Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3100151
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及関東一円〕
書名 〔増補改訂大洲市誌〕○愛媛県大洲市H8・3 大洲市誌編纂会編・発行
本文
[未校訂] 江戸大地震 一八五五年(安政二)一〇月二日午後一
〇時江戸は大地震に襲われたが、同時に大火となりひど
い惨害であった。『力石平吉手記』には次のように記され
ている。
安政二年十月二日夜四ツ過頃、江戸前代未聞之大地震ニ
而、家屋大損人畜死傷如山、殊ニ浅草遊郭吉原より出火、
其外四方出火、地震と失火にて死亡甚敷(はなはだしく)、三十六ケ所も
焼失し、本所辺ハ土地裂ケ実ニ惨状憐(あわれ)成る事にて、諸方
声立、是が現生の地獄かと存候、回向院へ大七(ママ)車にて死
亡人積参り、埋葬一所に致し、今に其印残り居る。
 丸の内からも出火し西の丸が焼失したほか、市中大名
屋敷二八、旗本屋敷五五〇も類焼し、市中の即死人一万
二、三八〇人と伝えられた。大洲藩邸の被害は上屋敷の
在府長屋一棟、中屋敷の同一棟、下屋敷の同二棟が倒壊
し、死者五人、邸内の破損はひどかった。新谷藩邸では
屋敷も長屋もすべて倒壊、死者一三人という大被害であ
った。その造営のため、新谷藩は領内より寸志銀を受納
した。一人銀一〇〇目から二貫目までの間で、今坊村か
らは三一人銀札一三貫目四〇〇目、出海村からは一六人
九貫九五〇目であった(『加藤家年譜』・『力石平吉日
記』・『大地震荒増記』・『久保家文書』・『出海村庄屋文
書』)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1488
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛媛
市区町村 大洲【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.002秒