[未校訂]嘉永七年甲寅十一月四日巳時江戸地大震
大城塀門多壊諸藩邸門塾崩都下市郷盧舍店屋多少破壊五
日夕又大震夜半浅草猿若町失火延及大川沿岸其火飛焼向
島数十屋及翌暁始熄其時風烈延暁数百死者六七人
江戸御城大手御門腰懸土手塀凡四五十間其余共倒或
落御堀諸御門瓦壁落日比谷辺甚しく阿波並鍋島等長
家破壊南部郡山等屋敷長屋大崩人死傷も有之こと云又
市ヶ谷牛込小石川麻布桜田久保町及深川本所等所々破
壊ありし也其余品川川崎神奈川なとも壊れありしと云
相模伊豆甲斐駿河等諸国四日同時地大震相州小田原城櫓
大壊城下市郷盧舍多破壊豆州下田殊甚海潮大溢民家漂没
大□柏木村地陥深五丈駿州富士川水大減渡不用舟
相州平塚藤沢大磯小田原城下等処々破損御城内櫓崩東
田村川辺萩ノ中山曽我中村金子鈴川簑毛糟屋伊勢原子
安道龍権限迠大ニ荒箱根迠往還停阻三日箱根の北一里
計小林と云所一丁許地陥民家二十潰れたりとなり塞(ママ)ノ河原所々崩れ又鎌倉金沢等も大に荒たりと云豆州一
諸(統、カ)午時より地震甚しきこと五六度なりと云山陸所々破
裂真名鶴金﨑赤沢仁田伊東布施熱海祢布川等大荒下田
津浪にて人家七分許リ浮失船三十艘許リ破損大なる烏
賊一丈三尺許なるか海浜ニ打揚られしとなん此時碇泊
せし魯西亜船突浪の為に礁へうち揚られ大に傾きしに
浪又来りて舶原(ママ、もと?)ニなるを得たりしか破損ありし故に大
砲ハ下田へ卸し原吉原の海辺へ寄て修造にかヽらんと
入来りしか其廿六日大風起り舶沈ミ夷長(ママ)弐十八人雑人
弐百人許其浦人に援けられ上陸せしに衣服皆濡しけれ
ハ我国の服を着せられ小屋営ミ御賄下されしとそ其内
女弐人乗込しと云又三嶋沼津等も震壊ありて火事甚し
といふ其あたり柏木村とて僅十数家の小郷なるか地陥
ること五丈其あと沼となれり其村十弐家没し人も十四
五人溺れしといふ己以村瀬筆記其余誌書
甲州郡内上ノ原猿橋西□(部、カ)市川梶川身延等山々大崩沼田
芹宿小拂(ママ、佛カ)崩高雄駒木野宿八王子杉山竹下□時坂足柄山
等多少崩吉原宿惣焼富士野(ママ)大宮宿等三四十家破壊冨士
川四日巳時頃より水落中人膝下はかりの深さにて歩行
渡りすへきやうなり是ハ水上山々崩れし所多く殊に穴
房と云処甚しく塞かり水漲きる事なかりしに二時はか
りして忽ちもとの如く漲り来りしを小川○○に聞けり
蒲原宿問屋より東焼□(津、カ)ハ多く潰へ損せり岩渕大半破壊
四分は焼けりとなり奥津の破壊多く潮も揚りしとなり
江尻大半焼失府中御城大に破壊城下三分焼破壊多く田
中大に荒失火あり丸子岡部等相潰へ藤枝半焼島田所々
壊此駅の下り道にて左手山村板坂といふ所此地震頃よ
り明る年まて不□崩れ民家埋まり人死せし事ありと
久川○○に聞けり大井川其時大水金谷破壊火事あり日坂家多く
潰たり油井駅のミ無事なりと云
遠江掛州宿四日辰時地大震駅舎悉倒火起所倒屋皆焼圧焼
死者二百人許城櫓門壁壊崩為其夜火光長弐尺許見空中移
時而不見云袋井駅震壊焼失見付駅亦廬舎大半潰
此時佐藤○○金谷より早暁出行辰中刻頃掛川へ至り問
屋にて馬荷付させ御用之人足継立場まて皆相済爰を出
んとせし時地忽ち震ひ馬子頼により馬荷切行き残る馬
荷ハ卸すに暇なく問屋[并|ナラビ]の屋惣崩にて人皆立行こと
能ハす佐藤も後れ咫尺の違ひにて瓦に圧さるヽを免れ
しか間もなく又大震にて向ひの片側惣倒にて又も打圧
されんとせしに[辛|カロ]ふして免れしとそ数千家の倒れ崩れ
し響きどさ〳〵と騷がしく煤(ママ)土なんとほこり立闇冥に
てありしかせん方なく倒れし屋へ揚り屋つたひにあゆ
ミ大手脇(カ)まて行しに御用物□□せられし速水殿ハ肩輿
に乗しか舁夫逃去けれと御用物無恙をよろこひあひ下
役林久吉等を率ひ馬荷解し所まて返り落たる荷物を拾
ひ取んと屋に圧れしをとも〳〵引除け取集め又立帰り
けるに其間屋の下に圧れ助けくれよとわめき叫ふ声い
と哀れに堪されとせんすへなく諸処の火焰ハ追々に焼
のひ地震ハやます行へき方なかりしに佐藤計らひにて
藤田卯之助同道にて惣門の倒れしを打越へ御城へ入し
に□(有、カ)司一人竹の壱尺五六寸なるを持たるに行逢尋ね咎
められしに[示|シカ]々の由申のへ且此変に困り行方なく候ヘ
ハ通しくれ候へと頼ミけれと[聽|キカ]すされど□ありし人な
りけれハ又思惟して申されけるハ今まて外人を通せし
事なけれと非常の節難渋致され候事ニ付通すへしと申
されしにとよろこひ立出て速水殿の鑓□箱諸器を手に
〳〵持せ又城へ入裏手へ通ぬけんとせしに番人共咎め
けれハ彼有司の指図なるを申て出たりし也皆々打寄休
息せしに速水殿の[羊肝|ヨウカン]ニ掉持たりしを十五人へ分給さ
せ夫より本道の脇を歩ミ山の手へ行大堀川橋落たれハ
林久吉負ふて越さしめたり紺屋あり宅も半ハ壊倒れり
家族薮の中に遁居たり食を求めけれと無し米味噌鍋釜
等勝手に用ひらるへしといふにそ取出し庭中に釜すへ
泥水にて洗ひ煮て申時頃始て食せし□ける所に同藩中
の士谷□家来四人とも来り又飯煮て彼家族共にも給さ
せけり夜中頃空を仰き見しに火光ありて長さ弐尺はか
り太さ三四寸なるか[艮位|ウシトラ]より[坤位|ヒツジサル]をさし現せ
り速中(ママ、水カ)輿中に寐られしを起し見せしめ不思議の事にい
ひあへり此光五六星四方の人多く見しと云一時あまり現せしにて其後ハ見えすなりぬ其夜
十六度地震あり此光物にてハ又いか様の変あらんとも
はかりかたけれはとて紺屋重次とて質(ママ、実カ)直なる者にて米を壱斗五六升つかひけれハ金五百疋与へ
けれと謝して領主の咎めを□り受さりしに強て留めけるにそ厚くよろこへりと云夜の明るを待爰を立
行んにハ志か〳〵と計りけるに人夫馬につかへしハ皆
自分の屋潰へ倒れたれハ誰も出応する者なく彼是いひ
聞し賃銭望ミに任すへしと□らしけれハ漸人夫馬壱疋
傭ひ馬荷を付人夫に持せ其余ハ手に〳〵持行しか道す
から家宅一箇も全きハなく皆潰へ焼たりすてに袋井へ
至りしに爰も掛川乃如く大方焼たり見付へ行しに爰ハ
半分ハかり潰たり家に圧されし人を出し救ハんとする
所にて宿役人家族も数々死したるよし本陣へかけ合宿
より少し離れたる所にて西光寺の庭に野陣し六日爰よ
り人足買揚け立行しに其道すから殊に天龍川あたり土
地大に裂け幅弐三尺も穿ちたる所あり天龍川の堤も自然低くさかりけると
見えて地震後土を増て堤を高く修治せしとなん人家のいたミハ見付よりハ又少
く浜松へ着又唯教院といふ所にて野陣し夜具ハ前とも
皆本陣より出し設けぬ
七日人足買揚本坂越し気賀迠行三ヶ日にて宿しける夫
より家の潰なけれと皆小屋作れり
八日御油 九日人馬継立鳴海迠十二日垂井宿爰ハ小屋
なく始て本宅に宿る是より伏見山﨑播磨等地震かろく
潰家も見さりしとなり
○佐藤邨□といへる人同四日日坂のこなたにて此地震
にあひしに路ハはけしくゆりにゆりて或ハ転ひ倒れな
とヽ正しく立こと能ハす木々の梢ハ打あひて□の左右
の樹さへも倒るゝハかり打ふるひ家々ゆり潰へ続きた
る廛ハ将棊倒しといふ様崩れたり其破壊の響きすさま
しく土埃あかりて四方の色□かち気たり其うちにも老
若男女のくるしミわめく声しいと哀れ成こと□ふへく
もあらす其夜ハ塩(カ)井河原にて宿りしに亥の時頃□(乾、カ)の方にあたり赤気の赫々と立しあり里人ともに見たりき明
る日そこを出て鳴瀧松田掛川袋井なと経しにミな焦原
となりぬ焼のこりしハ潰崩れてまたき家とてハなく見
付まて四里の間あれはてゝ目も当られなくありさま成
を写(カ)しぬ
其他驛々莫不震壊舞坂新井大震潮溢自是驛舎随近京師傾
壊差少云京師亦同時地震大坂殊甚同四日辰時地大震処々
家倒市人乗舟泛避者有之 五日申時又大震衆皆恐怖被屋
圧競乘舩避諸川及暮又震海潮忽漲衝勢甚♠(ママ)大小舩舶突揚
川岸橋々為船檣断落限大黒橋数百千之船混乱沓窄川中暗
黒裡男女老若叫喚乞救悲惨之声不堪聞茶船上荷諸色小船
被大舶凌没或破碎溺傷者殆千人許云
大坂十一月四日辰中刻大地震諸人走避んとあハて騒き
舟に取乘り屋の圧倒を免れんとす市中家潰崩れし所二
百許り寺五ヶ所と云五日申時大地震又天鳴酉時又大震
此時老幼男女多くハ冨有の家族こそつて船に乘り川々
へ泛ひ避け地震の患なしと安んし居りしか酉半時はか
り二丈程の突浪急に起り九条新田己西天保山あたりま
て潮大に揚り木津川尻無川安治川等へ押こみ弐千石積
己下大小の船とも川々へ押寄或川岸へ打揚先道頓堀筋
ハ大黒橋まて数ケ所の橋を帆柱にして押崩し此橋より
幸橋まて大小の船ともいやかうへに込入二重三重に押
つめたり本より射たる如き[急漲|ハヤナミ]なれハ進退叶ハす岸へ
寄る事あたハす舟主さへいかんともなし得すましてや
幼児老人とも小船に取乘り只あっと云ハかりにて入水
し老少のわかちなく泣叫ふ声し幾千万となくかなしく
むこき有さま言葉に尽しかたかりしとなん其時市人我
先にと上町さして走り逃るもの数をしらす夜半又大震
神社佛寺市廛倉庫破壊甚多くに付赤松蜆北子在坂にて
明る朝行て見られしに小舟ハ皆大船のした敷となり破
碎せるか数十の□顚倒混乱して川を塞き岸に溢れひし
〳〵とつみ込たることたとヘハ槌にて打こみたること
し川岸に沿ひ建たる屋宅これか為に押崩されたるも少
なからすとなり一説に溺死せるもの、顔色皆赤く猿の
ことくありしといふハ泣わめき皃色のさめさりしなら
んか扨其時溺れし数の如き安治川口凡百五十人幸町弐
百人其余町々とも合六百五十人男弐百六十三人女三百八十七人[被疵|ケガ]者其
数をしらす又川々にて船主又ハ他国入込の人々死傷に
至りてハ幾百とも弁すへからすとなり大小乃船凡弐千
三百余艘内木津川にて千四百八艘余千石巳上弐百余千石巳下四百余いさハ五
十上荷六百七十四茶船八十四安治川にて三百艘許り千石以上六十以下九十五いさハ三十上荷
百五十其余破碎せし船六百余ありといふ
愚生此度大坂川々の溺死を聞き歎♠(ママ)を発せしことし
ハ〳〵也いかにとなれハ地震の圧死を逃んとして一
概に舟を泛ふることを念して[海溢|ツナミ]の変あるを省ミ恐
れさるハ何そや幼童の不智にして然りしハ論なし[耆|ギ]
[老|ロウ]の口碑伝ハりたらんにハ石を添て制止すへきに数
十万人市井の民ともへ此前□ありしをしらて覆溺の
変に偶ハしめめし事悲歎に堪へか□す大地震大風に
ハ洪濤起りて舟くつかへり大民没溺すること昭代に
及ひてさへ歴々見つへし寛政三年十月大坂潮浜民舎多漂沒○安永三年十月大風高浪大坂
船覆り溺死千弐百人○宝永四年十月大地震舟覆溺死数百千人ハかり○元禄十六年十一月大地震諸国ともに海溢ありて人多
く溺死○寛文十年二月大風洪濤舟覆人多死是ハさきに編集せし水郷叢話に載たれハ爰にこれを略す都遠き海
浜の民とも地震にハ津浪の変を忘れて山へ遁ること
をしる是上策なり其民口碑伝ハりて数十百年相さり
ても其□をしらさるなし市民群集の地にてハ交易に
奔走しその様之故事なんとハ其時切にて言つたハら
さると見えたり海国窮村にても石碑立遺せし処多く
あり大坂繁冨の地にして其跡を聞かす然□自今石碑
を立後鑑に遺すへき歟曰爰ハ昔より度々の海溢あり
しに一つの石碑をたに立さるハゆへあり地を浪速と
も難波ともいひて人一たひ地名を呼ヘハ其変ある地
なるをしるへし何そ海辺石碑をたのまんや愚生拙待
あり地震大風舟覆多其如無認鎖□何休言那不立碑
□昔浪速今称難波
大阪之南為泉州堺地震海溢橋落者五紀伊志摩伊勢沿海之
地不免震隤多少海溢廬舎漂没民有溺死志摩殊為甚
泉州堺十一月四日辰時大地震所々家潰翌五日申時より
大地震津浪あり新地茶町北島米市場等溺死凡十人許り
被傷疵者亦多しあつ部橋さかへ橋龍神橋等五橋落たり
夫より岸和田貝塚佐野加多等所々大に荒たりと云紀州
同時大地震所々人家潰 同五日申時大震浦々津浪起湯
浅三千家内四百戸ハかり潰しとなり志摩四日辰時大地
震人家潰五日申時又大震津浪揚る城下諸士やしき等多
く潰溺れしあり海浜武家多く引流され溺死多かりしと
いふ伊勢同四日辰時大地震海辺津浪起り家漂ひ民溺
るヽことあり四日市驛五十余家潰たり五日申時大震地
裂け土蔵数十潰人家百数十潰人死去ありと云
攝津播磨沿海之地処々有潮溢山陽諸国地震安芸殊甚九州
地震豊後為甚
津の国西成郡所々新田并住吉浦等海潮の揚りし所計ふ
るにたへす尼ヶ崎兵庫西宮所々津浪揚りしとなん播磨
赤穂の城櫓崩れしとなり芸州城下大ひに荒しかと四日
火用心厳しく令せられしゆへ火事とてハ無かりしとな
り其国内にて安芸郡殊に甚しかりし也豊後の内鶴﨑人
家六分潰死人百五十人はかり府内四百家はかり潰死人
百人ハかり別府弐百家潰死人凡六十はかりといふ
淡路讃岐伊予土佐等大震土佐殊甚城下火起廬舎多焼人死
多沿海潮大溢地崩下町免火者同十六日大震潮溢市店漂流
甲浦浪高三丈関堡漂沒因海岸処々崩数不許外人入其境
淡州地大震近郊毛の井三十家許潰是為甚のミ福良潮高
四尺許りと云讃国豫州亦廬舎壊れ崩たるも有と云土州
十一月四日大震民家大に潰人死者多く甲浦百浜其余海
辺潮溢甲浦初ハ一丈五尺次ハ三丈許り三度之潮ハ初よ
り減せりといふ此変により沿海道橋崩落路難通により
四国巡礼禁して入ことを許さす何分日和佐より引かへ
りしなり
(注、以下は徳島県立文書館の解読による)
嘉永七年甲寅十月廿五日地震ありといふ
十一月四日天晴巳時頃、地大ニ震ひ家に居かたく人々
走出つ、屋の棟を見れハ浪のうねりの如く稍暫くして
止ぬ、其暮頃坤位より卯寅之方指して黒白の旗雲天を
[亘|ワタ]れり、幅弐尺許りに見たりとなん是ハ清露子の話也其夜半過赤
き雲気幾条となく北より東へ靡き天を亘れりと也
是ハ源久寺松堂和尚の話なり翌五日申時頃又大に震ひ急に走出驚きさ
ハけり、昨日よりハ甚しく障子襖等も倒れ建置たる物
或ひハ転ひ或ハ落損す、しハらくありて坤位に当り天
雲なきにどろ〳〵鳴響き譬ヘハ大炮弾の破裂の音を遠
く聞かことし、是もやゝ暫くして息ミぬ、昨日も東方
鳴響くことありしと云、昏暮に及んて近き町半鐘寺々
の梵鐘なと打鳴し、火事よと呼ほとに急き出て見れと
何方とも知れす、又しても地震催すこと数々にて、い
つもの火事と違ひ人々駆付も遅き様にて、愚生も火事
の趣をミハやと新町橋まて行しに其道すから畳・筵な
んと敷、地震を避居るもあり、荷拵へして立出んとす
るもありて町筋ハ火事場へ走る人少なしと見えたり、
右橋のあたりハ火事場より物持退き駈付なんとつとひ
てさハかしかりき、新シ町弐丁目に行しに小鳥屋潰た
り、火ハ其丁の東手まて焼来れり、塀裏へ廻りしに町
会所前焼たりしか、町側東へ焼行袖岡屋敷植ごミ有し
故、其屋敷皆焼さりけり、鷹取ハ夕方地震に皆潰たり、
風ハ東南へ吹付火勢熾んにして頓而魚棚方へ焼ぬけ浜
手の家とも危うくありけれと道堤間ありて免れたり、
塀裏堤の内外地震火事を避し人々少々宛家財物取出し
一円に場取して居れり、通町の一丁目之西端角煙管屋
家倒れ其傍火出、又魚棚蕎麦屋最初火出たるよし、賀
嶋之土蔵焼御屋敷延焼ニ而東南之方少々残りし也、通
町の火稲田家長屋の大壁倒れし所へ火移り、夫より賀
島家へ又移り延焼せし、稲田家うしろ手町へ隣りけれ
ハ一町余も白壁にて其軒裏ともに厚く塗たりしか、地
震にて右後手の長屋惣倒れに潰れたり、其所へ又焼移
り御座敷皆焼東手少々残りし也愚案にかゝる町屋へ近き屋敷にてハ植樹の冬枯せさる
を生へ茂らす 尤宜しく思ハる巳に袖岡の屋敷僅なる植込にて免るを見つべし又紀伊国町中町家二
棟も倒れ爰よりも火出たるよし、八百屋町焼、紙屋町
三丁目七分程焼たり、紀伊国町同断、新シ町三丁目少々
焼たり、此時長御蔵ハ勿論、新御蔵まて火のこ翻り飛
危ふかりしほと、遂に其東北手本町筋森御屋敷台所・
納戸等度々火移りかけしか、果して焼ぬ、扨地震中の
火事なれハ孰れも其身其まゝ走出たる人多く、たとひ
火之間も有所も家の潰へ圧れんことを怖れて重く大な
る物得持去ことあたハす、況んや二階に揚たる物なん
と多くハ其まゝ焼捨候に、時節ハ冬中にて何方に火を
発し、夕方飯炊く頃なれハ、飲食煮たきしなから走出
る者多し、町家の端シ遠き裏屋の一方口なんとハ早く
出去らねハ出へき路なく、不得止手早に身のまゝ走出
し者多しとなり、家もゆり傾き、蔵も裂て壁落たれハ
火も移り易く、其上火消方之者共いつもの如くあらさ
れハ、火ハほしいまゝに焼たり、紙屋町弐丁目壷家其
家倒れて七人一同に圧され、弐人ハ疵被れと命助かり
しか、男共三人弐人一人即死、その余圧されし者救ひ
助けくれよと声かきりに叫ひけれと、誰も助るものな
く遂に焼来りて焦け死せりと也、圧れて焼死する如き
其苦痛悲惨思ひやるへし、其上にも稲田長屋の其大壁
の下に圧されたる者弐人 三、四日後焼跡取除に及ひ
て彼者共溝の中に生存らへ在しを助け出せしもあり、
幸ひニして免るゝといふへし
愚按に、大地震にて家倒れ器財破損せるハ自然の事
なり、焼たにせすハ残る物多く、金銀衣類簿帳記録
名蹟等全きこと多分あるへし、倒れし家とても柱・
梁・板類・瓦等迄取用ひて小き屋を営ミ造らるべし、
たとひ家潰倒るゝとてうろたへさゝめき、遠く立退、
跡を顧ミす捨置ことなかるへし、家倒れなハ火起る
事と覚悟し、炉火の立起んことやあらんと鎮火の用
心専ら心懸へき也、天保元年京都大地震にも火災起
らす、宝暦元年之時も火不起、其時火の用心警衛も
厳なりしやう見えたり、宝永四年御国大地震にも火
災あらされハ困苦のなく、且ハ金銀財物灰燼にする
ことを免かるへし、扨此度之地震五日七時発せし時
内町魚棚中大歟西屋通町壱、二丁の間、又中町の家潰た
るより火起れり、是迚も屋崩れて一時計りありて火
起りしなれハ、火の用心に油断なく火の伏られてあ
れハ起るへき用心を構へて備へさらんにハ、火ハか
く迄大ひならさるへき也、又倒潰れたる家なれハ、
梯子を高く用ふるまてもなく、平日の火事より手軽
く防かるへきやう語りし人あり、尤なる説也、只地
震に辟易して火を防に心力を用ひさるよしハ、いと
も残念なる事ならすや
此時長御蔵ハいふも更なり、新御蔵へも火の粉頻りに
飛落危うかりし程に、遂に其北本丁筋なる森中大夫御
屋敷台所納戸等度々火飛来り焼かゝりしか、果して[許|ソコ]
[多|バク]の間焼たり、其隣池田上大夫之御書院傾き、所々破
壊し、蜂須賀上大夫長屋御座敷廻破損せさるハなしと
云、又蔵納屋等数所倒れしよし、又仁尾・蜂須賀等中
太夫の御屋敷大に破壊あり、新御蔵丁武藤・山田・長
坂等中大夫御屋敷破損多く、本丁新御蔵丁西尾二家・
前田等大に破壊なり、南浜倒れ破れ少なく、北の丁長
井も破壊なり
寺島口御門台櫓少々損せしなり、其見張御番所ハ潰た
り、福島口御門櫓瓦大ひに落、見張同断潰れたり、助
任口ハ見張のミ少々傾きし也
御城櫓・塀等瓦一枚落たる処なく破損の体見えす、又
福島町本丁筋へ引廻し壱町ハかりの処潰たり、夫より
寺澤中大夫の屋敷大に破壊あり、其向多田も破損せり、
東の丁甚しく慈光寺書院・経蔵・鐘堂其余二屋破壊せ
り、東照寺方丈其余悉く潰へ崩れ、観音堂一宇残るの
ミ、本福寺方丈大破、其余書院・庫裏等皆破壊せり、
四所明神拝殿其余神職の家とも皆潰へ壊れり、神殿ハ
半ハ壊れ後口の方全く潰もせず、神威しるへし、其南
側両蜂須賀・長谷川皆中大夫なる、此傍り南北に建た
る家ハ損し少なく、東西に建たるハ破壊多しとなり、
右三家も崩潰中内も破損あり、中ノ丁ニ而藤川・猪子・
下條・樫原・望月・梯・篠山・江口、浜側ニ而小林・
三宅・山崎・山川・尾関・岡島、桜馬場にて大岡等ミ
な六、七百石已下の炮将騎士等にて候所、或ハ崩潰へ
破壊甚し、其余所々破損の分勝て計ふへからす、中大
夫已下諸士宅寺等の破壊此島ことに甚しき也、其西浜
側商屋ハ破損少しとす、是より築地・大工島民屋或ハ
崩れ或ハ傾き破壊せる事甚多く、安宅破損少く、沖洲
却って傷ミ少なし
住吉島にて仁尾・長谷川・牛田・森・佐野・六田槙島
等或崩潰破壊して、残りし長屋門・塾(壁カ)等も多く損せり、
其余諸屋敷破壊せる多し、住吉宮拝殿・神輿堂・鳥居
皆崩潰たる、神殿二座卓然として動かす、蓮花寺方丈
のミ無恙、其余皆崩潰、鐘堂傾きたり、御材木屋大ひ
に破壊せり、其余野路村とも民屋ハ却つて傷ミ少なし、
其村にて宮本嘉吉とて御供在江戸の処病死せしに、其
凶問之状開て泣々読居たる内家ゆり出し、状を持なか
ら庭へ走出しか家ハ潰たり、是は十五、六年前固く営
ミ建しことなるに猶かくの如し、愚生の親類にて行て
弔ひしに、屋ハ潰へ砕るのミならす器財まて多く打砕
けり、其川向ひ、西ハ大岡の馬の背といふ所三、四家
潰たり、大岡本丁筋二、三百石取之諸士多く潰たり、
先算ふる所中野・飯沼・津田・片山・原両家其余も破
損なり、此度潰へし旧家の内、宝永四年地震後普請の
家多くありしこと也、山王宮拝殿潰けり、此辺の御鉄
炮組破損ハ有へけれと潰へしハ不多、助任町森屋小路
より北殊に甚し、右小路南角一家潰れ、其余三、四家
破壊、北手浜側大方潰倒、裏町東手半丁ハかり潰たり、
其向ひ側多く破壊せり、其浜手新道壱棟潰たり、町向
角柏木八百石の炮持なるに御座敷大破、町大方潰たり、
本町筋にて、庄野・林・佐々・安富・津田・中村・山
本・山岡等尤潰倒其余破壊せしも有、又春日之神輿台
潰れ砕けり、弘誓寺破壊多し、八幡拝殿・小社とも破
壊、其南手之町長弐丁程五日暮方皆焼たり、馬場北手
商家二、三家潰けり、万福寺方丈之外皆潰たり
西町津川とて大ひなる材木屋にて 上の御用聞なるに
家潰たり、是ハ長さ十七間に高さ軒口にて三間あり、
前へ倒れて道塞り、此家の後口を往来とせり、夫ニよ
り北前町裏店数屋潰れたり、津川の向ハ萱葺の屋宅な
るに一家も潰たるなく、何分高大なる故かく潰しと見
えたり、夫より上助任五丁ハかりの間七分程ハ潰倒れ
り、一家焼たれと早く打消たるよし也、町はなるる川
に臨ミたる向合セの家ハ恙なく残りたり、潮水道上へ
少々揚りたるのミ、金子三昧庵潰たり、中野村まて少々
潰れたる家あり、西上助任町筋のミ甚しきのミ
前川・出来島にて処々少しつゝ破損ありしよし、大津
中大夫大屋・伴・青山等浜側の方破壊甚し伴の裏にあたり一家破壊甚
しきかりき、其親の病人臥床を舁出し避しか伴の土蔵倒れて圧死せり
となん土蔵も堅固にて崩るべきにあらされ共猶斯の如し
又新町ハ大ひに震りけれと、内町の如く甚しからさり
し故にや、屋の潰たるハ表店にて二棟のミ也、籠屋町
の南角紺屋町筋へ引廻し一丁たらす潰へたり、又冨田
町南角これも紺屋町筋半丁程潰たり、其角の屋出火あ
りけれと早々消たり、此両所ハ冨田中ノ町通故にや、
かく崩潰に及ひし成へし、中ノ町四丁中程より東殊に
甚し、是より東へ当り中園廻大荒にて、此所ハ商夫・
職人・雑民とも群居し、家並も犬牙の如く出入ありて、
惣てハ六、七町もありなん、大方潰倒れて、残り家ハ
破壊を免れす、又其東に斎田とて南北につらなり大な
る浦なり、此浦潰家六十八家其余倒れすして破壊する
家数しらす、此浦東ハ入海にて潮も平水よりハ五、六
尺高く押来りしほとに、すハ津浪よと忙て騒ぎ十丁は
かり西なる勢見山へ逃登ること数度に及ひし也、其他
出を伺ひ盗の入し家もありし也、爰にも松本某とて前
店ハ潰へ、居宅三棟も皆破壊にて、入らんとするに危
ふく覚へしほとなり、是も愚生の従弟にて、其取除け
小屋懸等に辛労苦身せしを知りぬ、其同姓の士人なる
方に彼津波を避けたる跡にて居宅こと〳〵く焼たり、
是より東南一ツの大川を隔て津田浦あり、此所ハ西に
山ありて三百余家の浦なるに、壱家も倒れしハなく、
海を受たる所なれハ潮ハ松原迄揚りけれと、民家ヘハ
不入と也、先年の地震にハ其八幡馬場まて潮来りしと
也、此浦の東南より北へ連りし高潮とて長さ三十余丁、
高さ弐丈ばかり、幅ハ五、六丁ハかりもありなん、此
度の海溢に余程突崩したり、此高潮なき時ハ津田浦・
沖洲ハいふも更なり、徳島新町川筋水漲り危ふきこと
あらんも測るへからす、既に津田立岩のありし廻にて
八拾石計の伊左波船覆り、檣にて船底を穿ちたりしと
也、其余泊り居りし船共、津田川の上大松川の口へ突
入られしもの数多なりしと云、津田の戌の方に当りて
山城張といふ小村あり、民家三十余家の内十家ハかり
潰たり、又其西北の方北浜にも二家潰たり、南浜ハ八
家ハかり崩潰たり、北浜の一家ハ愚生の従弟なり、古
屋なれと固く営ミ地形も少し高く築たるに不思議に潰
たり、是より南近郷大に荒し事少く、東冨田所々破壊
の家もあり、西冨田同断なれと山近故にや却つて少し、
勢見金毘羅宮も丈七尺の石磴少々もくるひなく、其余
数十基傾敧なく、其他宮寺も山近の分ハいたミ少し、
佐古町ハ九丁目より西破壊多く崩れ倒れし、又小裏・
大裏より佐古[墾|ハリ]まで所々倒家もこれあり、破損も不少
といふ、其郷分に至つてハ国府中村也殊に甚しく印鑰
の社破壊し神殿ハ全く其前町大方崩潰たり夫より石井
辺、并麻植等処々荒たりし
又下寄辺撫養下道諸村新田突浪に恐れ衆皆西山あたり
へ逃去家にハ一人残り居るもあり、錠おろし出るもあ
りし也、是ハ長原の漁人海上に出て魚取しか、南方海
部沖雲の過る如く大涛起り去来せるを見て急き帰り今
にも突浪の襲ひ来ると心得逃仕度して夜具什物を馬に
負せ立退しかハ其他数十村ミな〳〵聞伝へし我先にと
逃去しと也、鯛浜・馬詰廻地裂ること甚しきハ幅一丈
余長二丁許も有、則処々裂間泥水湧あかり田地水あか
り地噴出したる有之、只宮島・鶴島・別宮等は金毘羅
宮を信し安んし居りしと也
又撫養ハ潮の高き所一丈四、五尺に過すと也、ひとり
高島の民舟を乗衆とゝもに逃れしか、七歳の児を溺ら
したるのミ也岡崎平水より四、五尺増たりといふ、淡
路福良渡海場、平水より四尺増たるのミされと突浪を
畏れ、何れも山へ登りしと也 須本府下潰たる家もあ
れと少しとす、只下毛乃井と云一村城下廻にて村中三
十家はかり或潰へ、或破損ありしといふ、又 徳府よ
り二里はかり南小松島とて富商多き也、国交易を開た
り、五日夕地震後海潮北町の軒下まで突来りしか、す
ハ津浪よと承ハるほとに衆皆日の峯へ登り避しか、倒
家より火出けれと火消ものとてなく焼ゆくまゝまゝに
浦中九歩ハ焼たり、西北僅かに残れり、祇園社北の地
蔵寺等残れり、孰れも身のまゝ走避家財悉く焼たれハ
難渋いはんかたなし 御上より早々小屋打、粥を賑ハ
し[撫恤|ブジュツ]なし玉へり、其時野上屋某同しく炎焼せしかと
島中火災に[罹|カヽ]りし者共へ銀札五十目宛施セし、其後播
磨屋某も壱人に米五斗俵一ツ宛島中へ施せしと也
愚按に此島古来海溢の災ありしを聞す、又火災の数
家に及ひしも希也、さハいへと又如何なる海溢あら
んこと[測|ハカリ]かたき、曽て無りし火災の起りし如くなり、
是まて海溢の災なきハ地勢によりて然る事なるへ
し、海部より拾里余り内へ入り山岸のかこひたる嶮
岨の地にありて広平の浦なり、縦ひ海部の如きさへ
大里なんとハ海浜潮の揚りし痕なし、南海に臨ミた
る地にして尚かくの如し、是も地勢に因て然る成へ
し、海浜の恐れなきにハあらすと大に周章し失火を
見捨て隔たる山へ逃登るにハ及ふましと思ハる、此
顚沛騒動あらさらんにハかゝる火災にハ至らさるへ
し
赤石村山添の所壱丁計潮打入、座上弐、三尺、是ハ五
日暮方より戌時まで五度浪来りしよし、三ツ井利・四
ツ井利とも大ひに崩れたり
橘浦百七十七家之内二十二家流、百三十四家潰、下福
井村八十八家之内四家流、五十四家大破、阿部浦百六
十家之内四家潰、十六家大破、弐人流死
愚按此浦に一家小児弐人迄家にあらしめ、徳府へ出
し跡にて十歳余の児ハ逃助かり、七歳許の児ハ浪に
打れしと也
志和岐六家潰けり
東由岐百七十九家之内百四十七家流失、大家潰、男女
拾五人死、西由岐二百八家之内百九十九家流失、六家
潰、全きハ三家のミ、拾六人死、浪立こと却島の内の
ミ伊佐波船に檣立たるか浪に隠るゝハかり也大浪弐度
来り次之ハ甚しからずと也田井村四十家之内七家潰、
十六家大破、突浪先此浦へ入引立て由岐へ入しといふ
男一人死す
木岐浦弐百三家之内百九十家流失十三家多少破損、寺
弐ケ所大破、十人死す男五人女五人
同支村 五拾弐家之内七家流失、十二家多少破損
夷浦 男十三人
日和佐浦弐百七家之内二家潰、四十二家潮入、津浪入
麦畠多損せり、浪ハ薬王寺下半丁ハかり前まて来りし
也灘村六十六家之内二十九家流失川長村四十家内十六
家流失、三家潰中村百弐十九家内三十六家流、九家潰、
五家大破、七十一家潮入、男一人死
牟岐東浦三百五十八家之内三百五十六家流、二家汐入
十七人死男九人女八人
西牟岐百七十五家皆流、男弐人死
内妻 三十六家之内十三家潰、二家流失
出羽島六十八家之内三十一家流失、二十五家潰、四家
潮入
浅川浦弐百余家皆流失、寺三所大破、男女三人流死
一人男二人女
大里鞆浦等無難
那佐東手之堤崩田へ潮入家数所潰
宍喰浦二百八十家之内百三十家流失、百四拾七家潰、
男女七人一ニ男五人女三人流死東浜之堤皆崩宝永四年より海潮低きこと三尺と云
竹ケ島四十八家之内三十八家潰、家大破とも
一大荒之分 宍喰浦 浅川 宍喰浦 浅川浦 同村 牟
岐東浦 同西浦 中村 出羽島 木岐浦 西由岐浦
同村 同東浦 家数凡二千六十一家 内六百二十一家
流失六十五家潰、二十家潰同断、二百十二家潮入傷 百
三十二家無難
中荒之分 川長村 灘村 内妻村 木岐村 田井村 六
十七家流 六家潰 廿八家汐入傷ミ 百弐拾九家無難
小荒之分 久保村 鞆浦 奥浦 日和佐浦 恵比寿浜
志和岐 安部浦 家数凡千五百七十三家 内五家流、
同六十八家潰損、百七十一家汐入傷ミ、六十一家損、
千弐百六十一家無難
右惣家数三千八百六十九家 内千七百五家流失、九十
七家潰、七十二家傷ミ、残千五百弐十家無難
男女溺死凡七十五人内四十四人男三十一人女
一魚御分一所十三軒内六軒流、五軒汐入傷ミ壱軒大破、
一軒無難
一諸木御分一処五軒 内三軒流、壱軒汐入傷一軒傷
一高瀬所 二軒無難
一御米蔵 六ケ所 内三所流、一所汐入傷一所潰、一所
無難
一御番所四軒内弐軒流、二軒汐傷
一寺四十二ケ所 内三寺流、二寺庫裏流、八ケ寺汐入傷、
二十九寺汐入(ママ)傷
一庵三十軒 内六軒流、二軒汐入傷、二十二軒無難」
四宮氏地震筆誌