田・針原用水の水かかりの村々は、苗の植えつけ
が終わりましたが、水不足になりましたので、水取
入方として島組・広田組の村々から人足や裁許・肝
煎など村役人合計六〇人余りを用水口へ派遣しまし
た。そのうち五、六人は帰って来ましたが、五〇人
ばかりは、どちらへいってしまったのか、行方が知
れませんので、厳重捜査を申し渡してきました。
一、島組・広田組のうちを養って来ました下条用水が大
破損し、入り川跡となってしまい、用水の取り入れ
方ができなくなったということを届け出てきました
ので、なおのこと取り入れ方を吟味いたしておりま
す。以上のように用水口など大破損したむね、用水
世話役などから届けてきましたので、早速、出かけ
てゆき、それぞれ実地に見分いたしましたところ、
前条までの申し上げたとおり相違ございませんの
で、なおさら水の取り入れ方について全力尽くして
善処いたしております。
右、急報として申し上げます。 以上
午年四月二十七日 岩城七兵衛
大村平兵衛
御改作御奉行所(あて)」
(『越中安政大地震見聞録』KNB興産発行)
 島組裁許岩城七兵衛の郡役所への報告書にあるよう
に、春の農耕期を迎え、用水の枯渇しているのに驚いた
下流の村では、用水取り入れのため、荒川の取入口であ
る大場前(富山市大場)へ村役人や工事の作業員を出張
させ、三月十日の洪水によって破壊された導水路の補修
にあたっていた。午後二時すぎ、突如おそった見上げる
ような大土石流の瀬先に一瞬のうちに呑み込まれ、広
田・針原の関係者の内、六四名の人々が犠牲になるとい
う悲しい事実を今に伝える石碑が広田用水公園(新庄新
町地内)の中に建っている。
○ 広田用水関係・遭難者氏名
東岩瀬町 牧野四郎平 牧野孫三
森田安右衛門
大村 曽根善太郎 山本勘右衛門
吉田吉二郎 内山清四郎
上吉佐次平 高見圓三郎
上野村 富田鉄次郎 富田猪次郎
千原崎村 広田甚右衛門 広田庄次郎
越田竹次郎
下冨居村 内山孫左衛門 黒田四郎右衛門
能登部平八
田畑村 岸岡紋次郎
中冨居村 田添太助 金尾松次郎
新屋村 西野四右衛門 力田伊左衛門
吉田宇之助
赤江村 山地三右衛門 石田亀次郎
高島村 杉野庄五郎
○遭難碑銘文
人生天地之間載天寄地以寧苟遇天災地変即失民所
其寧矣于時安政五戊午年二月二十五日地大震鳶嶽
為之崩壊壅塞常願寺川而水不流旬余日是以川傍之
村民大驚愕焉同四月二十六日山嶽鳴動如雷濁流漲
天俄然来勤広田針原分水役者無所避水患溺没者数
十名矣今茲丁三十三回忌年親戚旧友相集共計詩石
為令往昔地変事実知後世噫吁不悲傷哉
明治廿三年 四月日
二 被害の状況と災害復旧
洪水の被害と山崩れ
 この安政の大洪水がもらした災害に
ついては多くの古記録が残されてお
り、その被害について記述の内容もさまざまであるが、
ここでは近郷の「上新川郡藤ノ木尋常小学校報告」
(「越中史料」巻三)から当時の被害の様子を見てみることにする。
壱 変地村数
一、二十八か村 太田組
一、五十二か村 島組 他に一か所、新庄新町
一、 一か村 広田組
一、四十三か村 高野組
一、二十二か村 上条村 他に一か村、浦田水橋
〆、百四十六か村 他に二か所、無高所
計、百四十八か村
弐 変地高数
一、太田組 一万二百十七石六斗
内訳 九千六百六十七石 古田
五百五十石六斗 新開田
一、島組 一万三百二十一石六斗四升九合
内訳 九千三十九石三斗九升六合 古田
千二百八十二石二斗五升三合
新開田
一、広田組 二十二石七斗
内訳 十三石 古田
九石七斗 新開田
一、高野組 四千百六十六石 五升
内訳 三千五百四石五升 古田
六百六十二石 新開田
一、上条組 千七十石二斗
内訳 七百八十七石一斗 古田
二百八十三石一斗 新開田
〆、二万五千七百九十八石一斗九升九合
内訳 二万三千 十石五斗四升六合 古田
二千七百八十七石六斗五升三合
新開田
参 流失家屋並びに潰れ家及び泥入り入家
一、太田組 五百八十五軒
一、島組 七百七十七軒
一、高野組 百九十二軒
内、九軒は岩峅寺坊
一、上条組 四十九軒
内、七件は西水橋、三軒は同所、取り壊し家
合計、千六百三十三軒
四 溺死人並びに介抱中死亡人
一、太田組 五十人
一、島組 七十人
内訳、即死者・六十三人 介抱中死亡・七人
一、広田組 十五人
一、高野組 五人
〆、百四十人
即死者・百三十三人 介抱中死亡者・七人
五 溺死馬
一、太田組 八頭
一、高野組 一頭
〆、九頭
六 流失土蔵・納屋
一、太田組 蔵・三棟 納屋・七百十棟
計、七百十三棟
一、島 組 蔵・四十八棟 納屋・四十八棟
計、九十五棟
一、高野組 蔵・七棟 納屋・七十一棟
計、七十八棟
七 四歳以上の救難ご恤人数(加賀藩が救助の対象と
し、二年間にわたって一日米三合と味噌・醬油を
支給したと言われている)
一、太田組 三千百八十四人
一、島組 四千百六十九人
一、高野組 千四百人
一、上条組 百九十二人
〆、八千九百四十五人
 この大災害の原因で、のち、「とんべ崩れ」の呼び名で
恐れられてきた山崩れは、日本三大崩壊の一つにあげら
れるほど大きなものだった。
 専門家の調査によると、安政五年の地震によって崩れ
落ちた土石の推定量は四億一〇〇〇万立方メートルとい
われ、うち半分の二億立方メートルが今日までに下流に
押し流され、残る二億一〇〇〇万立方メートル余の下流
防止のため大正十五年(一九二六)から現在まで毎年巨
額の工事費がつぎこまれ、いつ果てるともしれぬ砂防工
事が続けられている。
 平成二年(一九九〇)、七九三年目に突然、再噴火を始
め、今なお終息の気配をみせず活動を続け、悲惨な災害
を繰り返している雲仙普賢岳の最近(平成五年五月)ま
での溶岩の噴出量は一億三〇〇〇万立方メートルと推定
されている。
 たとえば、この噴出した量の溶岩を東京ドームを升に
して換算すると約一三一杯の分量に相当することにな
る。これに比べ、四億一〇〇〇万立方メートルという「と
んべ崩れ」の物凄さを想像することができる。
災害復旧
 事態を重視した加賀藩では、改作奉
行所の出先を新庄町に設け、被害耕地
二万五〇〇〇石高におよぶ荒廃地、泥や石に埋まった用
水、家屋・家財をはじめ農具まで流され、茫然自失の農
民に対して当座しのぎの仮家として、被害地十五か所に
仮小屋九八を作り、被害者を収容するとともに、一日に
米三合を支給するなどして再起への意欲をおこさせるこ
とこそ、藩にとって重要な急務であった。
 また起返し(復旧整備事業)については、起返方主付
のもとに、農地の回復を図った。被災による変地草高(災
害以前の総収穫高)二万五四〇六石のうち、屋敷などの
高一三四二石、村高のうち被変地高が三歩以下の一九二
石を除いた二万二八六〇石を対象に表3のような救助を
おこなった。
 災害を受けてから六年後の文久三年(一八六三)起返
しの様子を四段階に分けて、今後の対策を示したことで
一応のけじめをつけ、新庄出張所は閉じられた(『富山市史』)。
 『常西合口用水誌』は、「この安政の一大氾濫は遂に常
願寺川の川底を著しく高くしたばかりでなく、常願寺川
上流、水源地帯に大崩壊の素因をつくってしまい、限り
ない山肌の崩壊をつづけ、洪水・氾濫の頻度を増加させ、
沿岸の耕地を襲った。明治二十四年(一八九一)九月十
九日の大洪水をはじめ、前後数回の氾濫は、農民、粒々
辛苦の結果を流し去り、農民は塗炭のくるしみにあえい
でいた。常願寺川の堤防も過半破壊し去られ、荒廃の跡
は名状もできない有り様となった。」と記している。
広田地区の被害状況
 先に載せた郡役所への報告書にもあ
るように、上冨居・上赤江・下赤江村
など荒川・赤江川の流れ沿いの村々に被害が集中した。
 当時、上冨居村組頭役であった石瀬家に伝わる『旧続
由緒簿』から周辺の被害状況を想像することができる。
(原文のまま)
「安政五年午二月二十五日、大地震、立山・湯川、字・
鳶山、崩壊し湯川ならびに真川に水溜まりに相成り、新
川郡民は打ち驚き、金沢の中納言様よりお手配、新川御
郡所よりそれぞれお手配、人足を差し向け候えども、予
防出来申さず四月二十六日早朝、常願寺川へ大洪水と相
成り申す義にご座候。
 常願寺川辺は残らず大変泥入りに相成り、田地は半流。
元の家より百七十間ばかり屋敷替え家を建てた・・後略」
 また、『上新川郡藤ノ木小学校報告』は被害状況を次の
ように伝えている。
「常願寺川は、安政五年まで河床はいつも低く、当村の
大字大中島前の堤の上から水面まで約三間(五・四メー
トル)あり、左岸の堤防は大場(富山市大場)の八間口
から下は、町袋村の境まで二里半(一〇キロメートル)
の間に荒川口のすぐ下に、字七十間丁場と称する一つの
堤があるのみで、かつて寛政のころ、鍬崎山がくずれて
洪水になった後、特に記録するような水害はなかった。
そのため一年中、川の水は澄みおおくの魚類が棲み、朝
日前(富山市朝日)丁場の川中に父子島という島があっ
表3 安政五年洪水被害に対する加賀藩の救済策(『常願寺川沿革誌』より)
石高
変地の状態
歩数
一石高に対する
換算歩数
一〇〇歩当たり
復旧必要人数
復旧工事に必要な
総人員数
三、〇〇〇石
石及び砂混入
七二〇、〇〇〇歩
二四〇歩
四〇人
二八八、〇〇〇人
四、〇〇〇
石及び砂混入
九六〇、〇〇〇
二四〇
二〇
二八八、〇〇〇
七、〇〇〇
石及び泥土混入
一、六八〇、〇〇〇
二四〇
一五
二五二、〇〇〇
八、八六〇
石及び泥土混入
二、一二六、〇〇〇
二四〇

一〇六、三〇〇
計二二、八六〇
計五、四八六、〇〇〇
計九三四、三〇〇
※ 総費用、銀一六四一貫目余り(約六一五四キログラム)。一人に付き一匁八分宛、銀六〇匁を金一両と換算し、二万七三五〇両の巨額になる。
て、松の木が二、三〇本、生え茂り、どんな出水の時に
も島のうえを浸すことはなかった。
 川幅は約一〇〇間(一八〇メートル)くらいあり、現
在より東の方に流れ、向新庄村からは三つの辻を経て常
願寺川に着き、堤のうえの松林ではたくさんの種類のき
のこ類を採ったという。
 安政五年二月二十五日の大地震によって大鳶山がくず
れ、真川をふさぎ、湯川・称名・亀谷川の流水が減少し
たため、流域の人々は不安を抱き、水源地の調査をおこ
なったが、山の状況が悪く十分におもうような調査がで
きなかったが、杣人・狩人などから上流の状況がつぎつ
ぎに伝わるにつけ、人々の心を動揺させた。そのような
不安がつづく中、三月三、四日ころから山が鳴り、大地
が響き、誰いうともなく大水が来るとの噂がひろまった。
果たせるかな三月十日午刻(正午ごろ)第一回の土石流
が発生し、利田前(立山町利田)堤防を打ち破った。
 第二回の四月二十六日の洪水は、上滝から富山下まで
大被害をあたえた。しかし、当村のうち大字、高島新川
原・新大中島・新庄野・金代町・新藤木・藤木新の八か
村はこの洪水のため原野おおいに開けた。
 しかし、日俣・中間島・大江干・川原毛・貫田・西芦
原・新古川島・本郷島・向新庄などの村は地力がたいへ
ん劣った。手屋・五本榎・宮成新・中野新・一本木の五
か村は、この洪水による利と害が半々であった。
ただ金泉寺だけはこの洪水に関係がなかった。(中略)藩
主は、水害民に対し、田の所有割合により二年間、米・
味噌・塩を支給し、また、耕し返し料を賜った。この耕
し返しの検査役は、向新庄村孫三、町袋村市左衛門、朝
日村間兵衛の三名であった。」
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1531
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 広田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒