[未校訂]安政大地震と市域の村々
為政者たちの政争が激しかった安政年
間には、災害も多く発生し、市域とそ
の周辺に大きな被害をもたらした。
安政元年(一八五四)一一月四日、東海地方などに大
地震が起こり、翌五日にも伊勢湾から九州南部にかけて
の広い範囲で地震が起こった。これにより東海道交通が
しばらく途絶した。市域周辺では、少々の揺れを感じた
程度で被害はほとんどなかった。野里村の名主は、この
地震の東海道一帯における被災状況の記録を入手した
(市史資料)。その末尾には「浦賀よりの廻文を写す」と
あり、公式の触書・廻文を写し取りながら、東海地方の
被害に比べ、近隣での被害がなかったことに胸をなでお
ろしたことであろう。
しかし、翌二年一〇月二日、江戸にマグニチュード六・
三と推定される直下型地震が発生し、市域でも大きな被
害がでた(安政大地震)。直撃をうけた江戸市中の被害は
大きく、地震とその後の火災により、本所・深川・築地・
浅草などを中心に死者七〇〇〇人以上、重傷者二〇〇〇
人以上、倒壊家屋一万四〇〇〇戸以上にのぼった。市域
では、谷中村の農民が大地震とその被害の様子を次のよ
うに書き記している(町史Ⅱ)。
十月二日、朝より雨が少々降り夕方に止む。夜四ツ時(夜
の一〇時頃)、西南の方より震動致し、大地震。「あわや」
と言う間もなく、戸・[障子|しょうじ]・[襖|ふすま]を押し倒し、家が潰れる
ほどの有様のため、皆々が庭へ飛び出した。「火の元大切」
「小児を助けたまえ」「父母・老人を出したまえ」と口々
に泣き叫ぶ声。戸・障子・[鴨居|かもい]が倒れる音、土蔵がくず
れて壁が落ちる音、草木はふるえ、地鳴り物音がすごく、
[肝|きも]も心も消え入ってしまうほどの有様である。程なく地
震はしずまったが、また震動があるかもしれないと、老
若男女が右横左横に駈け走る。江戸は大火で炎が空に[聳|そび]
え立っている。東西南北の近村の人が言うには、(地震が)
大変なことは信州などの(大地震の)話に聞いたことが
あるが、この国(上総国)では、老人の話にも聞いたこ
とがないと。其の夜は、人びとは竹藪に入り、あるいは
庭に[筵|むしろ]を敷いて[階子|はしご]を渡し、あるいは家の[門口|かどぐち]に寄りあ
がって、夜が明けるのを今や遅しと待った。大半の家は
ゆがみかたむき、土蔵の壁は割れて倒れ、所によっては
[潰|つぶ]れたものも多くある。地震で地が割れ、泥が吹き出す
など人の話に聞いたことはあったがありえないことと思
っていた。しかし、近郷の所々で黒砂が吹き出し、水が
流れた。ある所では、深さ四、五尺(約一二一~一五二
センチメートル)、幅一尺余(約三〇センチメートル)、
長さ十四、五間(約二五~二七メートル)ぐらいのくぼ地
になった場所を見た。万石村(現・木更津市)などでは、
畑にくぼ地ができ、田には盛り上がりができた所がある
ということだ。
家屋や土蔵の被害をはじめ、人々の恐れおののく様子、
屋外で眠らずに夜明けを待つ様子などが記されている。
また地割れや液状化現象の記述も興味深いものがある。
このほか、坂戸市場村では家屋が残らず倒壊し、坂戸神
社の石灯籠も倒れたと記録されている(佐久間純一家文
書)。また、下宮田村では用水路の溝がくずれて、その後
の修復に苦慮している(市史資料)。市域に近い曽根村
(現・木更津市)では釈迦堂と釣鐘堂が倒壊した(市史
資料)。川原井村でも田畑や家財に被害が大きく、復興を
めざして同年一一月に来年七月までの諸事倹約を村内一
同で申し合わせ、議定書を作成した(『平川町史』)。市域
全体の被災状況は不詳であるが、家屋・土蔵や田畑・用
水路などの農業基盤に大きな被害が出たものと思われ
る。
村々では、領主に対して、復興のために先納金の早期
返済などを願い出た。しかし、多くの旗本も従来からの
財政難に加えて、地震のために屋敷などに大なり小なり
の被害をうけており、とても村々を救済するどころでは
なかった。逆に被災した屋敷の復旧のために御用金の上
納などを命じる領主も多かった。
安政三年正月付で、元留守居与力給知の年番役、重野
十三郎から、地方取立役の佐久間信次郎(十日市場村在
住)と与力給知の神納・坂戸市場・代宿・高谷など一一
か村の村役人あてに、下知書が出された(町史Ⅱ)。そこ
には、「大地震で七人の領主の住居が倒壊または大破して
出費がかさんでいる。他の旗本も知行所村々に御用金の
命令を出している。今回は[未曾有|みぞう]の天災であり、領主一
人について金二〇両ずつ、計一四〇両の御用金を命じる
ので、速やかに上納しなさい。返済には代宿村の松林を
村々で自由に伐採して売り払い、その代金をあて、不足
分は今年から一〇年間で毎年返済する」とあった。
旗本高尾氏は、市域の久保田村や貞元村(現・君津市)・
祇園村(現・木更津市)の三か村に知行地をもっていた。
大地震で屋敷や御殿・長屋などが破損したため、三か村
の村役人を呼び出して普請を命じた。しかし、村方でも、
寺社の建物や農民の家で破損・倒壊したところが多く、
高尾氏の御殿の修復費用さえも集められない状態であっ
た。そこで長屋の普請は延期とし、石垣や雨漏りのする
箇所はとりあえず請け負うことにした。そして、もやは
稲の植え付けの時期も近いので、本格的な普請は延期す
るように安政三年三月に願い出ている(『君津市史 史料
集Ⅱ』)。
震災直後の御用金上納は、村方も被災しているため、
領主の命令通りにはいかないことが多かった。神納村の
一部を知行する旗本大久保八五郎の屋敷の普請も遅れて
いた。大久保八五郎は、地震から一年以上経過した安政
四年六月と翌五年四月に神納村組頭の太郎右衛門に、普
請のために金を差し出したとして、褒美の紋付などを与
えている。旗本屋敷の復旧に一、二年を要したのである
(市史資料)。