[未校訂]221 古志家旧記続永代録
嘉永五年~明治五年
(府中市史史料篇 千葉県八千代市 古志家蔵)
一嘉永七甲寅十一月四日朝五ツ時頃ちいさき地震ゆり、
よく五日七ツ時大地震ゆり、皆々大心配いたし、当家
大桶の内ゆりこぼれ、もろみなとも同様ニゆりこぼれ
申候、夫より裏の麦畑へこやをたて、仏前の内片付不
残包、古志浦上の系図又ハ帳面なども包、家内引連レ
拙者毎夜〳〵こやへ泊りニ罷出申候、外方ニも皆々当
家のごとく野こやへ罷出申候、尤其後ハ厳鋪事ハ無之
候得共、跡百十四五日計ハ昼夜少々ゆり申候、当家ニ
ハ貸家ニ至迄損無之候、当所地震ハ近辺の様子承候得
ハ、ゆりすくなく、御城下・鞆津・尾道・笠岡辺厳鋪、
家なとも崩候、当所ハ下辻町古家壱軒倒、怪我人壱人
御座候、其けが人と申人ハ、隅屋清平と申候人の後家
ニ御座候、此清平と申人当九月ニ[鰒|ふく]を喰相果申候、此
後家段々不仕合の人ニ御座候
同十六日夜大雪ふり、弐尺計つもり申候、誠に珍鋪事、
古キ人ニ尋候得共、覚不申雪と申事に御座候、又同月
廿五日風雪厳敷候処、海なり申、いかゝの事とふしん
ニそんじ居候処、案外雷きひしくなり申候、其跡二三
日風夥敷吹申候、空木ニハ人家二軒たをれ申候
大坂より大坂近辺地震凡しるす
同十一月四日朝五ツ半時より大地震ゆり初メ、凡半時
計ゆり、市中人々東西南北ニはせまろび、其そうどふ
いわん方なし、大坂市中崩れ或ハゆがミ、又ハひしな
りに相成候処筆紙ニつくしかたし、市中に崩れたる所
凡弐百余ケ所、宮寺なとも大ニくづれそんじ、天王寺
塔ゆがミ有之、然ル所よく五日七ツ時又々大地震、半
時はかりゆり、夫より何方ともなく大ニうなり、皆々
おどろき、其[雷|おと]にひと〳〵市中大ニさわぎ、又々暮六
ツ時ニ大地震、半時計ゆり、同六ツ半時頃[沖|をき]より弐丈
計なる大津なみ出来り、誠に海辺のそうとふ目もあて
られぬ事なり、然ル所安治川筋ニ数千の大船小舟とも
一時ニおり重り、川筋さしてなたれこミ、とうとんほ
り川筋にてハ、日吉はし・汐見はし・さいわい橋・住
吉はし・金屋はし、長ほりニ而ハ高橋、堀江川ニ而ハ水
わけ橋・黒かねはし、此外安治川はし・亀井はし一時
ニおち、数千のふね大黒様ニ而山のごとくニ重り、その
下じきになり候人壱人もたすかるものまれなり、市中
町人四日の地震におそれ、皆々茶船家形又ハ三千石な
ぞにのり、夜あかしする人夥鋪有之候処、其近辺に居
合候舟悉くくだけ、おほれ死す人何百人の其数しれづ、
大船小舟のくたけたる事、又けが人、人家のそんじ崩
れ、都而川筋のそんし、新田通り海岸の人家ハ申ニおよ
ハず、其夜市中の人々ハ八方へさんらんする事まこと
に前代未聞の珍敷事なりといふ事大坂ニ而死人凡一万人と申事也
泉州さかいより大坂近辺
堺市中大つなミニて大こんざつ、人家壱軒もぶしなら
ず、夫より佐野近辺より貝塚・岸の和田すべて此近辺
往来筋悉く崩れる、そんしたる処数しれず、尼(崎脱カ)・兵庫・
西宮すべて此近辺大津なみにて、大坂同様の事、奈良
大和路ハ大地震ゆり候得共、くづれ又ハけが人無之候
由
右地震ニ付、当国沼隈郡神村に田の中より湯出申候、
早速御上江村方より達しに色御見分み御座事ニ承り申
候、今津辺ニ而者此湯をたごニて持かへり、風呂たて申
事ニ承り申候、雲州松江華屋当家江参り相噺申候
一安政二年乙卯年も度々地震ゆり申候得共、少々宛之事
ニ御座候、同年承り候処、江戸表ニおゐて十五六の眼
変成男子ニ相成申候、すでに赤坂村庄屋長三郎と申候
人其眼見帰り申候間実正也