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項目 内容
ID J3000870
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔靜岡県史通史編4近世二〕H9・3・25静岡県編・発行
本文
[未校訂]一 安政東海地震
小池家日記
由比町小池家は、江戸時代には東海道由
比宿の宿役人としてその運営に関り、ま
た明治以降もその代々が着実な家政運営によって由比宿
の名望家として知られた家柄であった。この小池家の幕
末時の当主は文筆のたつ人で、由比宿に発生したさまざ
まな事件等の子細を「年代記語伝」(通称「小池日記」)
として、丹念に記録していた。
 これによると、嘉永七年(一八五四)十一月四日朝四
ツ(午前十時前後)突然稀れなる大地震が発生し、それ
は住家を震り潰すほどの激しいもので、人々は声をたて
親子互いに呼び合いながらうろたえ、目もくらみ、天地
東西もわからず世もまさに末かと思う程であったし、宿
内の家々は半潰れ同様になっていたというのだ。
 由比宿は、周知のように山が海に迫った地形的特質の
ある集落もあったから、これらの山々は山崩れを発生さ
せていた。山崩れの発生した場所は、松ケ下・追平・離
れ山・青篠山等で、とりわけ青篠山は山稼ぎに行った三
人が山崩れに埋められたのか帰って来ないというまこと
に悲しいことも起こっていた。
 時を経ても大地は揺れ続け、家にいることも恐ろしい
ので、人々は安全と思われる野に出て小屋をつくり、野
宿を始めていた。野宿していても、半潰れになった家々
に火災が発生することを警戒し、火の用心のため火の番
を立てていた。また、被災者の中にその日の生活にも苦
しむ難渋人が背に腹をかえられず悪者になり、盗みを働
くものも無いとも限らないから、盗賊の用心をもしてい
た。被災した人々の災害時における危機管理が比較的容
易に行われているのは、当時の社会体制、換言すればコ
ミュニティーのもたらしたものであったのかもしれな
い。とにかく強烈な地震に見舞われた人々は、もはや欲
も徳もなく、この恐怖から解放されたい一心であったら
しい。
地盤の隆起
「小池日記」の中でとりわけ注目される
のは、この地震によってこの地方の地盤
が隆起したという記事が見られることである。
 これら地盤の隆起に関わる記事についてみるとつぎの
通りである。
其節海震動き津波相来候節ハ田畑之内ニ這入 亦ハ
汐引行時者 凡二町余干上り白イ洲之岩も見る 其
外岩々根通り水少も(ママ)無之誠ニすごき事ニ御座候其
節ハ浜辺へ出候人ハ無御座候追々水戻リ候得共凡
二十五間計ニも水サリ追々附洲ナいたし申候其
以前ハ汐満チ候時ハ大岩ハ頭ヲ水上ニ少しも出不申
候得共只今ニテハ凡五尺斗も出居候 全ク地震節地
所震レ上り候と相見へ不思議事ニ御座候
と、さらにはまた「地震荒世間大変之義凡之所書誌申候」
として、この間に小池家当主の風聞したことについて、
次のように記してもいた。
由井宿并拾壱村之義者格別無難御座候 夫ゟ東小金
村中程ゟ東村半分不残皆潰ニ相成申候 蒲原宿壱軒
不残皆潰ニ相成 其内同宿三久川ゟ西[柵|しがらみ]町高見迄
不残焼失ニ相成 各々地震りて心気を痛候ニ付出火
之場所[寄付者|よりつくもの]も無之火ヲ消候者も無之 其儘捨置皆
丸焼に相成目も当てられぬ次第なり 夫ゟ中之郷村
岩渕村一同皆潰 富士川水筋其節迄者蒲原宿地先枡
形ト申所迄流来候得共 地震之節岩渕村下にて地所
震連廻り 大水新開辺へ本瀬流れゆき 中之郷村前
は白き河原に相成申し候 新開森下 五貫島 三軒
家 河成島村一同大難渋ニ相成申候
と、ここに示す二つの引用文には、地盤隆起について二
つのことが述べられている。
 一つは由比海岸の情景であった。地震によって海も震
れ動き、それに連動して津波も押し寄せて来て田畑の中
に押し入り、潮が退くと「凡二町余も干上り」とあるよ
うに、約二四〇メートルも海が干上がって海底の白い洲
が見えるようになったというのである。そうしてそこに
は白い洲の中に岩も見えるようになり、この岩の根には
あまり海水も見えずこれまでとは全く異なった景観が現
出していた。
 また満潮になって海水が戻ってきても、二五、六間(約
四五メートル)くらい、従来の汀線よりも去り、ここに
寄洲さえできるようになってきた。そうして、これまで
満潮の時には海面上に大きな岩の頭など全く見えなかっ
たのが、地震後は満潮になると岩は海面上に五尺(約一・
五メートル)ほどもその姿を見せるようになった。これ
は地震によって「地所ゆれ上が」ったためであろうと言
い、不思議な現象であると驚嘆していた。
 いま一つは、蒲原から岩渕にかけての状況であった。
小池は由比以外の地震被害のことについては、当然のこ
とながら、どちらかといえば風聞に基づくものが多いの
であるが、それは先に引用した資料の通りである。これ
によってみると、由比宿・由比加宿ならびに宿付、合わ
せて一一か村の被害程度は、被災はしたけれど極度に難
渋という程のものではなかったといっていた。
 しかし、東隣りの蒲原宿は、宿域の西に当たる小金村
の中程から東は皆潰れになり、さらに蒲原宿も一軒残ら
ず皆潰れとなったばかりか、同宿山居沢から西[柵|しがらみ]町高
見の間では火災が発生し焼失したという。全戸が焼失し
てしまったのは、あまりにも激しい地震の揺れによって
人々は放心状態となり、出火場所にとどまって消火に当
る者も居なかったためだという。
 このように地震による激しい揺れは人々を放心状態に
陥れ、何もかも手の出ないような状況に追い込んでいた。
それでは、さらに蒲原以外の地での地震はどういうもの
であったのだろうか。蒲原宿の東には周知のごとく[間|あい]の
宿である岩渕や中之郷等の村々があったのだが、小池の
記すところによると、ここでは火災こそ発生しないが皆
潰れになったと言う。さらに富士川の流れについても触
れ、
富士川水筋、其節迄は蒲原宿先枡形ト申す所迄、流
れ来り候へども、地震之節岩渕村下にて地所ゆれ廻
り、大水新開辺へ本瀬流れゆき、中の郷村前は白き
河原に相成申候・新開森下・五貫島・三軒家・河成
島村一同大難渋に相成申候
とある。富士川の本流は、現在富士川の東岸から岩渕の
集落を眺めると、大きく形成された崖の上に発達してい
ることがわかる。つまり、富士川の本流は安政東海地震
発生前には富士川右岸に形成されている崖の下を北から
南西の方に流れ、それが蒲原宿の東端にある枡形(宿の
入口)付近にまで達し、そこから南に流れて海に注いで
いたという。
 ところが、この地震の発生によって岩渕下の「地所ゆ
れ廻り」といった特異の震れ方によって、富士川の本瀬
(本流)はこれまでの北から南西という方向から、北か
ら南東という方向に変わり、中之郷村前は富士川の水が
干上がって、白い河原になってしまったというのである。
そうして南東方向に向きを変えた富士川の本流は、いわ
ゆる加島平野の西の部分にあたる森下・五貫島・三軒家・
川成島等々の集落に向けて流れたため、こうした突然の
本流の方向転換によって、堤防等水防施設が不十分であ
った森下等の村々は、それによって洪水禍にさらされる
ようになったという。
 以上のように、「小池日記」によると、蒲原宿の東にあ
る岩渕下の中之郷村は、富士川右岸の地盤が隆起したこ
とにより、それまで富士川の本流の流れていたところが、
すっかり水が干上がって白い河原となり、本流は南東方
向の加島平野の新開地、つまり森下・五貫島・三軒家・
川成島方面に流れるようになったというのである。これ
は岩渕村下で「地所ゆれ廻」ったため
であったといい、これは由比海岸と同
じように地盤が隆起したためである
と言うのである。
 小池日記には書かれていないが、こ
のような地殻変動は高さ三メートル
余の蒲原地震山を富士川右岸に造出
し、また左岸には松岡地震山という高
さ三・六メートル余の高地を造出し
た。これら二つの地震山を結ぶ東側の
線は、入山瀬断層の南方への延長部分
で、富士川断層が活動した結果であ
り、またこれは駿河トラフが陸上に達
した部分の地殻変動で、二つの地震山
を結ぶ西側では地盤が隆起し、東側で
図2-13 安政東海地震後の富士川流路
富士川は地震前には蒲原宿の枡形付近を流れていたが、地震後は
流れが東向きに変わった(『別編自然災害誌』所収図307-10)。
は地盤が沈下した。その結果、富士川の本流の方向が変
わったのである。
 ところで、「地震さん、地震さん、わたしの代にもう一
度、孫子の代には二度も三度も」というのは、地盤の隆
起によってかつての河川敷に新田開発が可能となったこ
とを喜ぶ百姓の一つの姿であった。ともあれ地震は人々
にとってみれば理屈ではなく、まさに生活であるという
ことを忘れてはならないように思われるのである。
液状化激甚の村
大地震が起こると、先に由比宿の「小池
日記」でみたように山崩れ、火災、そし
て地盤の隆起や沈下も発生し、人々の生業に大きな影響
を与えていたが、地震災害のいま一つに液状化現象とい
うものがある。
 液状化激甚であった村の例としてここでみようとする
のは、遠江国榛原郡吉永郷上川原嶋(大井川町)の場合
である。上川原嶋は大井川の左岸に開けたところで、大
井川の形成した沖積平野の一角にある。南には松原を隔
てて海に接し、水田を中心とした生産性の高い村であっ
た。この村の江戸時代の支配者は旗本高木氏であった。
 この上川原嶋でも、安政東海地震は大変な爪跡を残し
ていた。こうした大地震の爪跡を子々孫々に伝えようと
「地震取調集」を書いたのは、この村に住む大石宇右衛
門であった。大石宇右衛門は漢詩の嗜みがあり、また和
歌もよくするという鄙には稀な文人であった。(『大井川
町史』中巻)。
 この「地震取調集」によってみると、嘉永七年(一八
五四)十一月四日、この地震は申酉(西南西)の方角か
ら音をたてて揺れてきた。振動によって立っている草木
の葉枝は地面に着いては離れ、離れてはまた着くという
激しさで、大地も高く低く波うち、あたかも大船に乗っ
ているようなものであったという。また四方を眺めると、
田畑からは砂埃が立ったためであろう、一面「[暮闇|くらやみ]」に
なり夕立前のような状況であったという。だから「土民
男女老若ニ至迄前後を不弁すでに土中へ埋免死為る
同前(然)、人民ノ泣声天地ニ響ケ、恰獄卒叫喚ヲ見るか如し」
と、まさに阿鼻地獄が出現したという表現をしていた。
 この地震は、上川原嶋では辰の下刻(午前九時頃)揺
れだし、この日は昼夜の別なく合計八三回も震れたとい
う。これら余震の揺れ始めは「震動雷電況今日大地ヲ覆
へさんト欲す」と記されているように、人々の恐怖心を
かきたてるような揺れ方であったらしい。こうした大小
の余震は、安政二年(一八五五)三月頃まで続いたとい
う。
 ところで、この間の上川原嶋における地震がその地形
地物にどのような影響を与えたかについてみると、
一当村田所之事、一統田面ハ上下之別チなく中高・
中久保(窪)之場所数多く出来、荒落・高阜与相成、其
頃躾(仕付)為る麦、田畑共調(丁)度五月之代田ヲ見るか如し、
吹出し泥水澱共(ママ)上下へ流水ニ而[空切|あき]れ果たる事也
一郷之内田圃等茂所々荒地ニ成る事、場所ニ寄三・四
尺余、亦ハ五・六尺余茂大砕(笑)ミ埋落チ 凡村中家
数百軒余も大小共相潰れ及(ママ)、悉く大砂与相成候
と記されている。すなわち、地震の揺れによって水田に
は中高、中窪の地形が数多く生じ、そこには泥水が吹き
出し、吹き出した泥水が澱んで、蒔いたばかりの麦畑は
五月の田植え時の代田を見るようであったという。さら
には田圃を見渡すと、場所により三、四尺(一~一・三
メートル)から五、六尺(一・六~二メートル)くらい
の[大砕|おおえみ](地割れ)が生じた。こうした地割れは田圃ばか
りではなく屋敷地にも及び、一〇〇軒余の家屋はこれに
よって地盤が不安定となり、小破あるいは大破となる家
屋も少なくなかったという。
 以上のことは、まさに大地震による液状化現象の凄さ
を物語るものであるが、吹き出した泥水等はどういう状
況であったのかについてみると、
一震中之折柄ニ裏小屋ニ於テ砂糖制(製)法ニ焚懸最中之
処、右小屋則(即)座ニ忽潰れ、暫時も無く屋根ニ燃へ移
り炎々与立上り、七転八倒之働ヲ加へ、地中より
泥水ヲ吹出し、其水凡七・八寸程も吹流ス事、其
水ニ而漸々右小屋之火消シ鎮メ一先安心、居屋敷茂
右之高ニ准(準)し流水致ス 是亦当近辺も泥水吹満て
一面ニ水田深田ハ左も入 川ニ為事が如し、争か近
辺隣家江一向通路無之事
とある。大石家ではこの時母屋の裏小屋で砂糖をつくっ
ていた。その製造工程に、砂糖きびの搾り汁を火を使っ
て煮詰める作業にあたっていたのであるが、この小屋が
地震によって倒壊、これに火が燃え移って炎々と燃えあ
がったのでこの消火作業に家中の者を動員してあたっ
た。火を消すために、一尺七~八寸(六〇センチメート
ル)も吹き出していた泥水を利用し、これを汲んではか
け、汲んではかけしてようやく消し止めることができ、
大事にはならなかったという。つまり、液状化現象によ
って吹き出した泥水は、発生した火災を消し止めること
ができる程の大量であったということに注目すべきであ
ろう。
 また、こうして吹き出した泥水は屋敷の内外に流れ出
し、一帯は泥水が満ち満ちて水田は[深|ふけ]田(泥田)となり、
隣り近所に往来する通路さえなくなってしまったとい
う。
 このように、大井川下流左岸地帯に形成された沖積地
は、大地震による地割れとともに液状化現象が発生し、
これによる家屋の倒壊、田畑の変貌等、未曽有の厳しい
災害を経験したのである。
村内にても被害さまざま
安政東海地震のような巨大地震が発生
すると、地震によって、一つの村とか
一つの地域は一様に同じような被害を受けるということ
が考えられるのは当然である。しかし、基本的にはそう
ではあっても、細かく見ていくと必ずしもそうではない
ことに気付く必要があるように思う。そうした一つの例
として、遠江国[敷知|ふち]郡[大倉戸|おおくらと]村(新居町)の場合につい
てみることとしよう。
 この村には、東新寺(臨済宗方広寺派)という寺があ
り、嘉永~安政(一八四八~一八六〇)の頃に、東新寺
四世真宗という住職がいた。真宗は東新寺で安政東海地
震を体験し、その体験のすべてを「安政大地震並大津波
記録」という手記にまとめた。これは、後世再びこのよ
うな大地震が発生した時に多くの人々が心得として知っ
ておいた方がよいであろうと考え、まとめたものである。
また、なるべく多くの人々に読んでほしいという期待も
あって、仮名混じりの文体とし、しかもそれを版木に彫
って多くを配布しようとしたものであった。この記事を
要約してみると、
(1) 嘉永七年の嘉永を安政と改元したのは、諸国に大
地震ならびに津波が襲い、人的、物的な大被害が出
たため縁起なおしによるものである。
(2) 嘉永七年十一月四日四ツ時(午前十時前後)大地
震が揺れ出し、半時(約一時間)ばかりで地震は一
応収まったが、それから半時ばかりして大倉戸村の
海岸に津波が打ち寄せてきた。
(3) 津波は大倉戸の前浜にも打ち寄せ、東西合わせて
五か所の防波堤を決潰させ、運ばれた土砂が田圃に
堆積し高河原になったり、また海岸沿いに開発され
た畑にも砂が入り大きな被害を受けていた。
 なおこの大地震によって発生した津波に関して、
真宗がつぎのように記していることに注目する必要
があると思う。「何分ニ茂津なミに恐れて皆々山にあ
がりて見れバ百束ぶんの黒山か雲かと思はるる程之
高浪打寄来る事三ツなり、尤当浜よ里東へ高浪下り
て打寄ける故、破そんもかるし」とあるように、津
波を避けて高い丘に登って見ていると、百束(一束
は指四本の幅で、一〇〇倍すると七メートルくらい
か)分に相当する高い波が前浜に打ち寄せたのは三
回であり、津波の主流は東の方に打ち寄せるようで、
大倉戸の前浜付近の津波は比較的軽かったと言って
いる。このように、巨大地震によってひき起こされ
る津波は海岸ならばどこも同じというわけではな
く、津波を発生させる震央と海岸との位置関係によ
るものなのか一様ではないらしいことに注目すべき
であろう。
(4) 大倉戸村は東海道白須賀宿寄りにある村で、村内
にあった立場の東側の大地には幅二尺から三尺くら
いの地割れが三、四か所にでき、その深さも七尺か
ら一丈余であった。そして、これら地割れの亀裂か
らは泥水が三尺ほどの高さに吹き出していたとい
う。なおこの地割れの大きさは先に述べた榛原郡上
川原嶋の場合より小さかったことがわかる。
(5) 大倉戸村は、東海道をはさんで南側と北側に家が
立ち並んでいた。これらの家も地震による被害をう
けたのであるが、東海道をはさんで北側の家屋の痛
みは少々であったけれども、南側に立ち並ぶ家屋一
三軒ほどが半潰になったという。このように同じ村
の中でも一本の道路を境に、被害の程度が全く異な
っていたのである。これは少しのことで地盤が相違
しているからなのであろう。
 このように、同じ一つの村であっても、また同じ地域
内であっても、家屋の倒壊とか津波の打ち寄せ方は異な
ることが理解されるのである。こうした過去の大地震が
もたらす事実は教訓とすべきであろう。
 なお東新寺真宗の手記の中に、これが地震の前兆では
ないかと指摘していることは見逃すことができない。ひ
とつは、嘉永七年十月二十八日の太陽は朝から三重の笠
をかぶって出てきたことであるという。しかもこの三重
の笠は、一日中消えることもなく続くのである。人々は
これを見て不思議のことと思っていたのだが、それから
七日目の十一月四日に地震が発生したというのである。
このことは、現在ではとるに足らないこととして余り問
題にされてはいないが、一部には地震雲とか言って地震
の前兆と考えられていた伝承のあることと対比して考え
るべきであろう。
 このように太陽が日笠をかぶる、しかも三重の日笠を
かぶるということと、地震発生との因果関係は説明でき
ない。また、真宗の指摘するいまひとつの前兆(真宗は
これを「前表」と言っていた)は、
猶亦大地震三日前ニハ、当浜少シ西に当りて、かミ鳴
りかと思うように、どとろの鳴事一日ケ間也、是茂
津波か地震之前表と思はるる
というのである。つまり地震発生の三日前、大倉戸村前
浜沖の少し西に寄ったはるか沖合で、どとろどとろとい
う不気味な鳴動音が一日中続いたという。これが地震津
波の前兆であるというのであるが、こうした大地震直前
の不気味な音の発生についてはまだ科学的説明はできな
いようだが、これらの鳴動は地震学者もその前兆として
注目しているところである。
山崎継述の甲寅歳地震之記
山崎[継述|つぐのぶ]は沼津藩の祐筆をつとめる文
筆家であり、また画もよくする画人で
もある。この山崎が藩の泊御番を終え、朝食後に安政東
海地震の激震に遭い、激震の体験や沼津内外の地震後の
様相を絵入りで記述したものが「嘉永七甲寅歳地震之記」
である。
 この「地震之記」には、田子の浦沖で沈没したロシア
のディアナ号の乗組員が田子の浦に上陸し、そこから伊
豆戸田まで行く一行の風俗・風景等についても描かれて
いた。そのためこれは、沼津城下の地震の様相よりもロ
シア人の風体の珍しさによって有名になったものであ
る。しかし、考えてみるとディアナ号が田子の浦沖で沈
没したのは、この地震のもたらす津波によって下田湊で
破船したのが原因であったから、まさに「地震之記」と
いって差し支えないものであった。ともあれ、ここで「地
震之記」に書かれている二、三のことについてみてみよ
う。
 嘉永七年十一月四日、城中泊御番を明けた山崎は、同
僚と共に城中を退出し、御太鼓御門外でそれとなく富士
山を眺めたところ、良く晴れわたって雲もなく穏やかな
ように思われ、かつ暖かでもあったから、我入道村付近
に釣りにでも行こうと思った。ところがよく富士山の様
子を見ると、必ずしも穏やかではなく、雪を巻きあげて
いるのかそれとも雲が出てきたのか定かではないが、山
気が立ってきたように思われ、これでは多分風が吹くよ
うになるのではないかと考え、釣りに行くのはやめ、朝
食後火鉢を囲んで管田信作らと雑談をしていた。すると、
五ツ半(午前九時頃)地震がきたようなので、しばらく
心を落ち着けて推移を見守っていた。そしてこれに続く
第二派目の地震の激しい揺れについて、
東のまどの障子はづるるはかりにつよく成候、此折
何処となく鳴動いたし候、よっていずれも表口の方
へはしり出候うちに、いよいよ震動つよくやうやう
戸口壱間ばかりも歩行出候とも、はやうち倒さるべ
くなどつよくふるい候まま、漸く旅宿前堤下芝原
旅宿入口より是迄凡十間へまろび出、下にすはり手を突き居候処、
是にてもゆり倒され候まま、遂に芝原へはらばい罷
在候、地底の鳴りわたる事百千の雷とどろくがごと
く山海鳴動の気忽に変じ、天地もひとつになり、今
や世界滅亡ならんと心に思へども、更に生死のさか
ひをおぼえずおそろしきとも不思議ともしらず、此
折からだを地よりゆりあげ候事、凡五六尺ばかりと
おもふ
と記している。この地震が激しかったため旅宿から避難
するにも苦労をしたし、やっと安全地帯と思われる芝原
に出ようとしたが揺り倒され、立って歩くこともできず
芝原には腹這いのままいた。この間、ものすごい音で地
鳴りはするし、天地が一つになって、世もまさに終りか
とも思われ、その恐ろしさには生きた心地もしないほど
であったという。
 こうしているうちに地震の揺れも徐々におさまってい
くのであるが、沈静にともなって、城内外の被害状況も
知られるようになっていた。それによると、沼津城内で
は木造家屋の倒壊によって下敷きになった奥女中が五名
ほどいたので、関係者は救出にあたった。結局四名は救
出されたが、一名は救助の甲斐もなく死亡したという。
 またさらに「地震之記」を読んでいくと、「地震ゟ(カ)半時
ばかり過て、津波千本松原え打来、凡五十間程幅二丁か
きとり、汀深さ凡四拾尋程に相成候由、川口(狩野川)ゟ狩野川へ
も打込、河岸土蔵物置流失有之」とある。すなわち地震
が始まってから半時(約一時間)ばかり過ぎた頃津波が
押し寄せて来て、千本松原では縦五〇間(約一〇〇メー
トル)、幅二町(約二五〇メートル)程、汀が津波によっ
て削り取られたという。そのために海深四〇尋(約七二
メートル)余の深みができたという。また津波は狩野川
にも侵入したため、狩野川畔にあった港湾施設であろう、
土蔵や物置を流してしまったと言っている。なお、これ
に関連して内浦湾や西浦海岸の村々の津波被害は山崎の
情報不足のためか、なぜか記されていない。
 つぎに沼津城下の家屋の被災状況であるが、
凡在町家居の倒れ候を見分致候ニ、[下|げ]家(屋)有之方へは
不倒、多くは本家も表之方へ倒れ候、二階家は大方
二階下ゟ柱ほぞ折れ候而倒れ候分ハ、二階其儘損じ
(宿)無之、三島駅には二階下の損じ候処を取退け、二階
を其まま住居にいたし候家六七軒有之
と、当時沼津、三島等に建っている家屋の潰れ方、なか
んずく二階家では一階と二階をつなぐ柱のほぞが折れ、
一階は潰れ、二階はそのまま下に落ちたという。三島宿
では潰れた一階を片づけて二階をそのまま利用している
家が六、七軒もあったという。
 さらに、「地震之記」では、駿河国駿東郡小林村(沼津
市)の大規模な陥没災害についても触れていた。それに
よると、
小林村御城より一里東にあたる凡家拾弐軒程土中にめり込、死人
九人之内七人追々掘出し、弐人は終に不知、大地め
り込凡幅五拾間程、長弐町程、深四五丈、立木など
其ままなるもありて如深谷、大石所々散乱ふたたび
住居も覚束なく見えたり、六七尺の地何ケ所(ママ)と言事
をしらず
とあって、沼津城から北東一里の所にある小林村では、
百姓たちの家十二軒が土中にめり込み、このため九人が
死んだ。遺体を収容するため掘り出しに尽力し、七人の
遺体は収容できたが二人だけは遂にどうしても収容する
ことができなかったという。
 大地のめり込み陥没は幅五十間(約一〇〇メートル)、
長さ弐町(約二一七メートル)、深さ四、五丈(約一二~一
五メートル)という大規模のもので、しかもその周辺に
は六尺~七尺(約二~二・五メートル)くらいの陥没箇
所も何か所かあったというから、全く不意の陥没で住民
を驚かしたものであることは言うまでもない。では、こ
うした陥没がどうして起こったのか。理由は定かではな
いが、この地帯は[愛鷹|あしたか]山の東南山麓斜面の末端部分にあ
たり、この付近の地下に存在する溶岩には空洞が多いの
で、強烈な地震動によって揺さぶられ、黄瀬川崖上にあ
った空洞が大規模に崩れて生じた陥没ではないかという
推測もある(『実録安政大地震―その日静岡県は―』)。
 小林村の大規模な陥没災害の絵図と記述に続いて、山
崎は「田地変じて湖水となる」という絵図を描き、現在
の沼津市の、広い意味では[下香貫|しもかぬき]付近、厳密に言えばそ
の中の[塩満|しおみつ]という字地付近の様相を描いたものである。
その説明書には「湖水幅一町程、長サ一町半、深サ四・
五間、田面十ソヘ(ママ)ニ下リ湖水ト成ル、是地震ニテ地カ低
ク成ル処ニ津波入ルト云」とある。
 この大地震によって発生した津波は、先にも述べたよ
うに千本松原の海岸を大きく崩していたのであるが、狩
野川の東側に開ける海岸にも津波は打ち寄せ、陸地の内
部にまで侵入した。そのため低湿地であった塩満付近に
まで流入し、直ちに退くことなく溜って湖水のようにな
ったという。
 低湿地であってもすでに農作物は収穫した後であった
から、農作物への直接被害はなかった。しかし、海岸線
に近いところで巨大な津波が打ち寄せるようなことがあ
ると、このような被害を被ることもあるのである。
村尾の大地震記と掛川広楽寺の過去帳
村尾の大地震記というのは、正
しくは「嘉永七甲寅十一月四日
大地震記」である。これを書いた村尾というのは遠江国
長上郡小松村(浜北市)に住み、代々医業に携わってい
た家柄で、江戸時代末の遠州地方では名の通っていた医
家であった。
 この「大地震記」は、村尾家の嘉永から安政期の当主
が安政東海地震に遭遇し、その体験と地震後伝わってく
る各地の状況を記録したものである。また小松村は、暴
れ天竜の異名を持つ天竜川の右岸にある村であったか
ら、こうした海から離れた地域ではこの地震がどういう
ものであったのかを知る貴重な資料でもある。
 小松村では、安政東海地震の起きた十一月四日は天気
も良く風もない恵まれた日であった。ところが、突然西
の方からドロドロという音がして、しかる後に大地が震
動してきたという。これによって家は倒れ、大地は波打
ち、道路・田畑には地割れが生じ、割目からは泥水を吹
き出すところもあったという。地割れした笑み口は幅一、
二寸から大きい所で五、六寸くらいであったという。こ
の地割れは、この地震に関して伝えられる各地の地割れ
の笑み口資料からみると決して大きいものではなく、そ
れだけこの地の地震は激しさの中にもある程度は軽かっ
たことにもなるものと思われる。
 もちろん地震の揺れている最中は、家を転び出て這い
廻って避難をし、歩くこともできなければ立つこともで
きず、生きた心地はしなかったという。そうした地震最
中の人の動き方にまつわる記述は、いずれの資料をみて
も同じであった。当時小松村は三〇〇戸くらいの家があ
ったようであるが、小松村の家居の被害については、本
家の倒れたもの、庇が落ちたもの、土蔵とか物入れ(物
置)の被災したものなど、一〇〇余軒が被災した。また、
明らかな被災ではないが、家居が動いたり傾いたりなど
の家も相当にあったと言っている。
 ともあれ、前代未聞の地震であったから、多くの人々
はあわて、余震も続くため屋敷周辺の竹薮の中に小屋を
構え、そこに寝泊まりして地震被害から逃れようとそれ
なりの努力もしていた。小松村では火災が発生しなかっ
たから大難を小難にくい止めることができていた。
 村尾の「大地震記」の中で、とりわけ注目されたのは
地震・津波等に関る情報であった。情報にも正しいもの
と流言といわれるものがあることは周知の通りである。
海から遠く離れた小松村の人々には津波についての知識
は全くなかった。だから大地震のあった翌五日、「夕方七
ツ頃西南の方に当りて物の響く声(音)有、山の崩るるの如く
大波の至るが如し、人々言津波来る、荒井・舞坂辺まで
は既に陥入ると言、怖れあゑり」とあるように、五日午
後四時頃に西南の方角で鳴動音がして、これは山の崩れ
る音かそれとも波の音かと人それぞれに解釈していたよ
うであるが、波の音、つまり津波の打ち寄せる音である
という判断が支配的になり、そうして津波は早くも新
居・舞坂を流してしまったという流言が横行し始めた。
天竜川の洪水に悩まされ続けたこの地の人々は、津波が
押し寄せることと天竜川の洪水に村々が洗われることは
同じではないかと早合点をする人たちもいた。すなわち
「甚敷者ハ上ノ村、上ノ村へと逃走り、尾野金毘羅山之
山に登り難を避んとする者千余人」とあるように、津波
についての基本的な情報不足から、津波は浜松から順次
北に上って村々を流してしまうのではないかと、洪水禍
と重ね合わせ、安全地帯は高い所であると思い、小松村
のはるか北にある尾野村の金毘羅山に登って津波の難を
避けようとした者が一〇〇〇余人もいたというのであ
写2-130 「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」
この絵図によると安政東海地震により掛川城では、天守閣が半潰し、櫓5か所、門13か所、本
丸天守下の下垣が1か所崩壊したという。
る。このことは間もなく虚報(デ
マ)に踊らされたものであったこ
とがわかり、「跡にて後ニ逃る姿
を真似する人有、可笑かりける風
情也」と、虚報に踊らされたこと
を反省する記述も見られるので
ある。大地震という危機的状況の
中では正しい情報がいかに重要
なものであるかを教える一こま
であった。
 つぎに掛川宿広楽寺の過去帳
にみる掛川宿の被災状況につい
て見てみよう。掛川宿は掛川藩太
田氏の城下と一体となった所で、
この宿内に浄土真宗広楽寺があ
った。広楽寺の当時の住職は、安
政東海地震に遭遇し、地震によっ
て非業の死を遂げた広楽寺檀信
徒八人(ほかに水子一人)の葬式
を営んだ。また、彼らの芳名(戒
名)を過去帳に登載することは当
然のことであるとともに、檀信徒
が地震によって死に至る経緯につ
いても記録していた。
 この過去帳は第一に、「十一月四日大地震有、城の天守
閣も居城と共に倒る」とあって、掛川城の天守閣と藩庁
の建物(現御殿か)であろう、ともに倒壊したと記され
ている。続いて広楽寺の檀徒八名(他に水子一人)が亡
くなったことが記されていた。これら八名は二藤町四人、
加茂村二人、下俣一人、原川一人という状況で、とりわ
け二藤町の幸八とその妻については、作兵衛妻とともに
同じ所で梁の下敷になって圧死し、彼らは間もなく発生
した火災によって焼死してしまい、救助など思いもよら
ぬ事であったという。しかも「幸八之妻前日ニ産ヲ致候
故、是を抱き退かんとせしと見候、三人とも取組合て死
去也」と、生れたばかりの嬰児を抱いて避難しようとし
たのだが、そこに家が倒れ梁の下敷になり、かつ焼死し
たもので、悲惨と言えばこれ以上の悲惨はない。
 以上のような記事に続いて、広楽寺の住職は、掛川城
下の安政東海地震の様相についても見たこと聞いたこと
を記していた。すなわち、
大地震大変之儀者、十一月四日者晴天温和ニ而五ツ時
半頃地震揺出シ忽鳴動、大地も致裂砕(ママ)如久ニ而、銘々
老若を救候間も無之、互ニ裏表江走出地上ニ七転八
倒、堂屋之破裂潰倒をも難見分、親者桁梁に押伏、
妻子者瓦壁土沙(砂)之下ニ被埋候をも可救手段も無之、
土煙者天を覆い、眼目茂眩瞑し咫尺も不弁、只驚怖
肝魂を失ひ前後も不覚地ニ伏候而、漸く動揺も少緩ミ
起上リ而日光を見認、少し心付初めて父子妻女之分
離を尋、互ニ見合愁傷驚駭之折節、西南之風烈敷、処
ニより一時ニ火燃出シ黒煙四方ニ遮り、震動ハ難止、
現在親属之者土木之下ニ相成候を見殺ニ致し、或ハ乍
生焼死候も有之、誠ニ可憐事共ニ而、忽火勢ハ猛烈ニ燃
上リ、街上一面火燃と相成、数代蔵蓄之家宝無残所
烏有と相成、只々人々我勝ニ活路を求狼狽いたし逃
遁候、道筋も大地笑割泥水吹出し、川流井水ハ毒濁
と相成渇を止候事も不能、東西南北之隣村江各々逃
出し、薮根木之下を尋互ニ相集途方ニ暮、其夜者野ニ
臥し寒気之防方もなく霜露を頂き、終夜眠茂不成ニ
在之処、明七ツ頃ニ西南之中天に光物二丈斗リ之人
物相見、皆泣涕驚怖する斗也、翌日ニ至リても震動猶
甚敷候得共、城主よりハ見分之役人も相廻り御救助
之粥等焚出も有之
とあって、寒空に耐えながら野宿などして過ごしていた
が、余震は依然として収まらず、巨大地震のもたらす不
安の日々は続いていた。なお、広楽寺の住職はこれら巨
大地震の経緯を仮小屋で記したと言っている。
 以上のように、掛川城下にみる震災の様相は人家の密
集地帯、換言すれば小規模ながら都市型災害の一つの典
型であったとも言えるのである。
清河八郎の『西遊草』
遠江・駿河・伊豆三国にみる安政東海地
震については、『別編自然災害誌』におい
て詳しく述べられているので、ここではまれにみる地震
災害を受けた駿・遠・豆三国が、地震による災害のどん
底からどのように復興しようとしていたのか、被害状況
の地域的偏差も含めてみてみようと思う。こうしたこと
をみるにあたって利用しようと思うのは、幕末の志士清
河八郎の著した『西遊草』である。
 清河八郎は、天保元年(一八三〇)出羽国田川郡清川
村(山形県東田川郡立川町清川)の素封家斎藤治兵衛豪
寿の第三子として生まれ、斎藤元司といった。斉藤の家
は、地主であるとともに醸造業を営み、こうした経済的
余裕からか家業のかたわら読書俳諧を楽しみ、父豪寿は
『唐誌選』全巻を暗誦していたと伝えられている。こう
した環境から、元司は七歳の時、父から『孝経』の素読
を授けられ、一〇歳になると城下鶴岡に出て鶴岡藩給人
伊達鴨蔵らから『大学』『論語』『詩経』などの素読の教
授をうけ、一四歳になると元司の生まれた清川番所(清
川は最上川の舟運にともなう川湊であった)に来た畑田
維憲に、父からの依頼もあって何かと教育を受けていた。
 元司は、一八歳になると父の許可を得ないまま江戸に
出て、最初は古学の東条一堂、ついで朱子学の[安積艮斎|あさかこんさい]
の塾に転ずるとともに、北辰一刀流の千葉周作の指南も
受けるなど、幅広く学芸に親しんでいた。そして、安政
元年(一八五四)春、二五歳の時に、艮斎の推挙によっ
て幕府の学問所昌平黌の書生塾に入塾した。この時清河
八郎と改名するのであるが、清河とは生地清川にちなん
だもので、川では小さいので河にしたのだという。
 同年十一月中旬、清河八郎は神田三河町に塾を開いた。
しかし、その一か月半後の十二月二十九日夜、神田連雀
町から出火した火事によって、三十日早朝清河の塾は類
焼してしまった。そのため安政二年正月、清河はこれか
ら以後のことを相談するために家出以来七年目で帰郷し
た。この間の親不孝が清河には悔まれたのであろう。多
年の望みであった、母を連れての伊勢参りを思い立った。
同年三月十九日四〇歳の母は一足先に鶴岡に発ち、一泊
一日遅れて鶴岡に着いた清河は三月二十一日ともに旅立
った。一行は清河と母亀代、それに下男貞吉であった。
 一行は、まず越後路をたどり信濃国に入り、善光寺参
りをした。さらに四月末から五月初めにかけて伊勢参り
をすませ、ついで奈良、京都、大坂を巡り、四国に渡っ
て金毘羅参りをし、舟を仕立てて瀬戸内海を西航し、安
芸の宮島を見物、五月二十一日、周防国岩国の錦帯橋を
渡って帰路についた。大坂の天神祭り、京の祇園祭、丹
後の天橋立、丹波の大江山、近江の石山寺、三井寺等々
を巡り、東海道を下って江戸に滞在すること一か月、名
所・旧跡や芝居など、母の心残りのないよう、くまなく
見物させていた。
 安政二年九月十日、清川村に帰着するのであるが、こ
の間約半年、一六九日間の日々の見聞を清河が克明に書
き留めたものが『西遊草』である(小山松勝一郎『西遊
草』解説)。
清河の見た安政東海地震の後遺症
安政二年七月十九日、三河国御油
から豊川を経て新居宿の女改めを
嫌って姫街道の三ケ日宿に着いた清河八郎一行は、ここ
で更に気賀関の女改めをも避けるため、三ヶ日のどこか
らか浜名湖の対岸呉松に忍び越しをして三方原に出て、
錯綜した野の道に戸惑いながら浜松に出た。それから、
一路東海道を東に旅をして、
二十日 浜松 見付 袋井 掛川(捻じ金屋泊)
二十一日 掛川 日坂 金谷 島田 藤枝 岡部
丸子 府中(大万や泊)
二十二日 江尻 興津 由井(比) 蒲原 吉原
(扇や泊)
二十三日 原 沼津 三島 箱根(脇本陣泊)
二十四日 小田原 大磯 藤沢(泊)
江戸に向かっていった。それは安政東海地震があってか
ら約九か月経ってのことであった。
 清河の旅は、地震の被害を見て歩く旅ではなかったの
は言うまでもない。したがってそのことについてのみ執
心していたわけではないが、清河の目に映った地震後遺
症中、とりわけ心に映った重大事は、地震によって家屋
が倒壊し、それを追いかけるように発生した火災によっ
て、一面焦土と化した宿駅の復旧の目途が立たないこと
であったように思われる。こうした家屋の倒壊、火災発
生という二重苦に悩まされていたのは、袋井・掛川・府
中・江尻・蒲原等であったが、この中で袋井・江尻は格
別であったらしく相当に激しいものであった。『西遊草』
にみえる安政東海地震による各宿の様子については表2
―28の通りであった。
 これらの状況を通して改めて思うことは、地震による
家屋の倒壊はやむを得ないとしても、それに追い打ちを
かける二次災害である火災の発生はどうしても防がねば
ならないということである。また、当時、復旧はすべて
個人の才覚によってなされるもののようであった。窮極
的にはいつの時代であってもそうであろうが、復旧支援
体制の不備の時代における復旧・復興のありようは、教
訓として大事に考えるべきもののように思われる。
 いっぽう、家屋の倒壊等火災をともなわない被災は、
九か月も経つとそれなりに復旧し、ただ表通りを通過す
るだけでは被災状況が明らかに見られない程には復興し
表2-28 「西遊草」にみる各宿の被害
宿名
新居
見付
袋井
掛川
日坂
府中
江尻
興津
蒲原
沼津
三島
箱根
東海地震の被害に関する記述
昨年の津波にて大破損いたし、土堤もきれ、番所もつぶれ、入海も五、六尺深く
相成、潮も殊の外難義に相成けるゆへ、公儀より大金の普請あれど、一向はかど
らず、今にいたる迄舟の往来甚だ難渋とそ
地震にも各別いたまず
昨十一月の地震にて失火いたし、駅中残らず焼失、立どころに乞食同前となりて、
死人も百五拾人もありしとそ、いまだに人家さらに成就せず、ただまばらに立ち
けれども、誠に目もあてられぬありさまなり、土蔵とても悉く[破崩|はほう]のうへ出火な
れば、中々俄に普請の出来ぬも、尤の事なり
袋井とおなじく大崩のうへ、町中より出火あり、過半焼失せり、即死人も百人余
ありしとそ、我宿の捻金やなども、随分立派にて、大勢召仕ひありしに、大変の
ため乞食同前となりて 諸道具とてさらに残らず 此節漸く普請いたしけれども
また柱立同前にて客坐とては両坐ならでは出来ず、家中も僅三人余となりて、一
入憐れみにたへぬありさま、天地の変、人力の及ぶところにあらずといへども、
愍天何ぞ下民を顧みざるや
地震にも別各いたまぬ模様なり
城も地震にて不残崩壊せしとそ、東照公住居の処、憐れむべき事也、夫より伝馬
町にいたる、地震の時出火にて、旅籠やの辺より東外迄不残焼失せり、大万やな
るものにやどるに、不相変普請のいまだ成就せず、誠に立たるままにて逃去りし
とて、舎人蕭然として話されき
給仕にいでし女は、是より二里ばかりわきの清水というところとて、大地震の時、
村の町八丁ばかりの所一軒も残らず焼失、直ぐさま乞食となりしとそ、女中の風
体いやしからぬなれば、さだめて随分相応の家の子なるべきに、大変のために奉
公をなすものと見へたり、憐れにたへぬ体なりき
(久能山東照宮も)大破損に及びしこと、世に聞へあれば、荒れたるを見るも本
意にあらざれば、まつ止めにいたす
昨年の地震の焼失にて、袋井宿同前目もあてられぬありさまなりき
格別もいたみもあらず
宿内半過、地震にて大破損、憐れむべき体なりき
水野出羽守の城下にて、随分よろしき所なれど、近年数度のわざわひにあひ、
自然さみしく相成けれども、東海道の歴々なれば、よそしき事あり
地震の時大破損にて、旅舎など悉く崩壊、目もあてられぬありさまなり、中に
も明神(三鴫大社)は池もあり、山門もあり、尤とも東海道にて歴々たる美しき宮なるに、微
塵の如くにこわれ、わつか山門及塔のみ建てれど、危き事近よるべからず、石壁・
石鳥井(居)も跡かたなしと相成、回復の期何時にあるべきや、尾州熱田などは毛ほど
動かぬに、神威もかくほどへだてのあるこそ怪しむべき也
伊豆の下田も去年大破損にて、当時江戸表より職人多くきたりて交易場しきりに
普請のよし、時かわり世あらたまりて、伊豆の下田も長崎同前の交易場となる、
天地の変いかんそや
地震にて拾八、九軒破損いたし 本陣などいまだに普請出来ならず
ていたように思われる。しかし、三嶋大社(明神)のよ
うな場合は、信仰即復旧という単純なものではなかった
らしい。
 また、巨大地震による被災は、人々の生産手段を潰滅
させ、ひいては生活手段にも大きく影響を与えた。府中
の旅籠屋大万屋で働く女性を見ると、とりあえずの生活
のため、女中奉公をして一家の家計の足しにしていたら
しいということがわかる。このことによって、巨大地震
による被災の克服は建造物(家屋等)等ハードの復興だ
けでなく、生産手段・生活手段等心の復活もまた忘れて
はならないことのように思われる。
袖日記にみる富士山南西麓の安政東海地震
「袖日記」は、駿河国富士郡
大宮町(富士宮市)の酒造屋
である枡屋(姓は横関)の嘉永~安政期の当主が付け続
けた日記で、横半帳で着物の袖に入るような大きさであ
ることから袖日記と称したものと思われる。
 日記にみる内容は、造り酒屋であるため原料米に関っ
て、米の相場について深い関心を示すとともに、三河の
杜氏によって、造られた酒の販売などについても興味あ
る記述がある。また大宮町を中心とした政治支配の問題
(韮山代官所との往来)、あるいは俳諧とか旅芸人による
芝居の問題、あるいはどういうルートで伝わってくるの
か、江戸における将軍・大名等の風聞についても書かれ
ていた。
 しかし、この日記は何といっても個人の私的覚書であ
るから、枡屋に関係する家族や従業員の問題、さらには
町内の枡屋に関りのある人々の動向―とりわけ慶弔の問
題、さらには枡屋と旦那寺との交流等々が見られる。大
宮町は富士山本宮浅間大社の門前にある町であるが、旦
那寺との交流は浅間大社との交流よりはるかに頻繁なも
のがあったように思われる。
 大略以上のような内容に混じって、時々の重大事件に
ついても書かれていて、嘉永七年十一月四日に発生した
安政東海地震もまさにその一つであった。以下その記す
る所にしたがって、大宮町並びに富士山南西麓における
地震の大要についてみよう(『袖日記』)。
 地震発生までの間は出入りの大工や下女等は平常通り
の仕事をし、あるいは七五三の祝いの品を届けさせたり、
また当主自らも病気見舞いに出掛けたりして、それぞれ
の途中でこの大地震に遭っていた。
 五ツ時発生した地震は、まず二回程比較的小さい揺れ
があって、三つ目の揺れは大きく、この時幅五、六寸か
ら一尺くらいの地割れが生じ、揺れている最中、閉じた
り開いたりしていたという。続く地震の中、避難するた
めであろうか、走っている者は足をとられて転倒したり、
また家の方を見ると酒造家であったから、いくつも蔵が
あったようで、これらの蔵が次々と倒れたという。蔵と
いえば耐震性の高い建造物のように思われるが、どうも
そうではなかったらしく、柱の少ない建物であったから
であろう。こうした揺れの続く中、この筆者にとって心
配の一つは家族の安否であった。最終的には全員無事で
あったのであるが、この間の家族の所在を確かめる真剣
な動きには注目しなくてはならない。
 次の問題は、火災発生に備える行動であった。地震の
揺れも少し収まったので、急遽家に戻って囲炉裏を見る
と、もえさし、つまり薪の燃え残りがくすぶっていたの
で、井戸から水をくんでかけ、さらには完全に消えるよ
うに囲炉裏をかきまわして家から走り出た。ところが、
走り出て酒蔵の方を振り返って見ると煙が出ているの
で、これは大変と人を集めて消しにかかった。酒蔵は茅
葺きであったらしく、この中に火が入ってくすぶってい
る最中であったらしかった。これを消すには屋根の一部
をほぐして水をかけるしかなかったので、その方法で水
をかけ鎮火させたり、さらにはまた広敷、これは店の広
間であろうか、ここにある囲炉裏にも火があったらしく、
この火にも水をかけて湿らせて屋外に退去していった。
このように地震によって被災している所に火災が発生し
ては大変と、火の元には異常な神経を使って対処してい
た。こうした細心の注意によって、この町では火災の発
生がなかったのであろう。
 このような家族の安否の確認と火災発生の防止に努め
た筆者の行動は、いろいろな意味において教訓になるこ
とのように思われる。なお、この日大宮町西新町木屋酒
蔵(後の岡根谷酒造)の広敷から火は燃え上がったとい
うが、これも同家の関係者の手によって消し止められ大
事には至らなかったという。
 ともあれ、以上のように枡屋では家族ならびに関係者
の無事が確認され、さらには火災の発生も未然に食い止
め、夜を迎えた。当然どこでもみられるように、家族の
大部分は近くの田畑等空地で小屋掛け生活を始めるので
あった。しかし商家にあってはすべての人が小屋に移っ
て寝るというわけにはいかず、家財等の保守管理も必要
であったから、屋敷内の広い、しかも屋根もない所に筵
を敷き、夜具の上に日々霜をうけながらの休寝であった。
それと同時に多くの人々が小屋掛け生活を始めたわけで
あるから、その安全を確保するという意味からも、拍子
木を鳴らしながら交替で夜廻りを続けていた。
 大地震によって何となく漂う社会不安が形成されつつ
ある時には、ちょっとしたことが大きなデマとなって広
がるものであった。「袖日記」によってみると、
今夜(夕)天間村ゟ早鐘をつき出し、夫ゟ大宮町寺社不残
鐘太鼓乱調ニ打立、東在方ゟ夜盗五六十人池谷へ押
込と評判して、皆々竹鎗を持て出る、近在方ゟ竹鎗
持て数百人集
とあって、十一月六日にも余震が昼夜七、八度も続く中、
夕刻[天間|てんま]村(富士市)の方から早鐘が鳴り出し、それに
呼応して大宮町でも寺社ではすべて鐘や太鼓を打ち鳴ら
していた。これに対応して東在の方から夜盗五、六〇人
が、[紙店|かみだな]と呼ばれた大宮町の豪商池谷家に押し込んだと
いう評判(デマ)が乱れ飛び、そのために大宮町の人々
は皆竹鎗を持ってそれに備えようとしたり、近在の村々
からも数百人の者が、これまた竹鎗を持って大宮町に集
まったという。
 ところで、こうした評判(デマ)の真相はどうかとい
えば、
今夜天間村へ聞合候処、海(街)道の雲助五六人、天間村
へ来り往来筋飲食の売買無之間、一飯無心ニ立寄候
処押強く食を乞候ニ付村方立騒ぎ、山の手へ追走ら
し、猶余類をおそ連福泉寺ニて鐘をつき、追々評判取
次大宮町大さわぎに相成候、夜八ツ過ニ志づまる
とあるように、事の発端となった天間村に事情を尋ねた
ところ、東海道で働いていた雲助五、六人が、地震のた
め街道筋では飲食を売買することも止まってしまったの
で、一飯を恵んで欲しいと天間村に立ち寄ったという。
ところがこの雲助たちは押強く食をねだったので村人た
ちは騒ぎ出し、これを山の方に追いやってしまった。こ
の雲助らの重ねての他村での行動をおそれ、福泉寺で鐘
をつき始めたので、評判(デマ)は追々形を変えつつ波
及し、この形を変えた評判(デマ)で大宮町は大騒ぎと
なったのだという。
表2-29大宮町および周辺地域の被害状況
村(町)名等
町方
神田町
田宿町
欠畑
立宿
田中村
黒田村
中里村
万野村
上井出宿
安居山
芝川村
内房村
阿幸地村
被害の程度
八分通りつぶれ但しようびかかり候分も潰家也
潰家多し
西側かるし
地震かるし 小破損無事之内
新道より上かるし
つよし
かるし
中里ゟ西在へかけ地割つよし
万野村から 在かるし
かるし 家ゆがみ
来漸寺本堂くりゆがみ、鐘楼潰山門崩る
所々橋落つ
かるし 家 ゆがみ
かるし
 ともあれ、この騒ぎは八ツ過ぎ(午前二時頃)には収
まったけれど、災害時には人々の気も動転していたから、
少しの噂もたちまち大きなデマに成長、発展していった
ように思われる。
 最後に「袖日記」の筆者は、富士山西南麓の村の被害
状況について記述しているのであるが、大宮町にあって
は浅間大社の境内から流れ出る神田川、あるいは大沢崩
れを源流とする潤井川の中流域の沖積地(中里・田中)
等において被害が激しく、潤井川の中流域でも黒田村の
ように地盤の強固な所と思われる集落は軽微であった。
また、富士山の南麓は、標高が高くなるにしたがい被害
が軽微であったことがわかる。
灌漑用水路の被災―江間用水の場合―
一般に自然災害の大きさ
は、それによって生じた人
的被害の多少であるとか、あるいは家屋等住環境の受け
た被害の大小等によってなんとなく決められる傾向が強
く、それらの被災程度に関心を持って調査したり、また
報告されたりする傾向が強いように思われる。
 けれども地震等によって破壊されたり、潰されたりす
る灌漑用水等の土木施設については、必ずしも注意深く
みてきたとは言えない傾向があった。地震等による被災
は、最終的にはいかにしてそれを復旧したり復興したり
して生産活動を再開できるかに問題は発展するのであ
る。災害が人間の生活の展開に関るものである以上、こ
うした点にも注意を払う必要があるように思われる。
 こうした一つの場合として、伊豆国田方郡(のち君沢
郡となる)の江間用水の場合についてみることとしよう。
江間用水は田方郡[江間|えま]村に住む津田重定(兵部)が、江
間村の灌漑事情を改良しようと江戸に出て、幕府に対し
て根気強く用水路の開発についての援助を要請し続け、
ようやく四代将軍家綱の時開発の許可を得て、これによ
って開発された用水路(堰)であった。
 用水路は田方郡天野村(伊豆長岡町)地先に石堰を作
り、ここを用水の取入れ口としてここから小坂・長岡・
[古奈|こな]・[墹之上|ままのうえ]などの村々を通る用水路を構築し、これに
よって狩野川右岸で灌漑用水の得にくい河岸段丘に発達
した村々に配水をしたものであった。この用水の完成し
たのは明暦元年(一六五五)のことで、江間用水とも江
間堰とも呼ばれていた。
 この用水は、南北に約六キロメートルと距離の長いも
のであり、しかも途中の地形も複雑で、その維持管理に
は大変な受益者負担が求められていた。こうした用水路
であったから、安政東海地震のような大地震に見舞われ
ると随所に被害が生じたらしい。嘉永七寅年十一月「御
普請所破損ケ所附書上帳控」(伊豆長岡町 津田家文書)
によってみると、『別編自然災害誌』四四八~四五〇頁に
みるように江間用水は随所に破損があったと沼津藩御役
所に報告していた。
 被害箇所は用水取入口(樋水門)をはじめ、用水路に
架かる橋、井路つまり用水路ならびにその土手、これは
水路を支える側壁なのであろう、また石垣や水路を塞ぐ
山崩れなど、すべて崩落という語に表現される被害が生
じていた。
 江間用水にみる以上の被災箇所は、御普請所であるか
ら、沼津藩なり幕府からいくらかの復興費の援助のあっ
たことであろうから、復旧にあたってはそうした援助が
期待されるのである。
 しかし、江間用水の維持管理には、そうした御普請所
と共に自普請所、つまりこの用水の受益者が普請費用を
拠出して維持管理する部分もあったはずであるが、そう
した部分の被災状況は明らかではない。
 したがって、そうした部分の被災状況を考慮に入れる
と、江間用水のこの地震による被害は相当大きなもので
あることが推察され、これらの被害が復旧し、農業生産
がこれまで通りになるには相当の時間が必要であったよ
うに思われる。
 灌漑用水路等は駿河・遠江・伊豆三国の各地には、規
模の大小はあろうが多数存在していたのが実状であっ
た。これら用水路の被災状況のすべてを明らかにするこ
とはできないが、こうした被災によって一時的にせよ、
生産力は低下したであろうことは確実であり、安政東海
地震の被災の影響は、後々までも長く尾を引くことにな
っていたのである。
二 安政東海地震の津波と安全
安政東海地震と遠・駿・豆の津波
安政東海地震の発生に伴う、遠・
駿・豆三国にみる津波の被害状況
についてみよう。こうした被害状況を概活的にみるため
には、『実録安政大地震―その日静岡県は―』がとりあえ
ずの参考になる。その要旨についてみると、津波による
被害が著しいのは、リアス式海岸のよく発達している伊
豆半島の南東端から西岸にみる海岸である。津波の波高
は平均海面から測って五~七メートルに達している。下
田が壊滅的被害(九四八軒中九三七軒が流失)を被った
のをはじめ、小湾入部の湾頭の低地に立地する南伊豆町
([手石|ていし]・湊・小稲・[下流|したる]・[長津呂|ながつろ]・中木・[入間|いるま]・[妻良|めら]・
[子浦|こうら]・[伊浜|いはま])、松崎町(江奈・松崎)、西伊豆町([仁科|にしな]・
[田子|たご])、賀茂村([安良里|あらり]・[宇久須|うぐす])、[土肥|とい]町(八木沢・土
肥)、[戸田|へだ]村、沼津市南部([我入道|がにゅうどう]・[志下|しげ]・[口野|くちの]・[小海|こうみ]・
[三津|みと]・[重須|おもす]・[木負|きしよう]・[古宇|こう]・[久料|くりよう]・[足保|あしほ])の各集落が軒並
み浸水し、中には流失家屋も出していると述べている。
 駿河湾北岸から西岸にかけての海岸は、波高三~六メ
ートルの津波に襲われ、清水市の清水地区や三保・増の
海岸、静岡市の[久能|くのう]~[用宗|もちむね]に至る海岸、焼津海岸、吉田
~榛原~相良の海岸で家屋の浸水、流失の被害が生じて
いる。しかし、駿河湾の両岸では、地震に伴った地殻変
動によって海岸付近が一~二メートル隆起したことも手
伝って、大きな被害には見舞われていない。また西岸で
は激震が続いている最中に潮が急に四キロばかり引くと
いう前兆があったので、人々が安全な場所に避難できる
だけの時間的余裕があったようである。
 遠州灘の砂浜海岸も全域が三~六メートルの津波に襲
われている。被害は浜名湖の[今切口|いまぎれぐち]をはさむ舞坂、[新居|あらい]
両宿で大きく、舞坂で流失全壊一六軒、半壊五八軒、新
居で地震によるものを含めて全壊四〇軒、半壊一三〇軒
の被害であった。その他遠州灘海岸では、前面に高い砂
丘があり、また河川を遡った津波が周辺の低地へとゆっ
くりと侵入したため、被害は軽微であった。
 このように各地を襲った大小さまざまの津波に対し
て、それぞれの地域の人々は、どのような対応をとった
のであろうか。対応の一つの姿として安全ということが
あるのであるが、どのようにして安全を確保し、最低限
自らの生命並びにその家族の生命をも守っていたのであ
ろうか。
舞坂宿の氏神山と宝登山
東海道舞坂宿は、浜名湖と海とが通ず
る[今切|いまぎれ]の東に設けられた宿場で、西隣
にある[新居|あらい]宿とは船を用いて往来するという宿場であっ
た。この舞坂及び新居宿は、安政東海地震による地震な
らびに津波に押し込まれ、舞坂では流失全壊一六軒、半
壊五八軒、新居宿では地震と津波とを合わせて全壊四〇
軒、半壊一三〇軒余の被害をうけていたという(『実録安
政大地震―その日静岡県は―』)。
 舞坂宿には、安政東海地震ならびに津波の実情を伝え
る何通かの資料がある。それとともに、宿内に住み雑貨
商を営みながら、余業として好きな絵も描いていた渡辺
八郎平という人物がいた。八郎平は文政七年(一八二四)
の生れであったというから、安政東海地震の発生した嘉
永七年(一八五四)には、まさに三〇歳になったばかり
の働き盛りの人物であった。
 舞坂宿が津波に襲われた何日か後、八郎平が津波に襲
われ舞坂宿の有様を絵に描き示したものがこれである。
(図は省略)この絵の上方が、宿から見て海の方向、つ
まり遠州灘であり、また下方が北、すなわち浜名湖の方
角である。そして図の右端が今切の渡しを通って新居宿
に通ずる海路の乗降場で、ここでは[雁木|がんぎ]と呼ばれる施設
のある所である。左端が東海道浜松宿に通ずる方角であ
る。舞坂宿は南側に形成されている比較的高い砂丘を背
にして集落の主要部分が発達し、その前を東西に東海道
が通り、その東海道の北側にも家が軒を連ねていた。
 こうした舞坂宿に津波が押し寄せてきたのは、「十一月
四日五ツ七歩(分)」の頃であったというから、この時刻が正
確なら午前九時に近い頃で、押し寄せた津波は「其内津
波と申、船場ニて波高サ三丈はかり相見え」と記してある
ように、船場おそらく今切の渡における雁木のある所で
は、波の高さが三丈(約一〇メートル)程もあるように
見えたという。もちろん高さが三丈もあったかどうか明
らかではないが、相当高い津波であったことには間違い
ない。
 津波が舞坂宿に押し込むと、人々は一斉に避難を開始
するのであるが、「氏神の山、宝登山へ宿中登り」と記し
てあるように、舞坂宿内で比高の高い氏神の山や宝登山
に登って津波の難をよけていたというのである。こうし
て舞坂宿の人的被害は全くなく、津波に対応することが
できた。八郎平の描いた「舞坂宿と安政東海地震津波」
の絵を見ると、宿場全体に白い部分があるが、この部分
は津波が全く押し込まなかったか、さもなくば家屋の土
間等に浸水した程度で、海水はすぐに引いていったこと
を立証するものである。こうした白く描かれた部分に氏
神の山とか宝登山という集落より一段と高い広場があっ
て、そこに避難して多くの人々は津波の猛威から逃れる
ことができたというのである。
 なお舞坂宿において津波が激しかったことは、絵の右
端下の方に「浜松御城米五百石新田堤上」と書かれた一
隻の廻船が描かれていることでもわかる。これは浜松藩
の御城米つまり年貢米を積んだ五百石船が津波に翻弄さ
れて新田の堤の上に押し上げられ、暫く航行不能になっ
てしまったことを示すものであった。
 ともあれ津波に対して身の安全を保つためには、高い
所に避難するというのが広く知られた常識である。地域
によっては高い所といえば山のことであろうが、こうし
た山に避難しようにも山の遠い所にあってはそうはいか
ない。氏神の山とか宝登山のように一メートルとか二メ
ートルといったわずかの比高の所であっても安全が確保
されるものであるから、こうした体験なり伝承は教訓と
して今後地域社会の中で大切に語り継ぐべきものであろ
う。
波尻地蔵と土肥神社への奉納馬像
伊豆国君沢郡[土肥|とい]村(土肥町)は、
海岸地形の一般的状況から見て、
安政東海地震による津波の被害は少ないと思われるにも
かかわらず、潰家三八軒(屋形二一軒、中浜二軒、大薮
一五軒)と、他に海蔵庵といった具合であり、また溺死
者も年寄・女性・子供一二人、それに行方不明の盲人一
人と、合わせて一三人もあったという。こうした深刻な
被害を受けた土肥村には、津波に関るいくつかの伝承が
ある。一つは土肥村安楽寺の門前に近い小さな川のほと
りに安置されている、「波尻地蔵」である。いま一つは波
尻地蔵の東方にある土肥神社である。ここには、安政東
海地震の津波に追いかけられ、馬を走らせて逃げて一命
をとりとめた須田善右衛門が奉納したという二頭の馬像
がある。これらのことは、いずれも濃淡に差はあるが、
土肥の人々に今日まで語り継がれている。
 まず波尻地蔵について考えてみよう。波尻地蔵安置さ
れている付近には、波尻という屋号をもった家もあると
いわれている。この地蔵像は風化が激しく、地蔵像であ
るのかどうかも明らかではない。したがって安政東海地
震の津波の状況に対応して建てられたものとは思われな
い。地蔵像に刻まれた刻字など一切見られないので断定
するのは慎まなければならないが、那賀郡浜村(西伊豆
町)佐波神社の棟札によって明応七年(一四九八)の大
地震並びに大津波によって仁科川(西伊豆町)に津波が
押し入ったことが知られるのであるが、この時の津波は
土肥にも押し寄せ大きな災害をもたらし、津波がこの付
近にまで達したと、当時の人々が後世の人々に知らせる
ため、この波尻地蔵を安置したのではないかとも考えら
れる。したがって土肥に住む人々の間には、大きな津波
が押し寄せたとき、どの辺が安全地帯であるのかという、
それなりの伝承は語り継がれていたように思われるので
ある。
 こうした波尻地蔵の伝承を下敷きにして、安政東海地
震による津波が発生したときの馬像奉納に関る伝承には
二つあって、一つは、何日も津波が押し寄せてくるので
須田善右衛門が松の木に登り、馬を海中に泳がせていて
助かったので、土肥神社に安政二年十一月四日、馬像を
奉納したというものである。いま一つは、須田善右衛門
が馬をひいていたところ、その後から津波が押し寄せて
きたので急いで馬に乗り、走らせて逃げたところ津波に
流されることもなく助かったので、一年後の安政二年十
一月四日に馬像を土肥神社に奉納したというものであ
る。この二つの伝承については後者の方がより真実味が
あるように思われるのであるが、いずれにしても土肥神
社であるとか波尻地蔵のたてられていた付近こそ、どう
いう津波であろうが土肥村にあっては安全地帯であるこ
とを、先人たちは後輩たちに無言のメッセージとして伝
えているもののように思われるのである。
 津波が襲来した時、人々が安全を確保できる場所は地
域によってさまざまであるが、土肥村のような場合にあ
っては、土肥神社があったり、波尻地蔵の安置されてい
る付近からが安全地帯であると、長い歴史の経験の中で
形成された先人の生活の知恵のようにも思われるのであ
る。
川を遡る津波
大地震にともなう津波の被害に遭うの
は、海辺の集落ばかりではなかった。津
波が発生すると押し寄せるのは海岸だけではなく、海に
流れ込む川の川口から津波は侵入し、川を遡って現在の
ように護岸工事の不完全な時代にあっては、川を遡った
海水が、川から溢れ出し田畑はもちろん、住家にまで流
れ込み、思わぬ被害を及ぼすこともあったのである。
 伊豆半島南端の南伊豆町には、この町を北西から南東
に貫流する青野川がある。この川の源流は[蛇石|じゃいし]峠付近か
らであるが、途中奥山川、一条川等と合流し、さらに今
の下賀茂温泉付近で二条川とも合流、それから南東を流
れ、竹麻小学校付近で鯉名川とも合流して、弓ケ浜の南
端で海に注ぐ川である。
 この川では安政東海地震直後に発生した津浪によって
つぎのようなことが生じていた。津浪によって発生した
青野川の異変を伝える資料は、嘉永七年(一八五四)十
月二十七日から書き始めた「幸助隠居手作并小作受取覚
控帳」(南伊豆町 渡辺家文書)にある記事である。
 この「控帳」は本来、幸助の隠居の手作地や小作地の
経営、とりわけ小作米の収納状況について記述した帳簿
である。この帳簿をつけ始めてから間もない嘉永七年十
一月四日に安政東海地震が発生、それに伴う津波が下田
湊に押し寄せ、下田に壊滅的被害をもたらし、折から同
湊に碇泊中のロシアのプチャーチンの乗艦ディアナ号に
決定的被害を与えたことは有名であるが、こうした津波
が青野川の河口に開ける弓ケ浜にも押し寄せ、青野川に
押し入り、川を逆流して幸助の住む集落の近くにまで溯
上してきた。幸助たちは強い地震にも驚いたが、青野川
に津波が押し入ってきたことにも驚き、その驚きのあま
り先の帳簿につぎのようなことを書き記すのであった。
① 嘉永七年十一月四日朝、五ツ半時分(午前九時
前後)大地震が来た。ついで津波も来たという。
もちろん津波の来たのが地震後どのくらい時間が
経ってからなのか明らかではない。
② 最初の津波は下賀茂の遠見ケ原(下賀茂の字地
に遠見という所がある)まで来た。遠見ケ原か古(吉)川
に渡る渡し場の上まで来たという。
③ 一番目の津波がひいて二番目に来た津波は都人
(何と読むのか明らかではないが下賀茂に都殿と
いう字地があるのでそこを指しているものと思
う)前まで押し寄せてきたという。
④ これら押し寄せた津波によって、遠見ケ原には
五百石船の帆柱が流れ着いたといい、また伝馬船
一雙も漂着したという。また前ノ川にも伝馬船が
流れ着いたと言っていた。
⑤ また青野川河口付近の廻船問屋か下田屋の江戸
通い船の関係物多数が、小屋鋪上まで流れ着いた
という。
⑥ 青野川を溯上した津波は前後九回で、八ツ時分
(午後二時前後)まで続いたという。
 このように、地震によって発生する津波は、その影響
を受けるのは海辺ばかりではなく、青野川のような川に
あっては、六キロメートル上流まで押し上った。ここで
は人家、あるいは田畑に津波が侵入したということは記
されていないが、当然田畑等にも流入したと思われる。
 このように津波が川を遡った例は、那賀川(松崎町)、
仁科川(西伊豆町)、宇久須川(賀茂村)、八木沢川・山
川(土肥町)などが挙げられるし、駿河湾西岸にみる萩
間川(相良町)等でも見られたという。すなわち津波の
もたらす災害は内陸深く及んでいたのである。
 津波は、本質的には内陸は安全である。しかし河川の
ある地域にあっては、先に述べたように河川を津波が遡
上して災害を引き起こすこともあるので、地域ごとにそ
うした過去の事象を検証することも意義のあることのよ
うに思われる。
第六節 安政東海地震後の建築
一 三嶋大社社殿
社殿の造営
三嶋大社は『延喜式』神名帳に名神大社
として記載されている古社で、後に国府
に近い現在地へ移されて伊豆国一宮となり、東海道筋の
大社として崇敬されてきた。社殿の造営については、文
治三年(一一八七)~応永十三年(一四〇六)まで二二〇
年余の間に一〇度の造営があったと伝えられている(矢
田部家文書「伊豆国三島宮御造営并炎上之目録」)。近世
になって、文禄三年(一五九四)に徳川家康が社領三三
○石を寄進し、慶長九年(一六〇四)には二〇〇石を加
えて社殿を造営した。寛永十三年(一六三六)家光が社
殿を一新し、以後承応三年(一六五四)・寛文二年(一六
六二)・正徳元年(一七一一)・延享年中(一七四四~一
七四八)・宝暦五年(一七五五)・安永五年(一七七六)・
寛政八年(一七九六)・文化九年(一八一二)・天保三年
(一八三二)とたびたび造営・修造が行われた。嘉永七
年(一八五四)十一月四日の地震では社殿がことごとく
倒壊し、その後再建されたのが現在の社殿である。
 震災後の復興は同年(安政元)十二月に造営見積書が
寺社奉行へ提出され、同四年四月に造営資金調達の[勧化|かんげ]
が許可され、同年十一月には造営図面が作成された。そ
して、翌五年四月十七日に山口祭[釿初|ちようなはじめ]、万延元年(一
八六〇)八月二十三日に地鎮祭、翌二十四日に柱立てが
行われ、慶応二年(一八六六)九月九日には本殿・幣殿・
拝殿が竣工した。続いて、同三年八月十日に唐門・回廊、
十二月十八日に舞殿、翌四年三月二日には惣門が竣工し
た。大工棟梁は御宮大工の井口惣左衛門と小土肥の平田
伝之助、彫物師は駿河の後藤芳治良と伊豆の小沢半兵
衛・希道父子であった。慶応の造営後、昭和五年にも地
震で被害を受け、唐門両脇の回廊が新築され、舞殿も大
きな改修を受けた。本殿・幣殿・拝殿の被害は軽微であ
ったが、拝殿は板床の大部分を撤去して石敷の床とし、
正面の[側柱|かわばしら]四本と[板扉|いたとびら]を新しくする改修が行われた。
神門その他
境内全体の指図や慶長図を除く境内絵図
を見ると、南北の軸線上に南から惣門・
楼門(左右に回廊が付く)・舞台・本殿幣殿拝殿が並んで
いる。安政東海地震後これらの建物は再建されたが、そ
の時楼門は[唐門|からもん]形式に変えられ、左右の回廊は昭和五年
の伊豆地震で倒壊して新築され、舞台(舞殿)も同地震
で被災して軸部が新しくされた。また、惣門は昭和二十
五年に移築、改造されて芸能殿になっている。
二 掛川城二の丸御殿と黒田家住宅
掛川城二の丸御殿
近世の掛川城は慶長五年(一六〇〇)に
[山内一豊|やまのうちかずとよ]が入部してほぼ城構えが整え
られたが、同九年・宝永四年(一七〇七)・嘉永七年(一
八五四)と再三震災を受けて修理・再建が繰り返されて
きた。現存する二の丸御殿は嘉永の地震で倒壊した後再
建されたもので、その時の建物としては他に旧三の丸太
鼓櫓が残されている。
 二の丸御殿は藩主の居所と藩政の役所とが一緒になっ
た建物で、棟札によると地震の翌年安政二年から文久元
年(一八六一)にかけて再建されており、安政二年十一
月に藩主居所関係の部分が完成し、役所関係の部分は万
延元年(一八六〇)十月に取り掛かり文久元年三月に完
成したものらしい。明治二年の廃城後は町役場や学校な
どに使用されて改造されたり付属部分が撤去されたりし
ていたが、昭和四十八年~五十年に半解体修理が行われ
て、ほぼ建築当初の姿に復元された。
黒田家住宅
小笠郡小笠町下平川の黒田家は武士の出
自で、室町時代末期の永禄年間(一五五
八~一五七〇)以来現在地に居住し、江戸時代には旗本
本多日向守の所領四〇〇〇石を管轄する代官を務めたと
いう。屋敷は田園地帯にあって、やや南北に長い約一万
平方メートルの敷地の周囲に堀を廻らし樹木に囲まれた
広大なもので、そのうち北方三分の二余の部分の南端に
長屋門、ほぼ中央に主屋が建ち、他に数棟の土蔵がある。
現在の主屋は嘉永七年(一八五四)の地震で被災した後
に再建したものと伝えられ、残されている二枚の家相図
(嘉永二年と文久元年の年紀がある)のうち、文久元年
(一八六一)図と規模・平面がほぼ一致する。長屋門は
主屋より古く、手法からみて十八世紀中頃の建築と思わ
れる。この二棟は昭和四十八年重要文化財に指定され、
長屋門は同五十年から五十一年にかけて半解体修理が行
われた。(中略)
 黒田家住宅は、主屋は屋根が改変されて外観を損じて
はいるものの、規模が大きく、良質の材を用い工作も丁
寧である。柱・[差物|さしもの]・梁等は太く、建築年代のわりには
柱間隔が細かく、床上部は中央に二列の柱を桁行方向に
並べ、土間部は梁・敷梁を二重に架けるなど堅固な構造
になっている。震災後の建築であるから、地震に対する
配慮かと思われる。前身建物に比べると規模はかなり縮
小されているが、これは時代の状勢によるものであろう。
長屋門はきわめて長大で、正面の閉鎖的な立面とあいま
って威圧感がある。周囲に堀を廻らした広大な屋敷構え
とあわせて、有力旗本の代官にふさわしい住宅といえる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 602
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 静岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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