[未校訂]「万歳記大学」にみる地震被害の実態
「万歳記大学」(近3―七一二)を記し
た長[井|い]村(北川町)の甲斐亦兵
衛は、安政元年(一八五四)十一月に発生した大地震と、
いったんはおさまるかにみえた地震・余震が翌年にかけ
ても相次いで発生していく状況を克明に書き記してい
る。それによると、十一月五日夕刻の大地震後も、その
日のうちに一三度におよぶ余震が続き、六日から七日に
かけても一六度にわたり揺れたという。五日の地震発生
後、津波が襲うとの情報を伝え聞いた村人たち三〇〇余
人は、大混乱のなか年寄りや子ども、牛馬を引き連れ松
明を灯しながら、津波を避けるため「氏神御山」に登り
一七日間立て籠った。その津波は「けなしがはまをうち
こし」たという。いっぽう、町・家中の者は津波を避け
るため[今山|いまやま]・[愛宕山|あたごやま]に登り、[大武町|おおたけまち]の者は[無鹿|むしか]山(いず
れも延岡市)に登った。さらに亦兵衛は飛脚のもたらし
た情報によって、[豊後|ぶんご]領の[千歳|せんさい]役所(大分県)あたりは
「いたみの儀かぎりなく」[臼杵|うすき](大分県)の城下は一円
「しらはまのごとく」なったと記し、四国・瀬戸内・大
坂などの被害にも言及している。また、近辺の村々では
川筋の水かさや谷々の水が増し、至る所から水が湧き、
地割りなどもみられた。その後、十二月に入っておさま
るかにみえた地震が再び活発化し、翌二年の四月までた
びたび発生したという。亦兵衛は今回の地震について、
「うんぜん山くずれ」(「島原大変」・「肥後迷惑」と呼ば
れた寛政四年(一七九二)島原城下町の背後にある眉山
の大噴火災害)から六一年、「七日七夜の地しん」(宝永
四年の地震)からは一五〇年に当たると記し、たび重な
る地震と余震に怯えながらも、動揺する人々の様子や混
乱する村々の状況を今日の我々に伝えてくれるのであ
る。