[未校訂](三災録)
(注、武者「日本地震史料」に掲載されている部分は除く)
(巻下)
14、地震考
凡地震ハ陽氣地中ニ閉篭ラレ、積欝仕候氣發出仕勢ヲ以
動揺仕候。六日暁ヨリ地氣昇發和解仕候。陰陽和合ノ模
様相見候ニ付、大震ハ決テ有間敷段考書ヲ以 少将様エ
言上仕候。六日以来ノ震ハ炮音ノ如ク憤鳴仕候。是ハ地
中ニ閉篭候陽氣憤發解散ノ音ニテ候得ハ、其勢ヲ以震動
仕候。四日五日ノ震トハ異候。其中ニハ強弱有之、又ハ
所發ノ遠近欝氣ノ大小モ有之事ニテ不一様候。尤六日以
来地響△(△震動多候ハ是前日ヨリ右ノ炮音如ノ響之一日三十度発候モ、或ハ一度脱イ)之一日二十度發シ九分残候氣集リ、一度ニ激發
仕候ニ付、其他(地イ)ノ響強相成候得共、發散ノ音ニテ恐候程
ノ儀ハ有間敷候。万一地中ニ邪氣残居候テ唯今ニテモ地
氣ヲ閉込昇騰之候時ニハ、又〻大震ニモ可及候得共、方
今天氣窮候処ニテハ次第平穏ニ相成、最早炮音ノ如キ者
モ三十日程ノ中ニハ止候哉ト奉存候。此上 御不審被為
遊候御儀御座候得ハ 御直ニ可奉言上候。
十一月 川谷虎次郎致直
百拜
15、倭霊地震論
安政元年仲冬、國中大地震家屋破壊尋て火災起り、吾第
舎も又悉煨燼、辟災流浪して親戚の厚情に據漸(て脱イ)一日を糊
す。或人曰、國君仁政を施し庶民撃壊の時也。何を以天
疑はす。予竊に按に、漢土陰陽は國家の大事、悉く此理
に倚らさる事なし。若天(夫イ)不知(和イ)なるは国政の不正なりとす。
然らは地震の起る所を究すは有へからす。抑吾国(神脱イ)曽て陰
陽を云はす。古事記の初文唯天地の初の時〻(とイ)有て、日本
紀首文古へ陰陽云云と出な(たイ)るを以て、御国人も皆陰陽の
理有とするは誤也。此辨本居氏詳に判られたり。今更云
に及はす。吾正傳を以考るに、天地と梠(相イ)對し稱れと天は
素り天地(神イ)の初生の地にて、高天原と申す。其余仰見て茫
然と量なき者は皆氣の合るにて、地は其中に包れたる一
物也。惣て地は神の生せ給ふにて、其初混〻たる大氣の
中へ海月浮雲の如く漂へるを二神天の浮橋より鉾を指下
して探り賜ひ、自疑島を得賜ふより二神此島に下り賜ひ、
国土を生せ賜ふ。是正文有。今煩ハしく云に及はす。殊
ニ四國は最初に生せ賜ふ。但、國を生と云事誰も怪しみ
意ふ事也。是は大古論に云へり、斯略す。偖外国も潮の
泡の凝て成る者なりと有故に、世界の外は擧天の氣にて
張結たる者なり。世界人間に顕れ見ゆる氣は唯雲霧海川
の類にて、人の朝夕接はれる氣は人は知らす、音のミ聞
ゆるは風なり。海川に住魚は水を知らさるか如し。人は
風氣を吸ては吐、魚は水氣を吸ては吐、生き得る所なり。
天地の間如此。是を名つけて、陰陽とも、乾坤とも、健
順とも何とも呼へし。並ニ天は知らぬ事也。高天原と(即天イ)申
にて其外は皆氣也。其氣地を包たれは地の下は皆海也。
俗説に、萬古の魚有て地を戴たりと云。童語に似たり(れイ)と、
是大古より傳へ来し成へし。偖其地は其中に周還漂流す
る者也。如此言へは、学者一箇の私説也と笑ひ譏るへけ
れと、漢国にも推歩測量して天の運行を論するに、今吾
説に似たる事あり。天文志曰、天は覆盆に似たり、中高
して(ク脱イ)四邊下る。日近し(フ脱イ)て見るを晝とし遠して見えさるを
夜とす。渾天説曰、天の象は鳥卵に似たり。地其中に居
て、天は地の外を包て猶卵の裏黄なる如し。天半地上を
覆ひ、半地下に在云〻。是漢の説也。日月運行昼夜の事
は大古論に在、斯に略す。天(夫イ)地震は大海を渡る舩の風波
に遭か如し。元来浮たる世界の地なれは、気候不順の時
無事能はす。現在諸人見る所の俗所謂時氣化カと唱ふ者、殿
閣を倒し大樹を抜、大舩を破損す。顕〻(てイ)發し其害を為す
者風雨の然らしむる事誰も知れり。故に異変を稱せす。
地震は陰蔵して發する故、興起の本を知らす。其地震は
世界の世氣漸〻閉て地下に娶(聚イ)り、山枯海乾て河川添(海カ)潮竭
て泉水乏し(く、イ)。海中細波頻〻、鳥翼を収て飛す、鴉風を呼
て鳴事繁し。地下に倚疊せる氣一度切レて發散動揺す。
其戴する所の地悉く震、(ふ。脱イ)水氣山野海岸に♠れ、浩(洪カ)水山に
昇り郊野を冒す。黄泉交る故生草枯害ふ。宇宙の氣滯結
し、積貯て一度に發す故に、百年の後此変あり。其地脉
の継く者或ハ壱丁より十里、又は百里にも至る。脉絶る
地は隣ても動かす。吾神國の傳来凶災は禍津日神の行逢
なり。固り此神故ラに悪も(をイ)為にあらす、唯行逢者其災を
被るのみ。是國政の可否に拠らす。天は知さる證なり。
徳永千規曰(問脱イ)、須弉雄命の神性の加り(しイ)て然るに非すや。答
曰、予も始ハ[然意|シカオモ]へり。此命海原を知らし給へと命せら
れ玉ふを守り玉ハヽ、誠に其説適当すへけれと否み玉ひ、
命の如く従ひ玉ハさりけれは略きぬ。
或書に近江の潮(湖イ)水地一夜に没して冨士山突出ぬと云り。
本史に見えされは浮説として採らさりけるを林羅山子
曰、大古の事は疑へからす。予或時、富士山上の石を餉
る者有、其石貝ガラツケリ。又土佐の国五十万頃没して
海と成。是は日本紀に見えたり。民間傳て云、今東寺ゟ
足摺リノ間なり。此等地は海に包まれ有證なり。
罹災之後偶居親家請假筆硯執管
同季冬 菜園刀穪
追考史記曰、幽王二年西周三川皆震、伯陽甫曰、周
ハ将ニ亡ンとするか、天地の氣序を失ふ。民乱るへ
し。陽伏て出ること能はず、△(△陰迫て烝ルこと能はず。脱イ)是に於て地震す。是
陽其所を失フて陰に塡るゝ也。原塞る故周必亡ン、
于時幽王褒姒を嬖愛し、國乱を起す。凡陰陽は天地
の知者にあらす。人事も又天地に関らす。天地心有
こと決してなし。唯人道を推して天道存すとするは
外國の教なり。此度の地震を以證とすべし。當□御
國大祖より国民を仁恤し給ふと(こ説イ)餘国比類なし。今目
前屠者に至る迄恩偶(遇カ)の厚き烹粥を施し、赦舎を構へ、
走吏轉〻父兄も及はぬ形、皆見聞顕著也。言筆を俣
す。陰陽若意あらは、何そ不意に此変を興起為んや。
16、地震考
凡天地の間に有とある事の理ハしも、人の智もて量知る
へきに非ず。されと昔より知らるゝ限りは誰も知らまほ
しくするによりて、漢人は陰陽五行也(をカ)以て説をなし、西
洋人は地水火風を以て説をなせり。西洋の説は漢人の説
に較ふれは遥に勝れる如くなれど、其地水火風の本何に
因りて成れると云ふ事は知るへからず。彼窮理家雷鳴の
理を窮めてよく解けとも、其理の如くならんニは堕る星
の如く處を擇ぶましきものなるを、木によりて落チ木に
よりて登るは心なきものと為へからず。幽火の理を窮め
て死人の骨工(にイ)銕物の錆付て[明|アカリ]をなすものなりとし事(てイ)、其
を作るに果して暗夜を照せとも、今我国(本説イ)の幽火の三ツ四
ツ分れ飛翔て(りイ)又一ツに集り、又呼時は近く来るなどは彼
が理の外ならすや。地震の説も然るへし。近頃窮理家藥
石を製し、地中に埋め置て纔の地震をなさしむといへり。
されども此度の地震の如く大潮をさへ催し来る事纔なる
理にて推量るへきにあらす。世俗昔より[万劫|マンコフ]の魚と云ふ
もの有て大地を戴たるが、其尾鰭を動かせは地震すとい
へるも[無実|ムナシ]語とは難(云と脱イ)かるへし。火風雨雪雷地震潮など皆
夫〻司る神ありて、其神の荒備より禍事の出来るものと
思ほゆれはなり。
地震♠呼地震を古へ[那為|ナイ]と云ウ。日本紀十六[太|ヒヨ](マヽ)[子御歌|ツキノミコノ]に於彌能姑
能臣ノ子のなり[耶賦能之魔柯枳|ヤフノシハカキ]八節の柴垣ナリ[姑陀騰余瀰|シタトヨミ]下響なり。[那為我|ナキカ][與釐據魔|ヨリコハ]地[震|ナイ]か鳴[動|ヨリ][来|コ]ハなり。[耶黎夢之魔柯枳|ヤレムシハカキ]破む柴垣なり。とあり。景井按
。フに、那為は[泣鳴動|ナキユ リ]の約りなり。ヨとユと通ふ故にヨリと云
もユリと云も同じことな
り。さてそのヨリもユリも皆イト約れは、キを省キテナイト云へき
を、那為と書るは[不審|イフカシキ]によりて、[熟|ヨク]按ふに、ユリの約りたるイはや
行のイなれは、あ行のイの如く軽音ならず。然れと別に當へき音の
漢字なき故、わ行の為似たるを能用ひたるなるへし。[那為|ナイ]の為、や
行に属る故は、本邦仁井田郷又幡多郡なとの人は、地震を音よりナ
ヤがゆく(るイ)と云へり。石(又イ)要石と云て地震の事を書し(るイ)書にはナユとも云
り。是にてや行のイトユハあ行のイエの如く軽音には呼バず、老に
於伊とは書たれとあ行の伊とはかわりあれと、只あ行の方に似たる
には伊を用ひわ行の方に似たるには為韋等を用ひたるにて、別に字
あらまほしき由をも、又古事記の左韋何もサユリ河の約なるへき由
をも、万葉の潮佐為かサイもサユリにて音のするを言へる(なる脱イ)へき由なとをも、別に書置たれは見て知るへし。此は須佐之
男ノ命の御心の荒備より起る事なりと思ほゆ。其よしは
伊邪那岐ノ命の須佐之男之命に、汝命は海原を知らせと
詔給ひしに、御母の坐す根之堅洲國に罷まほしと念ほし
て啼、伊佐知給ひしに[其状|ソノサマ]、青山を枯山と泣枯し海河悉
[に泣乾|〳〵ナキホシ]きとあり。さて天に[参上|マウノボリ]給ふ時、山川悉に[動国土|トヨミクニツチ][皆震|ミナユリキ]と日(あり。脱イ)本紀にも[昇天|アメニノホリ]ます時、[溟渤皷盪山丘鳴響|オホウナハラトトロキヤマオカナリトヨミキ]とあ
り。[是全|コレマタ]く今の地震の状にて、山につける水を泣乾し給
へは草木は悉ク枯山の如く葉枯落、川によれる水を泣乾
し給へは、大海[皷盪|トゞロキ]て終に大潮の溢来事ミな須佐之男命
の御位(泣イ)伊佐知に供(依イ)ことく思ほゆれは、[那為|ナイ]は泣[鳴動|ナキ ユリ]の意
なりとは云なり。さて此須佐之男命罪を負給ひ、[千位置|チクラヲキ]
[戸|ド]の[祓物|ハラヘツモノ]にて御心[清|スガ]〻しく成らせ給ひ、荒魂をは海原に
止め和魂をは出雲の須我の宮に[止|ホノ]める。[皇|アマツカシ](アマツカシノミコイ)[孫|ユオミ]の御為
に大勲を立置し給ひて、月夜見の国に入らせ給ひつれは、
かく人の世となりて隠しけれは(と、イ)猶ともすれは今年の如き
御荒備の有ハいかなる事にか、いとかしこし。
嘉永七年寅十一月五日 大地震同月廿九日
谷景井記
雅澄按
日本紀、推(古イ)仁天皇七年夏四月乙末朔、辛酉地動舎屋悉破。
則則(衍字)令四方俾祭天地震神ト見ユ。類聚国史ニ、天平
六年遣使畿内七道、諸国検差メ祭地震神社ヲトアリ。
地震神を古一(ヘイ)ハ處〻ニテ祭レリト知ラレタリ。然ルニ何
ノ神霊ヲ祭祀レリト云コトシルセルモノヲ見アタラス。
神道家ノ説ニモ未タ詳ナラサル由イヘリ。思フニ本文ノ
説ノ如ククナランニハ、モシハ須佐之男命ノ霊ヲ祭レル
ニモアランカ。
17、(詩文・和歌類)
(1)詩文(省略)
(2)和歌類
おろかなる人の奢土(を脱イ)と火の神のあらひて
さとしけらしも 小枝
かゝる世のうきにあひては長いきもめてたき
ものと思さりけり七十七翁善渕
かへし
むかし有しためしを人に傳ふるも世になからへし
かひにやあらぬ七十翁実
震と潮の左(厄イ)にかゝりて中須賀の里なる
うからやから家(か脱イ)をたつねてイにより補う(同)
すみれ花指(摘イ)にし里におやと子かゆかりを(もイ)とめて
一夜ねにけり
家にかへりけるに庭もせに汐のたゝへ来るを
夏ならは涼しからんをにはたつみ霜降月に
見るもめつらし
我宿のゆかまて汐のさしくれは巖島かと
おもふあやしさ
ある人の發句 地震して藪し(にイ)臥寝や虎の暮
今元旦筆をこゝろむか(るイ)とて
空ははやこそのけふりのあともなし(くイ)ほのかにかすむ
初あした哉
めつらしや(くイ)雉子の聲そまたれけるやけ野の原に
春たちしより
歳旦
地震津波火災一時に来りて死人もおほく、予も七十
にあまりておそろしき事にあひ、命も今かきり歟と
おもひ居りしか、不慮に春を待得て朝祝すとて狂歌。
七十六翁茂実
おそろしや夢にも(ち脱イ) とは今朝そしる命ひろふて
雑煮くれ(ふイ)也
他邦部
18、阿州御郡奉行ゟ之書翰寫
一筆致啓上候。然は去ル四日卯(辰イ)ノ中刻、五日申ノ刻過
之大地震ニ而、城下町始郷浦共潰家焼失流家多。於市郷
怪我人死人も有之。且所〻(ニカ)寄地流亡所も有之候得共、
今以地震相止ミ不申。未巨細之義は相分不申候。尤彈
正大弼並阿波守家族迄も別条無御座、且城中損シ無御
座候。乍此上家中一到致大慶候。貴國は如何ニ御座候
哉。先不取敢御尋問旁為御知可(為脱イ)得御意如斯御座候。恐
惶謹言
十一月十三日 穂積義兵衛
森所兵衛
穂積恰
高木真蔵
三間勝蔵
赤川卯右衛門
(詰脱イ)馬金之進
六郡御奉行宛
19、大坂ゟ来状寫
今四日辰ノ刻、大地震御屋舗内も一時ニ相崩レ可申勢ニ
候處、漸相静り、夫ゟ翌五日酉下刻又〻大ユリ、世上殊
外取騒、出火之模様ニ相聞へ候処、左ハ無之津波と申
候(ニ相成イ)義、俄ニ数千艘ノ大舩を初、逆水ニ而木津川口ゟ押入
レ、道頓堀日吉橋ゟ金屋橋迄悉ク押切レ、堀江川筋ハ水
から(分イ)橋・黒金橋同断、安治川筋ニ而ハ山斉(斎イ)橋通り千石舩押
入レ、近邊之掛造家なとは悉相損、五六百石積舩半分計
ヘシ折レ居申候。其餘死人等は未数相知レ不申候。何レ
も地震を恐レ最前(寄イ)之上荷舩へ立退居申場合、前件之通大
舩ニ而押敷レし(申イ)躰実ニ筆紙ニ難申(尽脱イ) 御座候。只今最中舩
〻ノ間ゟ死人を取上居申候。勿論只今とても川〻往来相
成不申候。誠ニ前代未聞とは此事ニ而御座候。稲荷宮之脇
繪馬堂相崩申候。其外市中夥敷つぶれ申候。怪我人も数
多有之趣ニ御座候。今日とても地震相止不申、もはや此
節憶病ニギチ(相成、脱イ)〳〵と鳴り候得は狼(直様イ)火鉢をかゝへ飛出シ(申イ)、
都合当年は色〻珍事ニ出會申事ニ御座候。四日大地震ゟ
市中惣テ(ハ脱イ)濱輪へ出、今日迚も同断、外トニ而夜を明シ申
体、私なとは(もイ)夜分は内ニ這入不申、此上平穏之義相祈申
事ニ御座候。尚委細之義は次便ニ可申上候。
十一月七日 岸本圓蔵
20、江戸ゟ来状寫
今四日朝五ツ半頃大地震、己屋ニも難居惣テ出申候(立脱イ)。
りては足本タドリ二階ゟスビ下り申候。家居ユリこわし
申候。一枚之出火ニ而実ニ不要(安イ)儀と別而相恐レ申候。久保
町邊は屋根ニ瓦ノ有家なしと申事。甲州邊は別而強御座
候由。四日中(日脱)ゟ夜分へ掛、毎〻小ユリ此(昨イ)六日迄折〻ユリ
申候処、夜前ゟ相止り安心仕候。
十一月七日 安丞
21、駿府ゟ之届書寫
當月四日辰刻大地震ニ而御城大損シ石垣崩、其外所〻潰
破損等(不カ)少。出火ニ相成死人怪我人有之。権現様御宮所〻
大破相成候趣ニ御座候。小田原御城所〻大破、石垣崩、
御領町在共出火ニ相成、怪我人死人数多御座候趣申来候
ニ付為御知申上候。以上
十一月六日 島屋佐右衛門
土州様
御會所
22、寅十一月道中筋並諸国地震破損之荒増覚
一吉原大地震出火ニ而丸焼 一蒲原同泊ゟ東焼残崩ル
一巖渕六分崩レ四分焼 一富士川水なし
一由井無事 一沖津々浪四分焼(ル脱イ)一江尻丸焼過人多シ 一府中四分焼センケンノ宮損ル
一丸子八分崩レ(ルイ)怪我人有 一岡部不残崩死人多シ
一藤枝上ノ町六分焼 一島田半潰(崩レイ)大破
一金谷七分崩ル残り焼 一日坂無事
一掛川崩レ跡焼ル 一袋井崩レ焼(跡脱イ)ル
一見附六百軒崩ル過人多 一濱松六歩崩跡(ル脱イ)焼ル
一舞坂津浪ニ流ル跡崩ル 一荒井御関所町(レ脱イ)家上同
一白須賀八分崩ル残り大破 一二河半潰一吉田御屋敷町家半潰 一御油大破損
一赤坂不残崩ル 一藤川山崩レ町家七分崩ル
一岡崎八分崩ル矢ハキ橋無事一地鯉鮒大津浪家崩死人多
シ
一鳴海七分崩ル 一宮八分崩熱(ル脱イ)田大破損
一桑名大津浪舩多ク損ル
〆
紀州和歌山大地震津浪町家大破都テ大坂同様也。
一加田栗(西米カ)島御社崩ル町家流レ崩ル
一黒江浦 一于(干イ)潟浦 一下津浦 一日高浦
一名高浦 一弘門浦 一ゑ本ノけつ浦
右浦々大津浪大損シ死人怪我人多シ。
一巖佐地震津浪ニ而大破 一日高郡ノ内四拾ヶ村
一南部田邊熊野本宮
右いつれも大破之由。
一泉州かん壕(塚カ)大地震津浪死人多シ。
一淡州洲本同断ニ而城下家中家(町脱イ)ニ至迄大破損。
一阿州徳島同出火同(内イ)町さご町五丁目崩ル焼家中大破。
一小松島津浪家数夥敷崩ル、死人有之。
一明石 一かこ川 高砂 三ツ石 大地震家家大破。
一赤穂地震津浪ニ而人損ル。
(イにて補う)(〆)
西國筋
一藝州廣島御城角矢倉参ヶ所崩ル。家中町家大破損。大
壱(道脱カ)尺計割ル。
一た本ノゝのみ草浦 仁保浦 大破。町壱尺餘われる。泥
吹出シ、怪我人多シ。
一宮島燈籠落ル、廻廊損ル。 一巖國金對橋損ル。
一長州萩 長部 下ノ関
一筑州(前イ) 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後
右九州路何方も大地震大荒之由也。
寅十一月 御飛脚番某ゟ借寫之と有。
三災録巻ノ下畢 大尾
つれ〳〵草に世にかたり傳ふる事誠はあひふれ(なきイ)にや。
多くはみなそらこと也。まして年月さ(過脱イ)かひも隔りぬれ
は、いゝたきまゝにかたりなして筆にも書とゝめぬれ
は、やかて定りぬと書残したれは、いてやこ(衍字)とおもひ
たちて年經た(さイ)る中にと、三災を拙文(きイ)筆にうつし、つら
〳〵うき世のありさまをおもひめくらして、
稲毛実
世の中のかゝるためしもしらすして
事たらぬ身を何おもひけん
附録
23、(日本紀白鳳天災)
日本紀曰、天武天皇白鳳十三年冬十月壬己卯朔云〻辰、逮于[人定|イノトキ]ニ
大地震。挙國男女♠唱テ不知東西ヲ。則十四日ナリ山崩河漏(涌イ)、諸國
郡官舎及百姓倉屋寺塔神社破壊之類不可勝數。由是人
民及六畜多ク死傷之時ニ、伊豫ノ湯泉没而不出。土左ノ國ノ日(田カ)苑
五十余万頃没シ為海。中古老曰若是地動未曾有也略 庚戊土左國司言ス、大潮高騰テ
海水飄蕩、由是運調舩多投(放イ)失焉。
上件のことく見え、今に国俗傳へて、東寺先(のイ)崎より足
摺の崎まては、神代よりの田畠にして白鳳以来の海也
と云。今も秋の空清く澄たる日には、海底に岸垣の堤
などほのかに見ゆる由、漁(出脱イ)す者の(る脱イ)話也と、村種崎の産未某予に
語りぬ。
谷陵記には、此事を論して未詳其実否とはあれと
も、左の古傳も捨かたけれは参考の一助に備ふ。
24、(幡多郡内庄屋家譜)
幡多郡御坊畑村庄屋年譜並先祖書抜書ニ云。御国ノ南
東寺ゟ足摺山間(ノ脱イ)地方貳拾六万石有と云。御国内高十二
郡ノ内、大方郡・あたち郡・黒田郡・とふた郡・しの
ふ郡五郡、人王四十代天武天皇御治世ノ内、白鳳十三
年十月十四日は(大イ)地震。浪高キ事不及申、當御郡上山郷
ノ内、片平と申所ニ半身急(魚イ)掛リ居申ニ付、片魚村と申。
同〆(入イ)野郷八丁山ニ舩の梶八丁掛り候ニ付、八丁森ト申
候。又上田ノ口村ノ南、田野浦境山浪流越此山を流越
ト申候。土左(南脱イ)ニ五万頃海ニ成、其外御国中神社仏殿在
家潰(くづイ)れ流失云〻と有。
25、(阿闍利暁印記録)
又谷陵記に寶永以前、慶長九年の大変は僧の暁印ン(か脱イ)、記録の略に見えた(つイ)るまゝを記したれは、其書見まほしく
て探り求つるに、頃日一書を得て見るに、紙数二三枚
の物ニ而いかにも筆記の略なれは、後世散失の程を察
し、左ニ加へ置ぬ。文体可笑事多しといへとも、其実
は見へて殊勝に覚ゆ。其世の質朴おもひやるへし。
于時 慶長九甲辰国〻諸難立起事
夫我朝天地かいへ(ママ)き神武天皇以来百(ママ) 代御時、将軍大閤
秀吉之御息秀頼と申、御歳十三歳御幼少故、三河國松平
家康と申は日本第一之弓取也。然ル間、大閤秀吉御他界
刻ニ秀頼幼少之間、御世を家康江被預譲給ひて、公家にな
され給ひて内府と申、御世を為納日本の将軍と成給ふ。
加之、我朝握恣掌中諸国大名小名奉師傳たもふ事無比。
去間尾張国山内對馬守殿と申御侍、土佐国御知行取給(セ脱イ)ひ
て、一ツ国静謐に納給ふ。当時、崎濱の代官對馬殿(守脱イ)御内
富永頼母殿と申侍(御脱イ)代官仕給ふ。于慶(時脱イ)長九年甲辰、先一番
七月十二日不時に大風吹来り。洪水あ(おそイ)ひ出、竹木根葉
を吹切、家は戸壁吹散シ、山へ(ハカ)河ニ成、渕川山と埋レ、
人首(の脱イ)を吹切、△(△あるひハ死、脱イ)あるひは半死。二番に初八月四日に大風
洪水又する也。参番潤八月廿八日ニ大風洪水又する也。
四番に十二月十六日夜頓而地震す。其時夜半はかりに四
海浪又(〆イ)大塩入て、國〻浦(の脱イ)〻を破損し、崎濱ニも男女五十
人余浪ニ死。御代官下代に津の国山田助右衛門殿と申侍
夫婦に浪に被取、朝露(の脱イ)ときへ給ふ。あはれ哉、かなしひ
哉。東寺西寺の浦〻(分イ)は男女四百人余死。甲浦は参百五十
人余死、宍喰ニは三千八百六(十脱カ)人余死。此時野根ノ浦は仏
神三寶の加護にや(かイ)あらん。塩不入、大成不思儀也。東を
請南を請たる國は大汐入、西を請たる国〻は心(震カ)動し(地脱イ)ん計
ニ而塩いらす。是も西(衍字イ)を請たる国〻には心動未来永々之
言傳ニ書置もの也。
一右之時、在所庄屋安岡吉右(左イ)衛門之(也。イ)此一類は少しも取お
とし無之、末繁昌に安穏也。談議所に讃岐国福家ノ住
人権大僧都暁印と申客僧居合有。為(ママ)目を見、則此置文
作る筆者也。汐の入所は談議所の阿弥陀堂のつめ木の
上迄入。中里かち次郎右衛門は(がイ)つほ迄入。河は舩持の
名本の出川原迄入。八幡の大権現のらんかんの北橋を
打つふるなり畢。
文化四年十一月公事ニ因テ東行シ崎濱ニ至ル。偶間暇ヲ得、遂ニ
談議所ノ在ル所ヲ問。里長寺田六兵衛分一役所ヲ指テ示ス。予且阿奢
(闍イ)梨カ記録今猶存スルヤ否ヲ問ヘハ、古記有トテ則出シテ
示之。因テ謄寫ス。是谷陵記ニ所謂阿奢(闍イ)梨暁印カ記録ト
云モノ也。
宮崎高門識
26、印行地震考
文政十三庚寅年七月二日、申ノ時計ニ大ニ地震ひ出て夥
敷ゆり動しけれは、洛中の土蔵築地など大にいたみ
潰し(れ脱イ)家居も有。土蔵の潰れしは数多ありて、築地高塀な
どは大方倒れ怪我せし人も数多也。昔はありと聞けど近
く都の土地にかく烈しきはなかりけれは、人〻驚き恐れ
てみな〳〵家を走り出て、大路に敷もの鋪、板(仮イ)の宿りを
何くれといとなミ、二三里(日イ)の程は家の内に寝る人なく、
或は大寺の境内に移り、或は洛外の川原(へ脱イ)移り、西なる野
邊集て夜を明しける。かくて三日四日過ても猶其名残の
小さき震出(ひイ)時〻ありて、初は昼夜に二十度も有しか。次
第しつまりて八度はかり三四度に成るも有。然レ
とも(けふ脱イ)既に廿日あまりを經ぬれ(どイ)は猶折〻少シツヽの震ひも
やまて、皆人〻のまどひ(恐脱イ)るゝ事也。世の諺に地震はは
しめきびしく、大風は中程つよく雷は末ほど甚しといへ
る事をもて、初のほとの大震はなきことく(とイ)さとしぬれと、
猶婦女子小児のたくひは、いかゝとあんしわつらひて、
いかにや〳〵と尋ねとふ。人のさわなれは舊記をしるし
て、大震の後に震ありて止ざるためしを擧て人を安くせ
んと、左にしるし侍る。
上古より地震のありし事、國史に見へたる限りは類聚國
史一百七十壱の巻災異の部に擧て詳也。
三代実録、仁和三年秋七月二日癸酉夜地震中略、六日丁酉本ノ虹
降ル東宮。其尾竟天、虹入内蔵寮中略。是夜地震中略。卅
日辛丑ノ申時、地大震動ス。経歴シ數尅ヲ震猶不止。天皇出
仁壽殿、御ス紫震殿南庭ニ。命シテ大蔵省ニ立七大幄三ヲ、為
御在所ト。諸司舎(倉カ)屋及ヒ東西ノ京盧舎往々顚覆壓殺者衰(衆シイ)ル。或
有失神頓死スル者。亥時亦震コト三度、五畿内七度(道カ)諸國同
日大(ニ脱イ)震。官舎多ク損シ、海潮漲シ陸ヲ溺死者不可勝テ計フ。中略八
月四日、乙巳地震五度。是ノ日達智門上ニ有氣、如煙非煙ニ
如シテ虹飛(非虹脱イ)上テ属リ天、或入(人イ)先之(見イ)皆曰、是[羽蟻|ハアリ]也。中略十二
日、癸丑鷺二ツ集朝堂院白虎樓・豊楽院栖霞樓ノ上ニ。陰
陽寮占テ曰、當シ愼失火之事ヲ。十三日甲寅地震、有鷺集ル
豊楽院南門ノ鵄尾ノ上ニ。十四日乙卯ノ子ノ時地震。十五日丙辰未ノ
時有鷺集ル豊楽殿ノ東鵄尾ノ上ニ中(下イ)略。
皇帝紀杪に云。文治元年七月九日未尅大地震。洛中洛外
堂社塔廟人象(家イ)大略顚倒、樹木折落山川皆変ス。死スル者多シ。其
後連日不休四十餘箇日人皆為テ悩心神如醉ルカ云々。
長明の方丈記に云、元暦二年の頃大なゐふる事侍りき。
其様世の常ならす。崩(山脱イ)れて川をうつみ、海かたふきて陸
をひた(せ脱イ)り。土さけて水[湧|ワキ]上り、いほ(は脱イ)われて谷にまろび入。
堵(渚イ)こく舩は浪にたゝよひ、道行駒は足の立どをまとはせ
り。況や都のほとりは、在々所々、堂舎・塔廟一として
全からす。中略かくおびたゝしくふる事は、しばしにて
止り(にイ)しか(も脱イ)と、名残(其脱イ)しはらくは絶す。(よのつねイ)尋常に驚くほとの地
震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過にしかは、漸
間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日ませ、二三日に一度ほ(なイ)と、大かた其名残三月計や傳(侍りイ)けん。
天文考要に云、寛文壬寅五月畿内地ノ大震コト北江最甚
シ、餘動屢發シ至ル於歳ノ終ルニ。
本朝天文志に云、寳暦元年辛未二月廿九日大地震、諸堂
舎ノ破壊餘動至テ六七月ニ止ル
かく数〻ある中にも皆初は大震して後、小動
は止(マ脱イ)され(ど脱イ)も、初のことき大震はなし。我友廣島氏なる人、
諸国にて大地震に四度逢たり。皆其国に滞留して始末を
能く知れり。小動は久しけれ共、初のと(如イ)きは一度もなし
と申されき。是現在の人にて證とするに足れり。
地震之説
經世衍義ニ、孔鼂カ曰ク、陽伏テ于陰下ニ見迫テ于陰ニ、而不能
弁ルコト以至ル於地動ニ(と、脱イ)如此陽氣地中に伏して出んとする
時、陰氣に[抑|ヲサへ]られて出る事能はず。地中に[徼功|ケキコウ](攻カ)して動揺
する也。國語の周語に伯陽父の言なとも如此、古代より
みな此説を云(フ脱イ)。
天經或問に云、地は本ト氣の[渣|カ]滓集りて形質をなす。元
氣[旋轉中|センテンシテ]に束ぬ故に[亢|コフ]然として空に浮んて[墜|オチ]す。四國に
[竅|アナ]ありて相通す。或は蜂の巣のことく、或は[薗辮|クサヒラノステ]のこと
く水火の氣その中に伏す。蓋氣噴盈して舒んと欲しての
ぶる事を得す。人身の筋轉して脉揺がごとし。雷霆と理
を同ふす。北極下の地は大寒、赤道ノ下は[編熱|ヘンネツ]にしてと
もに地震少し。砂土の地は氣疏にして集らす、震少し。
泥土ノ地は空に氣の蔵む事なし。故に震少し。温暖の地、
多石の地下り(にイ)空穴有て熱氣吹入て冷氣の為に攝歛せられ
極る。則本ノは舒放して其地を激摶す。たとへは、大筒石火
矢なとを高樓且(巨イ)塔のに(下脱イ)發せは、甚[震|シン]衝をよ(かイ)ふふらせ(さイ)る事
無がことし。然とも大地通して地震する事なし。震は各
處各氣各動なりと唯一處の地のみ也。其輕重によりて
色々の変有。地に新山あり、海に新島(ある脱イ)の類不少、震後地
下の燥氣猛迫して熱火に変して出れは則震[停|ト、マル]事也。
地震の徴
震せんとする時は、夜間に地に孔数々出来て細き[壌|ツチクレ]を[噴|フキ]
出して田[鼠扮|ウコロモツ]ことし(と脱イ)。 是[土龍|ヲコロモチ]なとの持上るの類なら
ん歟。又老農野に耕す時に、煙を生する如きを見て将
ニ農(震イ)せんとするを知ると。又井の水俄ニ濁り湧も亦震の
徴也。以上天文考要
又世に言傳ふは、雲の近くなるは地震の徴也と。是雲に
はあらず氣の上升するにて煙のことく雲のことく見ゆる
也。
地震の和名をナヰと云。和漢三才圖繪にはナへと有。ナ
ヰの假名然るへからす(んイ)歟。
季鷹翁の説に、ナハ[魚|ナ]には(てイ)ヰハユリの約りたるにてナユ
リといふ事ならん歟。魚の尾鰭を動かすごとく動揺する
形(を脱イ)容して名目とせるか、ナヰフルとは重言のやうなれど
もナヰハ名目と成て(はイ)なるへしと、是をもおもへは誠に小
児の俗説なれども、大地の下に大なる鯰か居るといふも
昔ゟ言傳た(へ脱イ)る俗言にや。又建久九年の暦の表紙に、地震
の虫とて其形を画き、日本六十六州の名を記したるもの
有。俗説なるへけれども、既に六七百年前ゟかたる事も
あれは、鯰の説も何れの書にか據あらんか。仏説には龍
の所為ともいへり。古代の説は大やうかくの如きもの成
へし。
佐渡の國には、今も常にナヰフルと云ならはせり。地震
といへば通せず。古言の邊鄙に残る事見るへし。三代実録仁和三年地震之條に、京師の人民出盧(□カ)舎、居于
衢路云〻。こたひの京師のあり様かくの如し(くイ)いと珍ら
し。(か也。イ)地震に付て、其應徴の事なと漢書、晋書の天文志などに
は、其應色は(〻イ)記しあれども、唐書の天文志よりは変を記
して應を記さず、是春秋の意に基ク也。今太平の御代何
の應か是あらん。地震即災異の(にイ)して外に應の有へき事な
し。人〻心を安んして各の務を怠る事なかれ。
文政十三年寅七月廿一日
思齊堂註(主カ)人誌
此地震考一冊は予か師、濤山先生の考る所にして、此頃
童蒙婦女、或は病者など、さま〳〵の虚説にまよ(とイ)ひて恐
れほ(おイ)のゝき、今(又脱イ)に小動も止ず。此後、大震も(やイ)あらんか(衍字イ)と
心も安からされは、歴代のためしを擧て其まとひを解き、
心を安んぜんとす。京師は上古ゟ大震も稀也。寳暦元年
の大震ゟ今年迄星霜八十年を經れは知る人少し。此災異
に[係|カヽ]りて命を損し疵をかうふる人数多也。時の災難とは
いへとも、亦免レかたしともいふへからず。常に地震多
き國は倉庫家建も其心を用ひ、人も平日に心得たれは大
震といへとも[壓死|アツシ]すくなし。和漢の歴代に記せし地裂・
山崩・土♠・嶋出・濤起等ハ皆邊土也。阿含經智度論な
とさま〳〵に説(て脱イ)、大地皆動くやうに聞しり、左にはあら
ず。初の(めにイ)いへる如く、震は各處各氣各動也。予天經或問
て拠て一圖をまうけて是を明す。
地球之圖略す。
(イにより補う)
地球之図
地球一周九萬里、是を唐土の唐(一イ)里六町として日本の壱里
三拾六町に算すれは、一周一萬五千里となる。然ル時は
地心より地上まて凡貳千五百里也。△(△此圖黒點の間凡一千五百里也。脱イ)今度の地震方二百里と見る時は、僅ニ圖する所の小圖の中に当れり。是を
以て震動する所の徴少なら(るとイ)す、地球の廣大なる事をおも
ひはかるへし。愚按するに天地の中に造化皆本末有。本
とは根本にして心なり、心とは震動する所の至て猛烈な
る所をさす。其心より四方へ散して漸[柔緩|ユルク]なるを末とす。
然は東より揺き(衍字イ)来るにあらす、動来るにあらす。其心よ
り揺初て四方に至り、其限りは段〻微動にて畢るならん。
今度震動する所、京師を心として近國に亘り、末東武・
南紀・北越・西四國・中国に抵ル。又京師の中にても西
北の方心なりしや。其時、東山にて此地震に遇し人、先
西山何となく氣立升て忽市中土煙を立て揺来り、初て地
震なる事を知れりと也。
又地震に[微|シルシ]ある事、現在見し所、当六月廿五日日輪西山
に没する、其色血のことし。同七月四日月没する其色亦
赤(同イ)し。和漢合連(運イ)ニ云、寛文二年壬寅三月六日ゟ廿日迄日
朝夕如血月亦同、五月朔日地(大脱イ)震、五條石橋落栃(朽イ)木谷崩レ
土民死而(衍字イ)至七月未止出たり。廣島氏日(のイ)譚に、享和三(二カ)年
十一月諸用ありて佐渡の国[小木|ヲキ]と云湊に滞留せしは(にイ)同十
五日の朝なりしか、同宿の舩かゝりせし舩頭と共に日和
を見んとて近邊なるへ(衍字イ)し丘へ出しに、舩頭のいはく、今
日の天氣は誠にあやしけ也。四方濛〻として雲山の腰に
たれ、山半腹ゟ上は峯あらはれたり。雨とも見へす、風
になるとも覚へす。我レ年来の此(如此イ)こと天氣を見ずと(大にイ)なあ
やしむ。此時廣島氏曰、是は雲のたるゝにあらず。地震(気イ)の
上升するならむ。予幼年の時、父に聞る(タイ)事有、如此は地
震の徴也と。片時も猶豫有へからすと急き旅宿の(にイ)帰り、
主り(にイ)其由を告。此地後は山、前は海にして甚危し。又来
るとも暫時外にのかれんと、人をして荷物なと先へ送ら
せ、そこ〳〵に仕度して立む(出イ)ぬ。道の程四里計も来らん
とおもひしか、山中にて果して大地震せり。地ハ浪のう
つことく揺て、大木なと枝みな打ふし、まろひなから漸
にのかれて去りぬ。この時小木の湊は、山崩堂塔は倒れ、
潮漲て舎屋咸海に入。大なる巖満(海カ)ゟ涌出たり。夫より毎
日小動して、翌年六月に漸〻止りたりとなん。其後同国
金山にいたりし時、去ル地震には定て穴も潰れ人も損せ
しにやと問しに、さはなく、皆云、此地はむかしゟ地震
は以前にしりぬ。去ル地震も三日以前ニ其徴を知りて、
皆穴に不入用意せし故、一人も怪我なしと也。其徴はい
かにして知る哉と問しに、地震せんとする前は穴の中地
氣上昇して、傍なる人もたかひに腰に(ゟイ)上は唯濛〻として
不見、是は(をイ)地震の徴とする(衍字イ)と云り。按に(ル脱イ)常ニ地中ニ入ル
物は地氣を能知る。鳥は空中ニありて能上升の氣を知る。
今度地震せんとする時、数千の鷺一度に飛を見る。
△(△又或人云、同廿七日の朝未日も出ぬ先に虹丑寅の間に立を見る。脱イ)虹は日に向ひて立は常也。いつれも常にあらさるは徴
とやいはん。又、はしめにいへる地震の和名ナヰフル、
季鷹翁ナハ魚也といふ説によりて、古圖を得て茲に出す。
此圖暦のはしめに出して、次に建久五年つちのえむまの暦凡
三百五十五ヶ日と有。餘は是を略す。伊豆國那珂郡松崎村の寺院
ふるき唐紙の中に出る摺巻の暦也とそ。
(イにより次項に図を補う)
槐記享保九年の御話に云フ。むかし、四方市といふ盲人
は、名譽の調子聞にて人の吉凶悔吝を占ふに、少も違ふ
事なし。應山へは御心安く毎に(〻イ)参りて御次に伺候せしか、
晩年に及びて申せしは、由なき事に覚へて甚くやし
く(衍字イ)、終日人の(にイ)交る毎に其人の吉凶みな耳にひゝきていと
かしましと申ける由。去程に度〻の高名擧てかそへかた
し。此四方市朝夙に起て僕を呼て、扨〻あしき調子也。
此調子ニては大方京中は滅却すべきそ。急き食にても認
て、我を先嵯峨の方へ誘ひ行ケと云。日頃の手際どもあ
れは、早速西をさして嵯峨に行。嵐山の麓大井河原ニ着
く。暫ク休息して言様、いまた調子直らず、い(あな脱イ)ふかし。
大方大火事成べしと、人家有所をはなれ北(て脱イ)へ越せしに、
未同し調子なるは此も悪所と覚ゆ。愛宕には知れる坊有、
是に誘ひ行と云。いさとて又登り〳〵て其坊に着く。坊
主出て何とてかく早く登(ハ脱イ)山した(けイ)るよと申せしかは、しか
〳〵の事有と答ふ。爰はいかにと問。爰も猶安からず、
少にても高所へ参りたしと云。其所(にイ)小護堂(摩脱イ)有、此に行か
れよと有しかば、此堂に入て大に歓び、扨〻安堵に住せ
り。調子初て直りしとて、唯いつ迄も此所に居度由申せ
しか、頓て地震ゆり出し夥敷事いふ計なし。世間(ニ脱イ)云寅年大地震
何とかしたりけん。彼護摩堂は[架作|タナツク]りに頓て深谷崩レ落
て破損し、四方市も空敷なる。六十余ニ而も有へき歟。此
一生の終りをして人の吉凶さへ姦きほとに知るものゝ、
己か終る所をしらざるのミに非す。死傷(場イ)にて安堵しける
こそ不審なれ。吉の極る所は凶、凶の極る所は吉なれは
成へし。安(毎)度無襌か物語也と仰せけ(らイ)る。愚按に(ル脱イ)四方市の
占考[著|イチシルシ]き事、賞するに余り有。既に天地の変異を知りて
愛宕山にのかれしとうへなる哉。此山にいたりて調子直
りしに其変もあんな(に脱イ)れは、是は陰春云陽カ極りて陰を生す、楽極
り哀を生すといふに同しからん。其頃は京師一般の大變
ゆへ震氣充満して、歩むに道なく逃るゝに所なしと言時
なれは、四方市も身體茲に極り(るイ)といふ所ゆへ、反て其音
調シ直りしも至極の事に覚ゆ。
素問五運行大論曰、風勝則地動ク、怪異辨断ニ曰、此説に
隨ふ時は地震は風氣の所謂(為イ)也。人(又イ)曰、地震に鯰の説世俗
に有。佛説なるにや、風を以て鯰としたるもの歟、魚は
陰中の陽物なれは風にたとへ言るならん。何れにても正
理には遠き説なり。白石の東雅に云、地震をナヰフルト
云ナ(ハ脱イ)イトハ鳴ル也、フルトハ動ク也、ユルグと云、ユル
ガスなといふも又同し。上古の語に由本ノ(ゆるカ)をかしてなといふ
も即是也。愚按るに、又ナヘフルと北越邊左(土イ)にいへり。
三才圖會にナヘト出たるは何に基ルにや。もしナへと言
ヘハナヘノつゞめ子となる。子は根にして地を云。[地震|チフル]
にて子細なし。
楊子方言云、東齊謂根曰塁非ス専ラ持桑根白(皮イ)及ヲ、又日本
紀神代巻に根之國と出たるは地をさす。又(歟脱イ)云、ナヰユル
とはなみゆる也。波の打ことくゆるをいふ歟。
洛東東隴葊 主人誌
齊政舘都講小島氏蔵板
追加
榊巷談苑ニ云、この国の下になまずといふものありて、
それに(かイ)うこきする時は、なゐのふるといふも能は(わイ)らべの
ものかたりする。三才圖會に木魚の事をのせて、閻浮堤
は大なる鰲の背にあり。此鰲つねに身を痒かりて鱗甲を
動かす。その時は此世にないふると。さるほどに、其形
をつくりて常にうちたゝきて痒かりなきやうにする也と
いへり。この国の物語もかよ(う脱イ)うの事よりいひ出たる成へ
し。
安政乙卯仲夏謄写追加亦畢 古風堂老人
27、上巻巷談拾遺
甲殿の海岸霊地に鎮りまします住吉△(△明神の御脱イ)神徳は、申もな
か〳〵おろかなる御事なから、去冬の大変を鋪地の者
ともは誰いふとはなけれとも、神詫にや兼日より沙汰
しけると也。扨、十一月五日大震後の高潮最初は程能
打入間もなし(くイ)引取、川も入江も暫く干潟となりたれは、
其隙に老幼の足弱迄も残らす山丘に登り、怪我過せし
者壱人もなかりしと也。御社の西のホケと云所にい
さゝか人家有。尤此所は至て低き海邊なれは、漁師ど
も家財をも打捨山上に遁れ見渡す処、南海より山のこ
ときの高波打来る事、あまたたひなるに、ふしき成哉、
御社の沖にいたれは忽東西に(ヘイ)分レ、此ホケの窪所も恙
なかりしと也。又奇瑞なる事は、御社内御内陣の扉に
は平日錠を差堅めしに、おのつから開て有しを鍵取長
吉といふ者見附奉りて竊に氏子ともには語り傳へ、い
よ〳〵霊威を祟敬せしと、本編清書の後、其里人に聞
所也。将又、傳へ聞に恐なから、少将様にも此御神を
いたく御信仰被遊て、今年立杉の御花壇の地に新に御
社を建させられ、神職ともを彼地に遣わされ御勧請遊
され、御屋舗におゐて御祭禮御賑〻舗御執行有。御近
習の面〻御陸に至迄御庭通参拜被仰付しと也。返〳〵もかく思召立せられし御事は、まさしく其御故へ
よし(こそ脱イ)有つらめと察し奉り、拜承のまゝ恐れミ〳〵しる
し奉りぬ。あなかしこ。
大変後江戸ゟ来る節検歌三首
おのれ〳〵は身の程をわきまへ、萬事足ことを知て堪
忍し、節倹を守り不自由を常とし、家業専一に精出し
世をわたれは、上下無事安全に同モトノママ也し賑し。
衣 破れたら洗張して布木綿身か[温|アタタカ]になれは事たる
食粟稗や芋大根飯塩と味噌腹一はいし(にイ)なれは事足ル
住狭くとも丸木柱に菰莚あめかもらぬ(ねイ)はそれて事たる
安政二年乙卯春、江戸八十八翁節倹老人
道本□
道本老人ハ浅草大護院神聖寺の住侶ニテ
近世道徳無ノ(双脱イ)上人ナリトカヤ。
三災録二冊、こたひ土居某明見といふ所の人より借こし
よりなるを、おのれ密に又かりて俄に寫し侍りぬ。かく
いふは
元治初のとしミな月十二日の日
吉村嘉之助春峰
花押