[未校訂](嘉永七)同年十一月四日朝五ツ(午前八時)過ぎに始まった地震
は、大変な地震であった(安政の大地震というが、が改
元は十一月二十七日)。地震はその後も続き、
五日、七ツ半(午後五時)ころ前、四日五ツ過ぎの
地震よりも又々大事。なかなか家の内にいる者一人
も御座なく候。残らず外へ逃げ出し申し候。それに
付、家々のかど(前庭)へ小屋を立て用意致し申し
候。しかる所、右五日夜、両三度も大にゆり候に付、
四、五日ほどは家内右小屋へ行き、住居致し、昼は
ゆらん間には居り候えとも、ゆりだし候えば直に右
小屋へ行き、夜分は勿論段々軽るなり候え共、節季
中又しても又してもゆり、誠に生まれ来て生きたる
甲斐もこれなきくらいのことに心配いたし申し候。
と、南海道沖地震(マグニチュード八・四、等級四、津
波階級三と推定)の恐ろしさを記している。
自然災害、はやり病、物価の高騰など、幕末期は人々
の生活を[脅|おびや]かすことが多かったが、それに対する幕府・
藩の施策は十分とはいえず、異国船の来航とも相まって、
世の中は大きくかわろうとしていた。
ときには、行者堂の前に百畳敷きほどの仮屋をこしらえ、
雨風にも耐えられるようにしたのである。このことを記
録した北志野村の児玉嘉兵衛は、ご祈禱のおかげで三月
末には異国船も引き取ったと安堵の胸をなでおろした
(近世史料311)。
ところが、嘉永七年九月にはロシアの軍艦ディアナ号
が紀伊水道を上下することとなる。このときもまた上下
ともども大騒ぎとなり、海岸を防備するため粉河町地域
の村々からも人足の差出が重なった。この人足賃につい
ては藩からの手当てがなく、すべて村方で受け持ってい
る。
ところで、このころ日本周辺は地殻の大きな動揺期も
迎えていた。嘉永七年ごろから安政初期にかけて近畿・
関東の各地で大きな地震があい次ぎ、また太平洋岸一帯
では東海・南海の巨大地震に見舞われた。多くの人びと
が死傷し、精神的にも経済的にも打ちのめされた。地震
を経験した人びとは、外国人の到来とあいまって不安の
気持ちを増進させたのである。
先に見た児玉嘉兵衛は、嘉永七年六月十四日の伊賀地
方の地震も記録しているが、同年十一月四日から翌年正
月ごろまで続いた東海・南海地震とその余震の状況につ
いても詳しい記録をのこしている。この地震は、四国か
ら東海・関東地方の広い範囲にわたって大きな被害をも
たらしたものであるが、粉河の地域にあっても人びとを
恐怖におとしいれた。紺屋の藍壷(つぼ)などは壷屋も
庭も全部藍液が流れ出した。家の中におるものはひとり
もなく、のこらず外に逃げ出した。そして、家々のかど
に小屋をたてて、揺れたと思えばすぐにそこに逃げ込ん
だ。まことに「生まれ来ていきたるかいもこれなきくら
いのことに心配」したのである(同前)。
このときの地震については、「嘉永七年寅十一月/当四
日以来大地震ニ付、稼向キ無之甚難渋之趣相聞候ニ付、
救米[遣|つかわ]ス人別帳」と上書きされた長帳が一冊、八塚家文
書のなかにのこされている。門前町粉河の一町ごとに、
上に家族人数、下に戸主の名前が一人ずつ記されたもの
で、合計二〇二軒、六一一人分の名前が書き上げられて
いる。約一五年後に当たる明治三年(一八七〇)の粉河
村の戸数が七三五軒(寺庵を含む)、人員三五六九人(僧
尼を含む)という数字がある(第四巻近現代史料66)か
ら、戸数にして約二七パーセント、人数にして約一七パ
ーセントということになる。
嘉永七年はこのときの地震をきっかけに安政元年と改
元されるのだが、地震の結果仕事を失った人びとが門前
町粉河において全戸数の二七パーセント、二〇二軒にお
よんでいたということは、地震がどれほどの破壊力を示
したか、その被害がいかに広範におよんだかをうかがわ
せてくれる。いっぽう、この記録は、粉河の町には粉河
の町自体を生活の基盤としてその日その日を送っていた
人びとが多く住んでいたこと、地震がそうした人びとの
生活基盤を直撃していることも示してくれている。名前
の上に職業や屋号などが注記された者も多いが、大工・
床(床屋)・かけつぎ・「ヲニ」・おけや・かごや・かけと
り・はりなどの職業名も注目されるし、また、おたけ・
おとめ・吉兵衛後家・安兵衛後家・惣五郎後家・嘉市後
家・おまつ・おやす・おきぬ・おきく・おつる・おたか・
おいよ・くめの・よしへ・とよのなどの女名前がたくさ
ん出現していることも注目できる。これらの人びとはい
わば社会的弱者であったと思われるが、こうした人びと
の生活を地震はさらに強く直撃したのである。