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項目 内容
ID J3100226
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1857/10/12
和暦 安政四年八月二十五日
綱文 安政四年八月二十五日(一八五七・一〇・一二)〔宇和島〕
書名 〔愛媛県史 近世下〕愛媛県史編さん委員会編S62・2・28 愛媛県発行
本文
[未校訂]安政四年の大地震
安政四年八月二五日、『松山叢談』の「池内家
記」に「辰下刻松山大地震」、また『塩屋記録』
には「昼四ッ時、前々通り大地震」、大洲でも『加藤家年譜』
に「御在所大地震」、南予では『宇和郡上松葉村諸差紙類控』
に「当地大地震」とある。『小松藩会所日記』には、「四時
前地鳴、頗ル大震……去ル寅歳地震ニ差シ続ク、右ニ比ス
レハ短シ」と記している。これらの資料から、この地震は
八月二五日午前九時頃、伊予全域を襲った大地震であるこ
とがわかる。地震の強さは、前回の嘉永七年一一月五日、
同七日のものにほぼ近いものであったが、継続時間が短か
った。これが被害をやや軽くした原因であろう。余震も小
松の場合表五―90で示しているように、八月二九日以降に
はみられない。
 『松山叢談』によると、この地震のために、家中からの差
上米を一〇〇石に五俵の割合で軽減したとあるので、松山
城下での被害も大きいものであった。伊予郡西高柳村では
『大西家永代日記覚』によると、「大地震、こけ家大分有り、
ねりへ多くこけ、土手筋大分はれ、田地所々いたみ」とあ
るので、家屋・堤防等の被害のあったことがわかる。『塩屋
記録』によると、郡中灘町・湊町・三島町付近では、家屋・
門塀の倒壊によって数人の死傷者もあった。『安政四年、和
気郡姫原村巳歳諸御用日記』に「去ル廿五日大地震ニ付、
表5-90小松藩会所日記の地震記録(安政4年)

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地震
地鳴・すこぶる大地震(午前9時)
〃・小震(午前11時30分頃)
この間微震
少々強震(午後4時頃)
微震(夜)
地鳴・小震(昼頃)
〃・〃(午後4時頃)
小震(夜中おりおり)
地鳴・小震(午後2時頃)
地震(午後3時頃)
記載事項
○去る寅歳(嘉永7年)地震に次く強さであっ
たが継続は短時間
○御館内外の被害は、瓦落ち、塀破損、壁割れ
程度である。
○広江村庄屋、地震の被害を会所へ報告
沖手堤のうち北条新田関係分2カ所落込み
○新居浜4か村役人会所に出頭し被害状況報告
○今治・松山辺一昨日の地震当辺より大分強く
人家潰等もあり、外住居(小屋掛け)で用心
している旨を聞く。
○当郡村々(広江村は昨日)会所に被害状況を
報告する。人家の破損、怪我人なし。
痛所ノ有無御尋ニ仰聞レ承知仕候、少々ノ痛御座候得ト
モ、御達シ申上候程ノ御痛御座無ナク候」と、大庄屋に報
告している。城下町松山、伊予郡方面に比較して、和気郡
内では被害が軽かったのではなかろうか。後にこの地震は
安政四年の「伊予・安芸地震」と呼ばれている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1509
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛媛
市区町村 松山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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