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項目 内容
ID J3001023
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔北川町史通史編〕○宮崎県北川町H16・9・30 北川町編・発行
本文
[未校訂]安政元年一一月五日からの大地震
一、一一月五日夕方申下刻に大地震がおこる。その夜
は一三度の地震がある。翌六日も、ゆれ続く。七日
も明け巳上刻に大地震、また未下刻に大地震、その
夜は明け六ッまで一六度揺れる。村々の庚申様まで
立っているものはない。また五日夕方四ッどきごろ、
津波がくるという声を聞く。その声は、川島村から
段々と声をあげて伝わり、差木野村から須佐門へ、
そして俵野へ伝わってきた。
 村中が大騒ぎになる。年寄り、子供、牛馬までひ
きつれて山道を登る人の声はおさまらず松明の明か
りは潮が打ち寄するごとくに見える。山の麓の騒ぎ
声、もはや津波がという声とともに山も崩るるよう
な音をきくなり若者たちがこれは大事と告げ知らせ
る。
本村中のものが、氏神の御山をめざして登る。山
の「いげ」も厭わずして、方々から集まるその人数
は三〇〇人余と見える。津波は「けなしがはま」を
打ち壊して、その潮道の高さ一丈ばかりで「まとの
く瀬」まであがる。
三〇〇人ばかりの人が氏神御山に一七日の間立て
籠ることになった。
城下町の人や家中士はこの地震で今山、愛宕山に
登る。
大武町中のものが無鹿山に馳せ集まる。道路や川
筋の痛みは言うに及ばない。
 八日は朝から夜まで五度、九日は五度、一〇日も
すこしの地震がある。豊後の千歳からの飛脚、同じ
く下の関からの飛脚が九日の夕方、長井村の庄屋元
に立ち寄る。その知らせによると千歳役所(延岡藩
の飛地で現在の大分市内)の被害は数知れず、臼杵
城下は一円白浜のようになり(中略)延岡城下の町・
在ともに被害が大きく、さらに一〇日、一一日にも
地震は止まず、北川の水は晴天の日よりも二尺も水
かさが増し、谷々の水は増して、小川の奥では水が
逆流するありさまで、川内名庄屋元あたりでは、川
底がほげ、又長井本村「けづがさこ」したは地面が
割れて水が湧き出る。「とびのふ」御神の前では地面
が幅三尺、長さ七〇間も揺れ割れ、道々、屋敷被害
の無いところないありさまである。
以後、毎日、毎夜二、三度づつの地震が続いた。
二五日には、大きな雷鳴と大地の揺れで川の水かさ
がまし、川いっぱいにあふれた(中略)。
 この地震は「雲仙山」崩れから六一年目にあたり、ま
た昔の七日七夜の地震から一五〇年目に当たるという。
人々の話を伝えきくと長井、川内名は一番軽くみえる。
 此年は年の暮れまで毎日二、三度ずつ揺れた。
 しかし、その翌年の麦作は出来がよく地震の恐ろしさ
も忘れて世は万作と唱えて、庭の周囲を鼻歌で回り、箒
をかついだ姿は、その足取りは、からくり人形の三番叟
にも似ている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 1131
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 宮崎
市区町村 北川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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