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項目 内容
ID J3000988
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔笠岡市史 史料編中巻〕○岡山県笠岡市史編さん室編H13・6 笠岡市発行
本文
[未校訂]221 古志家旧記続永代録
嘉永五年~明治五年
(府中市史史料篇 千葉県八千代市 古志家蔵)
一嘉永七甲寅十一月四日朝五ツ時頃ちいさき地震ゆり、
よく五日七ツ時大地震ゆり、皆々大心配いたし、当家
大桶の内ゆりこぼれ、もろみなとも同様ニゆりこぼれ
申候、夫より裏の麦畑へこやをたて、仏前の内片付不
残包、古志浦上の系図又ハ帳面なども包、家内引連レ
拙者毎夜〳〵こやへ泊りニ罷出申候、外方ニも皆々当
家のごとく野こやへ罷出申候、尤其後ハ厳鋪事ハ無之
候得共、跡百十四五日計ハ昼夜少々ゆり申候、当家ニ
ハ貸家ニ至迄損無之候、当所地震ハ近辺の様子承候得
ハ、ゆりすくなく、御城下・鞆津・尾道・笠岡辺厳鋪、
家なとも崩候、当所ハ下辻町古家壱軒倒、怪我人壱人
御座候、其けが人と申人ハ、隅屋清平と申候人の後家
ニ御座候、此清平と申人当九月ニ[鰒|ふく]を喰相果申候、此
後家段々不仕合の人ニ御座候
同十六日夜大雪ふり、弐尺計つもり申候、誠に珍鋪事、
古キ人ニ尋候得共、覚不申雪と申事に御座候、又同月
廿五日風雪厳敷候処、海なり申、いかゝの事とふしん
ニそんじ居候処、案外雷きひしくなり申候、其跡二三
日風夥敷吹申候、空木ニハ人家二軒たをれ申候
大坂より大坂近辺地震凡しるす
同十一月四日朝五ツ半時より大地震ゆり初メ、凡半時
計ゆり、市中人々東西南北ニはせまろび、其そうどふ
いわん方なし、大坂市中崩れ或ハゆがミ、又ハひしな
りに相成候処筆紙ニつくしかたし、市中に崩れたる所
凡弐百余ケ所、宮寺なとも大ニくづれそんじ、天王寺
塔ゆがミ有之、然ル所よく五日七ツ時又々大地震、半
時はかりゆり、夫より何方ともなく大ニうなり、皆々
おどろき、其[雷|おと]にひと〳〵市中大ニさわぎ、又々暮六
ツ時ニ大地震、半時計ゆり、同六ツ半時頃[沖|をき]より弐丈
計なる大津なみ出来り、誠に海辺のそうとふ目もあて
られぬ事なり、然ル所安治川筋ニ数千の大船小舟とも
一時ニおり重り、川筋さしてなたれこミ、とうとんほ
り川筋にてハ、日吉はし・汐見はし・さいわい橋・住
吉はし・金屋はし、長ほりニ而ハ高橋、堀江川ニ而ハ水
わけ橋・黒かねはし、此外安治川はし・亀井はし一時
ニおち、数千のふね大黒様ニ而山のごとくニ重り、その
下じきになり候人壱人もたすかるものまれなり、市中
町人四日の地震におそれ、皆々茶船家形又ハ三千石な
ぞにのり、夜あかしする人夥鋪有之候処、其近辺に居
合候舟悉くくだけ、おほれ死す人何百人の其数しれづ、
大船小舟のくたけたる事、又けが人、人家のそんじ崩
れ、都而川筋のそんし、新田通り海岸の人家ハ申ニおよ
ハず、其夜市中の人々ハ八方へさんらんする事まこと
に前代未聞の珍敷事なりといふ事大坂ニ而死人凡一万人と申事也
泉州さかいより大坂近辺
堺市中大つなミニて大こんざつ、人家壱軒もぶしなら
ず、夫より佐野近辺より貝塚・岸の和田すべて此近辺
往来筋悉く崩れる、そんしたる処数しれず、尼(崎脱カ)・兵庫・
西宮すべて此近辺大津なみにて、大坂同様の事、奈良
大和路ハ大地震ゆり候得共、くづれ又ハけが人無之候

右地震ニ付、当国沼隈郡神村に田の中より湯出申候、
早速御上江村方より達しに色御見分み御座事ニ承り申
候、今津辺ニ而者此湯をたごニて持かへり、風呂たて申
事ニ承り申候、雲州松江華屋当家江参り相噺申候
一安政二年乙卯年も度々地震ゆり申候得共、少々宛之事
ニ御座候、同年承り候処、江戸表ニおゐて十五六の眼
変成男子ニ相成申候、すでに赤坂村庄屋長三郎と申候
人其眼見帰り申候間実正也
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 1053
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岡山
市区町村 笠岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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