[未校訂] 江戸大地震 一八五五年(安政二)一〇月二日午後一
〇時江戸は大地震に襲われたが、同時に大火となりひど
い惨害であった。『力石平吉手記』には次のように記され
ている。
安政二年十月二日夜四ツ過頃、江戸前代未聞之大地震ニ
而、家屋大損人畜死傷如山、殊ニ浅草遊郭吉原より出火、
其外四方出火、地震と失火にて死亡甚敷(はなはだしく)、三十六ケ所も
焼失し、本所辺ハ土地裂ケ実ニ惨状憐(あわれ)成る事にて、諸方
声立、是が現生の地獄かと存候、回向院へ大七(ママ)車にて死
亡人積参り、埋葬一所に致し、今に其印残り居る。
丸の内からも出火し西の丸が焼失したほか、市中大名
屋敷二八、旗本屋敷五五〇も類焼し、市中の即死人一万
二、三八〇人と伝えられた。大洲藩邸の被害は上屋敷の
在府長屋一棟、中屋敷の同一棟、下屋敷の同二棟が倒壊
し、死者五人、邸内の破損はひどかった。新谷藩邸では
屋敷も長屋もすべて倒壊、死者一三人という大被害であ
った。その造営のため、新谷藩は領内より寸志銀を受納
した。一人銀一〇〇目から二貫目までの間で、今坊村か
らは三一人銀札一三貫目四〇〇目、出海村からは一六人
九貫九五〇目であった(『加藤家年譜』・『力石平吉日
記』・『大地震荒増記』・『久保家文書』・『出海村庄屋文
書』)。