[未校訂]安政元年東海大地震
世に言う「安政の東海大地震」は、発生
が嘉永七年(一八五四=安政元年)十一
月四日のことである。大地震ともなれば、内陸部におい
ては火災、沿岸部においては津波の被害が最も心配とな
る。折しも、下田港にはロシア船ディアナ号が碇泊中で、
この船も被害に遭ったことは衆人の知るところである。
この時のようすが、戸田村教育委員会刊行『ヘダ号の建
造』に詳細に報告されている。これによると、津波は前
後九回、三時間程継続し、
二〇分間毎に襲ってき
た。下田では全戸数八五
六戸の内、全壊流失八一
三戸、半壊二五戸、一八
戸が無事。三九〇七人の
人別のうち八五人、下
男・下女・旅人・近郷の
者を加えると、五~六〇
〇人の溺死者があった。
湾内は家屋や舟の破片や
屍体やら家具類など無数
の雑多な物体で覆われ、
あたかも海岸線の延長の
ような観であったといわ
れている。
この地震の震源地は紀
伊半島南端で、推定マグ
ニチュード八・四、とり
わけ大坂と下田が大打撃
を蒙り、津波による下田
湾の水位は一三メートル
も持ち上がったとされて
いる。伊豆各地の海岸線でもとくに駿河湾側で津波の被
害が大きかった。内陸部でも三島宿の大火災をはじめ、
各所に被害が出た。
長崎村は、元禄十一年以来、韮山代官支配地(宝暦九
年以前は三島代官支配)を含む七給地で、寛政十年(一
七九八)には三五軒の家があった(韮山町教育委員会『村
明細帳収録』)。地震による被害のうち、代官支配地分は
不明であるが、六給地分については表1―57にまとめた。
この地震に対して、領主から一二両の救助金を下賜され
た。(五下―309・321)。
被害状況は不明であるが、寺家村にも五〇俵の御救米
が下され、やはり被害があったことがわかる。また、隣
の四日町村では、家数九五軒のうち、五〇軒が全壊、二
〇軒半壊、二九軒大小破、土手和田村では、二五軒のう
ち、一〇軒大破、一五軒小破、全半壊はなかったという
報告がされている。そして、田畑には被害がなかったが、
四日町村の用水路普請所・土手・野道は大破したとして
いる。(五下―308)。
この地震によって三島宿は、一〇七八軒の内、問屋場
等を含め九八六軒が潰れ、さらに火災により四五軒が焼
失した。このように被害の大きい三島宿はとても通行で
きる状態ではなかった。しかし、前述のように、ロシア
船が下田に入港中であったので、下田へ通行する諸家は
表1-57安政元年大地震長崎村領主別羅災状況
高田斧次郎知行所
武島内蔵輔知行所
三宅三郎知行所
酒井作次郎知行所
能勢十次郎知行所
久野伊三郎知行所
居宅
潰2、大破2
潰1、大破1、小破2
潰1、大破1、半潰1
潰1、小破1
半潰1、大破2
大破損2
その他
小屋潰2
小屋潰1
小屋潰半1、土蔵大破3
小屋潰1
隠居いたみ1
救助金
3両
2両1分
2両
1両2分
1両3分
1両2分
南条から桑原(函南町)を継場として、山中箱根へ入っ
ていかざるをえなかった(橋本敬之「近世伊豆の地震史
料」『静岡県史研究』第五号)。
伊豆長岡町内も家屋被害は明らかではないが、江間堰
を中心に大きな被害があったので(南江間・津田家文書)、
今後、内陸部の被害状況も、史料が多く発見できるとさ
らに明らかになるのであろう。