[未校訂]▼安政の地震は震源地を遠州灘とするマグニチュード
八・四の東海道大地震で死者六〇〇人。翌日一一月五日
には土佐沖を震源地とするマグニチュード八・四の南海
道大地震で津波は房総半島から九州東岸に及び、全壊、
火災、流失家屋七万戸、死者三千人とされている。
これら南海大地震による土佐藩の被害状況について
は、全壊二九三九軒、半壊八八八八軒、流失三一八三軒、
焼失二四六〇軒などと藩主山内[豊信|とよしげ]から幕府への被害報
告がなされている。また『災害異誌』には「十一月五日
南海道沖大地震この日七ツ過(午後四時)に及びて未曾
有の大地震起こりて家屋の倒壊するものさながら将棋を
倒すが如く、折から戸々晩さん炊事の際なりしかば火災
忽ち各所に起こりて光景凄惨を極む。津波の被害は高知
流家一六七六潰家五六七死人一〇六宇佐福島残る家七〇
軒溺死七十余人…」とある。
また宇佐の真覚寺日記には「七ツ半[俄|にわか]に一天うすぐら
く相成り近代未曾有の大地震山川鳴り渡り土煙空中に満
ち飛鳥も度を失ひ人家は縦横無尽に壊崩し、瓦は四方へ
飛び大地破裂してたやすく逃去る事も成難く、男女[狼狽|ろうばい]
[周章|しゅうしょう]し児童呼叫びの声おびただし、間もなく沖より山
のごとき波入り来り、宇佐、福島一面海となる。今夜月
の入り迄に津波入る事凡そ八・九度、一番波より二番、
三番の引き汐に浦中皆流る浪の入し時諸道具打ち捨て置
き山へ逃げるものは皆命助り金銀雑具に目をかけ油断せ
し者は悉く溺死す」とある。
仁淀村での被害について川渡大野家の記録に「安政元
年十一月五日諸国大地震にて御城下火起り或いは家々潰
れ込み、津波起り浦々田畑海となり家傷死人おびただし、
この度の変災を[窺|うかが]い盗業致すものは召捕勝手次第、尤も
手向い致すものは打捨苦しからざる趣き札立て置き候様
直触れ有り」とあって、混乱に紛れ悪事を働く者は切り
捨て御免の高札を立てよとの命令があったものであろ
う。
森の正泉寺過去帳に「安政元甲寅年十一月七日桐見川
西浦寿之助娘年十七大変の[砌|みぎり]山より帰路石にうたれ死」
「長者尾畑(竹谷大畑)治右衛門娘六歳右に同じ」「同所
善内子年二歳右同断」とあって、死者があったことがわ
かる。
別枝故市川重利氏所蔵の文書に
安政元甲寅年十一月四日ゟ地震大シヲ、高知ヲ始メ
諸浦焼失、人家等シヲニ引ク、同七日四ツ時頃又大
震、同三丙辰年迄ニ少シツゝ毎事震。
とあって、安政元年一一月四日午前九時ごろ地震が起き
たが気にする程のものではなかった。翌五日は空に一点
の雲もなく晴れ渡って、風もない気持ちの良い日和であ
った。この日はちょうど形部薮三社大明神の神祭で、集
落の人々は杯を交わしていた。ところが夕刻七ツ半時(午
後五時)ころ、突如として大きな地響きと空気の震動音
とともに大地震が起った。村の山々が崩壊する大音響は
山峡に響き渡り、家屋は次々と倒れ、泣き叫ぶ女や子供、
辺りは全く生地獄のるつぼと化し、人々は算を乱して安
全地帯へと避難した。明くる六日も快晴で、日光は人を
射る程の暖かさであった。余震は段々と弱まってはいた
が、停止するところを知らなかった。人々は地震による
地割れを恐れ、雨戸を敷いて生活する者、あるいは竹薮
に避難する者、全く悲劇ともいうべく悲哀そのものであ
った。それに加えて死傷者も続出し、村人は地震に対す
る恐怖感におののいていた。古味福寿郎文書によると、
大津波の襲来によって低地は浸水し海になるとの流言が
伝わり、七日には家財道具を持って高地に避難する者が
続出するなど、パニック状態となった。飲料水も地震の
原因によって減水または渇水を生じた。各家のシヅ(肥
だめ)も全部打ち上げられたことは、その当時の激震を
物語るものである。また長者川は渇水のため一時は川原
になって、太陽の光を受け無気味なほど白々と光ってい
た。一二月三日までの一カ月間は大小七一九回の余震が
あって、皆小屋を作って仮住居としたことが記されてい
る。