[未校訂]安政元年の大地震・大津波
〈土肥〉
(前略)
土肥の「安政の大津波」罹災の状況は、現在、土肥町
教育委員会所蔵の「鈴木家文書」で知ることができる。
乍恐以書附越御注進奉申上候
一今四日晝四ツ時頃 大地震而ニ沖合より高波打揚 海辺
人家多分押流 人死怪我人等有之 猶又御年貢籾押流
諸所江散乱流失ニ相成奉驚入 今以震止リ不申故 此上
如何様成儀出来可申哉 乍恐以書付越御訴奉申上候
以上
豆州君澤郡土肥村
名主 仁兵衛
嘉永七寅年十一月四日
韮山 御役所
「本日四日午前九時頃、大地震によって沖の方から高波
(大津波)が襲来し、海岸近くに住む人達や民家が押し
流され、死人やけが人が出ました。更にまた御年貢[籾|もみ]も
流され、あちらこちらに流失してしまいまして、驚いて
いる次第であります。まだ余震が続いておりますので、
これからどのような事態になるものでしょうか。(不安で
一杯であります)先ずは、書面にて御報告申し上げます。」
この文書が、土肥村名主・仁兵衛から韮山代官所へ報
告された「土肥村・安政の津波情報」の第一報である。
江戸時代末期の土肥村。半農半漁、天城山の炭を江戸
へ送る。限られた方法で生計を立てていた村人の生活の
場が突然の災害で、瞬時に破壊された。
『県史』の記述では、この地震の前に、近くで二度地震
があったということであるから、今ならば、これは大地
震の前触れではなかろうかなどと考えるが、さて当時は
どうであったろう。
海辺での暮らし。浜石を要領よく積んで土台を作り、
その上に住居や納屋を建てる。屋根は草葺きである。冬
期、西風が強いので二階建てなどはまだできていない。
湾内とはいえ、風が立ち荒波となれば、平時でも、ふ
とだいじょうぶかな」と思う日がある。海底の大規模な
地殻の変化で海水が一挙に切断される、一旦沖へと引い
た海水が間もなく、その何倍かの高さになって押し寄せ
てくる。
当時の人達も「津波の怖さ」は体験や伝聞で充分に理
解していたはずである。しかし、突然の襲来には為す術
もなかった。同文書の、二報、三報によれば死者十三名。
潰家三十八軒。名前と年齢が記入されている。老齢者、
子供と女性の名前が多いのは、とっさに行動できなかっ
たであろう状況が思われ、悲しい限りである。
漁業で生業を立てている人達が、船を流され網を失い、
生活が成り立たない。田畑は海水を被り、砂礫が流入し
農地としての役を為さない。
だが悲嘆に暮れてばかりはいられない、生活の手立て
を考えなければならない。時の村役人達は、日夜、村の
復興対策に没頭したことだろう。
次の文書は、罹災者への復興・生活資金として土肥村
が代官所から借用金し、該当各戸へ拝借金(勿論、利付・
返済する)として配分したことを示すものである。
差上申請証文之事
高金六拾五両 土肥村
一金廿六両
外金三拾九両 先達而御請取候
内
金廿五両弐分
流失家廿壱軒 但軒壱金弐両弐分宛
金拾弐両弐分
半潰家拾軒 但軒壱金壱両壱分宛
右者去月四日地震、津波ニ付、潰家又者潰家より出火
焼失流失家、其外破損之厚薄ヲ以、書面之通御救御手
当拝借金被成御難有奉請取候、返納年賦割之義者追而
被仰渡候間小前銘々正路ニ割渡、小前帳可差上候旨被
仰渡、一同承知奉畏候、依之御請証文差上候処、如
件
土肥村与頭
孫七
安政寅年十二月
さて、右の文書に記される金六十五両の拝借金がどの
ように分配されたか、罹災の酷かった屋形組について見
ると、写真(屋形財政部所蔵)の「浪荒窮夫食御拝借控・
二十ケ年賦元帳 屋形組親頭 市左衛門・嘉永七寅年十
一月」に克明に記載されている。
嘉永七寅年十二月八日。土肥村では、韮山御役所から、
御拝借金・三十九両を受けている。これを村では、大薮
組金十六両ト銀二十五匁七分、中浜組金二両ト銀三匁七
分六厘、屋形組金二十両ト銀三十一匁四分〆三拾九両と
分配している。
これを受けて屋形組では、「皆流失仕候・家」五戸へ各
戸金一両二歩ト三匁五分一厘、他の十二戸に金一両ト三
匁五分二厘をそれぞれ分配している。
更に、安政元寅十二月二十八日の記録。土肥村・御拝
借金、金二十六両。この内、屋形組へは金八両三歩二朱。
これの各戸配分は、先の五軒に各金一両ト八分三厘三毛、
他の十三軒には各金一歩ト八分三厘三毛、さらに三名に
二朱ずつ、「不借用仕候」とした善右衛門分は村方十八軒
に戸当たり八十七文ずつ配分している。
[小前|こまえ]百姓各戸への拝借金は、二十年返済であったが、
以後の記録はない。十三年後は明治維新である。
さて、この津波が村の何処まで登ったか、言い伝えで
は土肥町馬場・大泉寺川が旧国道と交差する所、此処の
川治いに石仏が祀られている。この石仏を「波尻観音」
と呼ぶから、川を伝わった波は此処まで達したと考えら
れる。
また、屋形に伝わる話では、その時「代地屋」では主
人が馬を曵いていて津波に遭い共に流されそうになった
が、運良く、玄関先の太松に[手綱|たづな]が引っ掛かり、危うく
一命を取り留めた、ということである。しかし、一方当
時、寄食していた盲人が近所に使いに出て、その帰りに
折悪しく津波に遭い、途中、ふけった(湿田)に足を取
られて、行方不明になってしまった。
この二つの出来事〈自分は馬に助けられ、一人は波に
浚われた〉が、善右衛門をして神仏への帰依の心をさら
に深めさせたことであろう。
彼は翌年十一月四日、土肥神社へ「木馬」を奉納した。
写真の、社殿階段の両脇に立つ「黒漆塗り木馬」二頭で
ある。(戦後、中村区で修理してある)
以後、代地屋では土肥神社祭典の折、欠かさず餅を供
えていた。餅は馬の喉につかえないようにと、[粳|うるち]で作っ
た餅で、これは戦後まで百年近く、家の大事な仕事とし
て行われてきた。
現在では、祭典当番区が行事の一つとして引き継ぎ、
秋の土肥神社例大祭には、以前と同じように粳で餅を作
り神馬(木馬)に供えている。
[流鏑馬|やぶさめ]の行事で[神代騎|おおき]が馬場へ立つ際、神官が餅を下
げ神馬の担当者がこの餅を、馬に食べさせるなど、行事
の一つとして行われている。
個人の実体験が、年を経ることにより公の祭典行事に
組み込まれていったという実例である。
なお、次の記録が残されている。
洪浪潰家三拾八軒
字屋形〈二十一軒〉
治郎右衛門 忠蔵 長蔵 市左衛門 善右衛門
七左衛門 庄兵衛 源助 吉右衛門 八三郎
伊助 治兵衛 友八 久兵衛 源兵衛 久太夫
伊左衛門 藤蔵 久七 (夘七郎)やす 善蔵
字中浜〈二軒〉
利吉 弥吉
字大藪〈十五軒〉
庄蔵 藤七 丈右衛門 忠右衛門 弥七 久五郎
治郎八 甚四郎 長四郎 伝助 彦兵衛 安兵衛
孫右衛門 七郎兵衛 定八
外に〈堂一字〉海蔵庵(字屋形)
また、安楽寺古文書に次の記録がある。
一嘉永七甲寅年十一月四日旦 四ツ半時地震
有能智真法尼 屋形海蔵庵に於て水死、外に小児二
人死亡
施主 中村儀右ヱ門
〈八木沢〉
安政元年(一八五四)十一月四日の朝、辰の下刻(午
前九時ごろ)、関東を中心に大地震が発生、それに伴った
津波のため伊豆沿岸各地は大きな被害をこうむった。下
田港に停泊していたロシア軍艦ディアナ号が大破したの
も、このときのことである。戸数一千余戸の下田の町は
瞬時にして壊滅、わずかに十余戸が残っただけだったと
いう。
八木沢村における津波の高さは五メートルくらいで、
十軒の家屋が流失、三人の死者が出たことが記録に残る
(流失したのは太平、和市、八十助、源吉、勘左エ門、
佐次郎、与吉、万蔵、清二郎、和平の十軒、死者は勘左
エ門の妻、和市の妻、大久保の清の伯母の三人)。伝承に
よると、このときの津波は大川をさかのぼって中島の妙
蔵寺付近まで達し、波が引いたあと、門前のエノキの大
木の枝に海のモクズが掛かっていたとのことである。
三田の永岡当栄(明治十二年生まれ)が遺した『八木
沢区重要記録』には、古老よりの聞き書きであるとして、
同災害後の状況が次のように描写されている。
「海岸部落にあっては、俄かに千仞山のごとき波起りて
打ち寄せたるゆえ、家屋家財流出せるもの少なからず。
しばらくして波やや静まると雖も、尚隙なく小震あり。
程なく日暮におよびければ、山中、竹藪等の安全地帯に、
芝、薪、藁等にて四方を囲いし仮屋を作り、避難しける
が、その夜寒風吹き起りて空かき曇りけるゆえ、もし大
雨降り来らばいかにして凌がんと、皆おののきわづらい
けるが、ようやく空も晴れ、ことなく夜も明けけれども、
小震続々来るため六、七日はかく過したりと」
〈小土肥〉
大津波がきて、現在の八幡神社の松に、海に流されて
いた布が引っ掛かったという、言い伝えがある。