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項目 内容
ID J3100245
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・能登・加賀・越前〕
書名 〔富山市史 通史(上巻)〕富山市史編さん委員会編S62・1・10 富山市発行
本文
[未校訂]二 安政大泥水
概略
安政五年(一八五八)二月二十六日(現
四月九日)暁八ツ時(午前二時)、跡津
川の有峰活断層において、富山で震度六、推定規模マグ
ニチュード六・八の大地震が起きた。この地震は、周の
被害をみても、その大きさが推測される。
八尾 皆潰れ家一一軒、半潰れ家一〇六軒、蔵
二七〇棟の壁落ち。
四方 塩蔵破損、漁網一二統流失、船六隻大破。
高岡 大地裂けて、水吹き出す。
金沢 武家町の土塀倒れる。
粟崎 民家六〇軒被害。
大聖寺 民家一〇〇軒被害、土蔵五〇棟倒壊。
丸岡 民家二〇〇軒、土蔵七〇棟被害。
 立山山中の大黒煙は、富山町からも見えた。深夜の地
震のなか人々は争って戸外へ出た。道は裂け、割れ目か
ら水が吹き出し、神通川はにわかに干しあがり、歩いて
渡ることができた。
 富山城では、[黒鉄|くろがね]門の石垣が崩れ、二ノ丸二階御門の
土塀出狭間がふるい落とされた。土手の松・杉の木は堀
の中へ倒れ、三ノ丸辺りの大地が裂けて高低の差が一〇
~一六センチメートルになった。下野村三〇軒のうち、
無事だったのは二軒だけで、十村岡崎徳兵衛家も半潰れ
になった。飛驒往来は、山崩れで途絶えた。
 この地震により、常願寺川奥山で大鳶・小鳶山が崩れ
て、湯川谷・真川谷を埋め、水がせき止められたため、
富山藩では、泥水の襲来必至と、二月二十八日呉羽山方
面へ避難を命じ、藩主利聲自ら仮住居をした。
 岩峅寺村の仁右衛門ら八名の者が様子を見に奥山へ登
り、下山して報告したところによれば、湯川筋では温泉
場が崩れ、三〇人の人夫が岩石の下になっている。また
湯小屋と思われる所に一〇〇間四方のたまり水ができた
が、水の入り口がないから押し出す心配はない。真川筋
では、鬼が城など五~六か所崩れ、少しずつ水がたまっ
ているが、奥谷には溜り水は見えず、泥抜けすることは
ないだろうというものであった。
 三月十日[午|うま]の刻(正午)に至り、[粥|かゆ]のような泥水(山
津波)が押し寄せて、川面が岩峅寺の村と同じ高さにま
で上がった。泥水の瀬先は初め馬瀬口の堤防に打ち寄せ
て、五尺ほどを埋め、それからまもなく右岸へ向かい、
三塚村へ切り込んで利田村で二つに分かれた。一つは本
川へ入ったが、一つは粟原村へ流れ入って四軒を押し流
し、ここでまた二つに分かれ、一つは二杉村で本川へ入
り、一つは新堀村で白岩川へ流れ入った。流失家二〇軒、
泥入破損家二〇〇軒にのぼり、水橋の海は流木で埋まっ
た。
 それから一か月半後の四月二十六日未の上刻(午後二
時)、突如大鉄砲水が常願寺川下流一帯を襲った。三月出
水の時より泥は薄いが、水量は二メートルも高かった。
三月の時は東側に入ったが、この時は西側に大被害をも
たらした。瀬先は、四方面へ分かれた。一つは、三室荒
屋から太田本江(郷)へ向かって清水村で[鼬|いたち]川へ落ち入り、富
山城下の橋をことごとく押し流した。一つは、大場前の
普請場辺りを押し切り、西ノ番・大場村から天正寺・東
長江・柳町・稲荷町・綾田へ向かい、奥田村で神通川へ
入った。一つは中川口普請場の大島・中島・小島辺りを
破って、金代村から上冨居・鍋田・粟島村へ向かい、中
島村で神通川へ入った。一つは朝日村普請場の上を破っ
て、朝日村・藤木村から中間島・新庄・一本木村へ向か
い、手屋村で再び本川へ入った。このため、常願寺川西
岸は、南北五~六里、東西二里ばかりの間が一面の泥沼
となり、広田針原用水を始め各用水はほとんど泥に埋ま
った。右岸もまた入川し、白岩川に達した。
 この時の被害は、加賀藩領で一三八か村二万五八〇〇
石、流失・潰家・泥入家一六一二軒、流失土蔵・納屋八
八六棟、死者一四〇人、被災者八九四五人。富山藩領で
一八か村七三八〇石、城下の町で五八軒流失、四方浦で
は打ち返された高波にのまれて四人が死亡した(第15表
は資料の出所によって違いがある。)
 この大鳶山崩壊による流失土砂量は、四億立方メート
ルといわれ、常願寺川を日本一の荒廃河川にした。その
後、明治二十四年の大改修、同三十六年の合口用水化を
経て、今日なお、残存土砂二億立方メートルのため、立
山砂防工事は休むことなく続けられている。(以上、KN
B興産刊『越中安政大地震見聞録・立山大鳶震崩れの記』
による。)
(注、図は「県史」のものと同じ、省略)
西水橋の被害
海岸に面した西水橋の惨状とその対策
を、富山県立図書館蔵杉木文書「安政
第15表 大泥水の被害
(3月10日、4月26日あわせて)
○加賀藩領内

太田

高野
上条
広田

泥・石・
砂入村
28
44
42
22
3
139
流失潰家

305
276
12
49
642
泥込家

280
501
150
1
932
溺死不明人
54
82
6
19
161
変地高

10,217.6
10,113.649
4,177.1
1,049.79
28.2
25,586.339
○富山藩領の内町家(総軒数 838軒・総人数 4,031人)
町名
向河原町
先上り立町
柳町
下金屋町
稲荷町
東田町
東散地町
上室屋町
寺内町
北新町
西中間町
堤町

床下浸水


64

93
28
68
19
91

191
554

300
415
117
322
89
450
955
2,648
床上浸水

63
146
4
20
2
4
239

286
692
18
110
18
19
1,143
潰家

35
流失(10)
35
流失(10)

192
(48)
192
(48)
○水付き村々並びに高数
水付村
荒屋
上馬瀬口
下馬瀬口
善名大場}
下番
月岡新
上千俵
中屋
高数

287.5
178.5
172.4
387
282
200
50
170
合計
水付村

本江
本江下新
大泉
公文名
清水
稲荷
東田地方
高数

50
400
65
470
200
800
777
151.5
水付村
綾田
双代

上奥井
上赤江
上奥井新
奥田
下奥井新
高数

45
21
482.5
116.7
30
46.7
768.5
53
水付村
下奥井
下赤江
西川原
奥田下新
奥田上新
下桑原
中嶋
西田
高数

85.4
39
84.2
500
47
51
70.3
89.5
33か村 7,170.7石
大場家蔵文書「常願寺川流失被害之留」より
五年西水橋泥洪水ニテ岸崩人家流失一件」により、日記
風に記す。
四月二十六日、泥洪水。
同 二十八日、水橋町蔵米八石を、急難御救米として
放出。人家残らず流れて元の地は海になった。どこへ家
を建てたらよいか調べる。
同 二十九日、溺死者が多いので、いちいち奉行所へ
届けなくてもよいと言われる。
四月、肝煎からの損害報告。
流失家 三九軒 一四三人
半流失家 七軒 三三人
泥付き家 三軒 五人
 これに対して総高一日分三合の三〇日分、八石一斗四
升五合の飯米を願う。
 五月、流失家一軒につき二〇〇匁、半流失家一軒につ
き一五〇匁の計八貫八五〇匁を、辻ケ堂村への移転家建
費として願う。
 五月、先の四六軒のほかに、波をかぶって居住し難い
家三軒、印田町西側の岸崩れで居住し難い家二八軒へ、
転地料として二〇〇匁ずつを、三五年賦返上で願う。
 五月、救米一五七石七斗五合を、郡役所へ十村から願
う。
 六月六日、上条組救米願高二一石六斗の内十五石七斗
が渡される。
 七月二十五日、昼四ツ時から波が高くなり七か所が岸
崩れ、三軒を取り壊した。
 七月二十八日、印田町から願い出の転地取扱銀十五貫
四〇〇匁を、一五か年賦で算用場が承認した。
 八月八日、右の銀が十村へ渡された。
 同 十八日、流失家への貸米二九石七斗五升を一五か
年賦で、御勝手方年寄衆が許可した。
 八月、流失家の内、極難渋者を書き上げた。
家内三人、佐五右衛門、年十三歳稼ぐ者なし。
家内二人、権次郎後家さと、幼児と二人暮らし。
家内四人、太三郎、年六十歳足弱く稼ぎなし。
家内四人、八右衛門、年六十七歳足弱く稼ぎなし。
家内六人、権三郎、年七十歳家族は老幼病身者のみ。
 十月十三日、高波で、波除合掌竹馬一一七間が流失。
九〇間余りにわたって地面崩れ。高波によって壊された
家一四軒。波除普請願を出す。
 十二月二十八日、正月晦日までの救米、二二二石九斗
六升が渡された。
 二月二十四日、水橋川渡場の仮橋台築きのための入用
銀、五五二匁三分三厘が郡奉行から十村へ渡された。
 三月十二日、昨年五月の岸崩れ家転地料願高一五貫八
九〇匁のうち、その半高七貫九四五匁が、算用場から郡
役所へ下された。
同十五日、右の銀が、十村へ渡された。
同二十八日、あとの半高を下された。
安政六年洪水
安政六年(一八五九)五月十九日、ま
たもや大洪水が起こった。十八日から
雨が降り続き、十九日[卯|う]ノ刻(午前六時)ころ出水した。
日置村の下手で[氾|はん]濫し、上川原辺りで去年と同じく白岩
川へ入った。両川の間は一面の水で、隣家へも舟で往来
する状態になった。
 昨年に引き続き泥入変地になって難儀至極と、上条組
東長江村彦左衛門が、新川郡役所・改作所・検地奉行所
へ訴え出た(第16表参照)。彦左衛門は、組の諸用水が
ことごとく破損したので修繕してくれるように、まず改
作所へ頼み、一方この春に建てた家が流れ、起こし返し
た田地が再び変地になったと、出張所へ報告した。上条
組の被害は、溺死一人、流失家二軒、半流失家二二軒、
取り壊された家二軒、泥砂入六三軒、水付き家二九一
軒、土蔵納屋流失一二五棟、官一社と橋一つ流失。田畑
は、二六か村で古田一万一三四七石五斗、新開二二二石
一斗、合わせて一万一五六九石六斗が被害にあった
(富山県立図書館蔵 杉木文書「御注進一巻」)。
赤江川縁りの対策
赤江川縁りの上赤江村・双代村・稲荷
村・窪村では、安政五年の洪水で川除
土居が大きな損害を受けた。その修復は、年々の入川で
追いつかず、土居を築く暇もなく、ただ入砂を除くだけ
ではどうにもならぬと、検地奉行所へ再三申し入れた。
 文久二年(一八六二)に至って、「作所変じ難渋、当一
作は砂入を除き[藁|わら]・[莚|むしろ]を入れて自普請をするが、土居を
直さない限り、また変地になる。」と、強く申し入れた。
そして、双代村領赤江川縁り川除土居損じ普請に一六七
匁六分、稲荷村領普請図り銀二貫八〇四匁一分二厘、窪
村領一貫三二三匁一分、上赤江村領四二匁八分五厘を願
い出た。
起返方仕法
二万五〇〇〇石余りの高にあたる耕地
を一朝にして失ったばかりでなく、用
水の使用不可能、住む家をなくし、来(米カ)改作の農具を失っ
た農民に、当面の衣食住の手当てをし、再起の意欲を起
こさせることこそ、藩にとって緊急の要事であった。
 加賀藩では、改作奉行所の出張所を新庄に置き、起返
方主付のもとに、農民の再生と、農地の回復を図った。
田畑に入り込んだ土砂・石・材木を取り除き、用水を修
繕して田ごしらえをするには、大変な労力と資金が必要
であった。四か年に一二三三貫匁余りの銀を支出した。
 災害を受けてから六年後の文久三年(一八六三)起返
し(土地改良復旧整備事業)の様子を四段階に分けて、
今後の対策を示したことで一応の決着をつけ、新庄出張
所は閉じられた。起返しの完了した村でも、三歩以上の
変地村については、三か年季の減免を願った。例えば、
草高三一七石で定免三ツ九歩(年貢徴収率三割九分)の
天正寺村は、一ツ三歩の引免(減税)を願った。
○起返し出来村
天正寺・町新・石金・中市・高屋敷・柿木荒屋・
秋吉・横内・新名・城・西番・東長江・西長江・
上赤江・下赤江・粟島・城川原・手屋・町新庄・
河原新・高嶋新・新町・松木・牧・中地山・下山
和田・小見・本宮・才覚地・浅生・石田新・稲荷・
上国重・下国重・竹内・小島・入江・舟橋・塚越・
石田・曽我・千垣
○起返料銀喰切村
山室町村・上冨居・宮成新・一本木・藤木・岡田・
利田・清水堂
(この村々は、深砂置き・高石原などが多くて急にでき
ないので、当分これまでどおり喰切村にしておき、年々
取返し高に応じて料銀を渡す。)
○起返し出来村へ進める村
荒川・古寺・経堂・中川原・西野新・双代・綾田・
粟田粟嶋入会・川端・金代・大中嶋・朝日・川原
毛・嶋・大江干・中間嶋・藤木新・新庄野・新吉
嶋・上川原・曲淵平塚村入会
万延元年までの変地高
変地高合計

10,746.443
12,737.439
336.229
4,379.256
2,398.697
30,598.064
安政5年よ
り起返同6
年植付高

6,019.575
5,774.531
1,729.974
938.717
安政6年よ
り起返万延
元年植付高

495.84
1,012.332
331.04
764.762
1,069.409
起返高合計

6,515.415
6,786.863
331.04
2,494.736
2,008.126
18,136.18
変地残高

4,231.028
5,950.576
5.189
1,884.52
390.571
12,461.884
杉木文書「文久三年常願寺川筋変地高等書上帳」より
○是迄通り起返し取扱村
荒川村内・経堂村内・流杉・大場・田中蓑浦・下
赤江村内・中野新・向新庄・本江嶋・日俣・下鉾
木・竹田村内・橋場新・西芦原
(この村々は、入川跡で深堀りし、石砂置きになって、
今なお水中の所もあり、難工事の村である)
(以上、杉木文書「安政五年常願寺川大泥洪水ニテ溺死
人馬村落一四八ヶ村田地弐万石余大泥置一件」によ
る。)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1524
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 富山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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