[未校訂]第二節 嘉永の大地震
大久保忠真という大黒柱を失った小田原藩は若い藩主
[忠愨|ただなお]のもと、新たな政治改革に着手した。報徳仕法の廃
止や二宮金次郎の追放など先代忠真の政策を払拭しつ
つ、度重なる異国船の渡米から台場の築城や大砲の増鋳
といった新たな局面に対応しようとするものだった。し
かし、それは藩の財政を圧迫するだけでなく、領民に多
くの負担を強いることになった。このような複雑な情勢
が絡みあっていた時期に、追い打ちをかける形で大地震
が発生する。小田原で起きた四大地震(元禄・天明・嘉
永・関東大震災)のひとつ、嘉永地震である。嘉(一八五三)永六年
二月二日の午前十時頃に起きたマグニチュード六・七規
模の小田原を中心とした直下型地震で、多大な被害を小
田原藩領に与えた。
地震の発生
嘉永六年は異常気象から始まった。中沼
村(南足柄市)の名主杉本田造も気にな
ったのか、その記録に「今年嘉永癸丑年正月十六日十七
日十八日、三日雪降り八九寸積る、此の雪も近年にこれ
なき事と申し居り候」と書き記している(小沢清史「中
沼村名主杉本田造父子の記録帳(二)」『史談足柄』25 一九
八七年)。新年早々に起きた異常気象に対して、人びとは
何かが起きるのではないかと予感したことであろう。こ
ともあろうに、二週間後の二月二日には現実のものとな
り、相模国西部地域に直下型地震が発生したのである。
藩士吉岡信之は地震直後の様子を「巳の刻はやゝ過ぎ
る頃、そこともなく物恐ろしき響きしけるを、何やらん
と思ふひまもなく、地震ふるひ出て、(中略)己もいそか
はしく障子あけんとするに、とみに得あかざりしを、辛
うして庭に下り立ぬれ」と書いている(「地震日記」『地
震紀類』國學院大學図書館蔵)。午前十時過ぎから突然「物
恐ろしき響きしける」轟音が鳴り響き、その直後に地震
が始まったことがわかる。信之はなんとか障子を無理や
り開けて、かろうじて庭に退避している。ちょっと間違
えれば死の危険性が潜んでおり、地震直後の恐怖を伝え
ている。
当時、二月二日は奉公人の入れ替えの時期にあたり、
宿場では多くの人びとが往来していたが、地震で様相が
一変する。その様子を小田原宿千度小路の婦人が「内え
はたれも居り申さず、おりおり見回り、近所も皆相廻り、
皆々家業やめ、まことに世のめつするとは此の事かと存
じ候」(『小田原市史 史料編 近世Ⅲ』No.212)と記して
おり、地震により宿場内が無秩序状態になったことがわ
かる。宿場から逃げてきた人びとは海岸や山林のなかに
入って、地震がおさまるまで野宿をしていたが、余震は
なかなかおさまらなかった。『藤岡屋日記』によれば「二
日朝四ツ半時より大地震にて夜明迄三十度、同三日夜明
迄廿五度、同四日に二度都合三日に五十七度、四日昼時
に漸々鎮り候」(『藤岡屋日記』第五巻〈近世庶民生活史
料〉三一書房 一九八九年)とあり、五七回もの余震が
続いたという。このような余震は寒いなか、なかなか帰
宅できない被災者を不安に駆り立て、いらだちをつのら
せたことであろう。
地震による被害
小田原を襲った嘉永地震の情報は、
いち早く江戸の小田原藩邸に届い
た。『藤岡屋日記』によれば、「二月二日昼九つ時前の大
地震に、江戸芝海手の御上やしきへ、同日夕七つ時分に
注進これあり候」(前掲書『藤岡屋日記』第五巻)と、昼
前に起きた地震について、夕方の四時頃には江戸の小田
原藩芝上屋敷に報告が届いていた。それを受けて、翌日、
江戸藩邸は幕府に「昨二日巳上刻、地震強、小田原城内
ならびに侍屋敷、その外領分町々破損所、潰家御座候段、
在所表より申し越し候、委細の義は追て申し上ぐべく候
えども、先此の段御届け申し上げ候」(同書)と地震の届
け出を行い、あとで被害の状況を提出すると述べている。
すでに小田原では被害状況の把握に乗り出しており、
地震の翌日には西筋代官嶋村又市から村むらに本家・土
蔵・灰小屋・物置・馬家は潰家・半潰の箇所を、田畑の
荒所・山崩・堤崩・堤・川欠・石倉・道橋は破損間数を、
最後に人・牛・馬は怪我の有無を調べ、二月八日までに
役所に提出することを伝えている(小野崎尊和「嘉永期
小田原藩政と危機対応―嘉永六年小田原大地震の事例
―」『神奈川地域史研究』一七 一九九九年)。
また、藩は二月六日に「御領分村々火盗取り締りとし
て差し出され候につき、此の段申し達し候」(『新収日本
地震史料』第五巻 別巻一P.143)とあるように治安維持
に努める一方、二月八日には「何れも難渋いたし候間、
右については大工・鳶其の外諸職人日雇などを始め、都
て値上げ致し候義相成らず」(『御殿場市史 史料編一』
P.818)と物価や諸職人の統制に乗り出している。この措
置は急激な治安悪化と物価の高騰を危惧したため、藩は
早い段階で各統制に乗り出していく必要があったのであ
ろう。
被災村落は次々に地方役所に被害届を提出している。
これらの情報を地方役所で整理して、十九日には老中阿
部伊勢守正弘に被害届(表3)を提出している。各建物
には大破・半潰などまんべんなく被害が生じている。
嘉(一八五二)永五年十二月につくられた大砲台場三か所の大破(城
外施設を参照)や箱根・根府川・矢倉沢・仙石原・谷ヶ
村・川村の六関所の番所・門・柵・石垣等の被害なども
確認できる。とくに往還道の被害は甚大で、東海道の畑
表3 小田原藩の被害届
城内建物
天守櫓附櫓とも瓦壁落所々大破
二階櫓五ヶ所瓦落所々大破
渡櫓四ヶ所 内弐ヶ所半潰二ヶ所大破
平櫓一ヶ所 半潰
多門櫓三ヶ所 内壱ヶ所堀江潰落弐ヶ所半潰
門拾二ヶ所 内三ヶ所半潰 三ヶ所傾六ヶ所大破
本丸二三丸瓦塀倒れ其外大破之分とも千九十四間余
橋弐ヶ所大破
本丸二三丸石垣所々崩
御用米蔵六棟 内弐棟半潰四棟大破
二丸居所并諸役所半潰
同所稽古所并台所向潰
同所厩壱棟大破
三丸諸役所八棟并門三ヶ所 内二棟并弐ヶ所潰六棟并壱ヶ所半潰
二丸外堀土居并根太とも所々崩
同所土蔵六棟 壱棟潰五棟半潰
文武諸稽古所四棟 内三棟潰壱棟大破
城内社四ヶ所 内二ヶ所潰二ヶ所半潰
船方小屋壱ヶ所并諸職人小屋共八棟 内五棟潰三棟半潰
侍屋敷
侍屋舗五拾八軒潰
同弐百壱軒半潰
同門拾弐ヶ所潰
同石垣百八十三ヶ所潰
同所塀壱拾四ヶ所潰
同土蔵三拾ヶ所大破 但し此外侍屋舗長屋小屋所々潰破損所有之
小役人長屋六拾三棟 内十九棟潰百五十七棟半潰
家中諸稽古道場拾壱棟半潰
塩蛸蔵壱棟大破
用米土蔵八棟大破
同所役所壱棟潰
厩壱棟大破
同所飼料部屋物置等壱棟大破
城外施設
大砲台場三ヶ所破損
城下口々木戸三十九ヶ所大破
外曲輪土手并石垣共所々崩
使者引請所壱棟大破
浜手石垣三百五間崩
船方土蔵壱棟半潰
関所
箱根御関所御番所椽頬根太共大破
同所棚所々損
同所石垣二十五間崩孕
根府川御関所柵惣体倒損
矢倉沢関所上下面番とも大破
同所高札場損
同所定番人居宅三住居大破
仙石原関所上下面番所共傾所々大破
同所柵百五拾間損
同所石垣四拾壱間崩
同所定番人居宅壱住居半潰
谷ヶ村関所門損
同所拾六間余倒其外所々損
同所石垣弐拾七間余崩
同所岩崩落所々
川村関所面番所大破
同所石垣所々崩同所棚所々破損
往還道
板橋村より畑宿迄往還道破損二拾壱ヶ所にて弐百廿弐間崩欠出共
二子山近辺往還江大石夥敷落一旦道路差留申候
往還並木敷地破損六拾三ヶ所にて五百拾四間
内弐百八十九間余崩百九十八間地割弐百六間余石垣損崩
同林堤崩七十六ヶ所
同根返木百五十本
同橋七ヶ所橋台石垣とも所々損
寺社
堂宮八十二ヶ所 内三十五ヶ所潰四十七ヶ所半潰
社家六軒 内三軒潰三軒半潰
同厩壱棟半潰
寺院本堂庫裏百四ヶ所 廿ヶ所潰八十四ヶ所半潰
同門二十四ヶ所 内二十ヶ所潰四ヶ所半潰
同土蔵拾六棟 内三棟潰十三棟半潰
物置并灰小屋共三十八ヶ所 内二十三ヶ所潰十五ヶ所半潰
同所石垣崩五十二ヶ所
同所堤崩五十二ヶ所
同所門前地借家拾七軒潰
町屋
町屋弐拾軒潰 内二軒御伝馬役家拾八軒人足役家
同四百三十軒破損内百三十四軒御伝馬役家弐百五十六軒人足役家
同土蔵弐百七十六軒半潰内四十五軒御伝馬役家弐百三十壱棟人足役家
土蔵八十四棟破損内拾九棟御伝馬役家六十九棟人足役家
怪我人三人 内男弐人女壱人御伝馬役家
水道六百拾五間余崩
宿から箱根関所に向かう途中の二子山近辺では「大石
おびただしく落ち一旦道路差し留め申し候」と、一時
東海道の通行ができない状況に陥り、この地震の凄ま
じさの一端をのぞかせている。侍屋敷・町屋・百姓屋
の被害を見てみると、侍屋敷は五八軒の潰家・二〇一
軒の半潰、町屋は二〇軒潰れ、・四三〇軒破損、怪我人
が三人(男二人・女一人)、農民の家は潰家八二二軒・
半潰一四〇五軒とおびただしく、死者二三人(男一四
人・女九人)・怪我人一〇人(男五人・女五人)・斃馬
四疋といったありさまであった。
しかし、箱根宿詰尾張藩の七里飛脚の被害報告によ
れば、本家二二八〇軒の潰家(半潰も含めて)・土蔵破
損一二四八か所・死者一一九人(男五〇人・女六九人)・
怪我人七〇〇人(男四〇〇人・女三〇〇人)・死馬一〇
三疋となっており、小田原藩の被害報告とはかなりの
隔たりが見られる(前掲書『藤岡屋日記』第五巻 第
三九)。この理由として、藩の郡奉行である黒柳久兵衛
が二宮尊徳にあてた手紙のなかには「即死は貳拾三人、
斃馬四疋これあり、怪我人拾人程の届には候えども、
是れ以半死半生の者、其の外少々づつの怪我人は数多
御座あるべし」(『二宮尊徳全集 第9巻、以下『全集』
9等と略記する)と、藩の被害報告には半死半生の者
や少々の怪我人が数えられていなかったようである。
百姓屋・その他
百姓家弐千弐百弐拾九軒 内八百廿弐軒潰千四百五軒半潰
同土蔵五百拾九棟 内八十八棟潰四百三十壱棟半潰
同厩灰小屋物置とも弐千八十九軒内千弐百入十六軒潰八百三軒半潰
堰崩并破損千五百三十六ヶ所
水門并埋樋掛樋七十七ヶ所 内三十九ヶ所崩落三十八ヶ所破損
山崩三百四十一ヶ所
川除石倉長さ弐千四百八拾七間崩落破損
同土手長さ壱万弐千四百八十壱間余
内弐千七百六十三間崩落九千七百十八間余破損
同枠出シ七拾七ヶ所破損
同牛出シ弐百六十五ヶ所破損
同石瘤出シ四ヶ所破損
作道千六百弐拾八ヶ所崩落破損
石垣千六十ヶ所崩落破損
高札場三ヶ所破損
炭竃六十六ヶ所潰
田畑荒所御座候
怪我人拾人 内五人男五人女
死人弐拾三人 内拾四人男九人女
斃馬四疋
嘉永6年2月19日「小田原大地震御届書之写」(『海内地震録』国立国会図書館蔵)より作成
これらを含めると、小田原藩領における被害は尾張藩の
七里飛脚が述べている被害報告に近くなるかもしれな
い。
被災直後の村落の動向
領内の地震被害は相当深刻であった。小
田原藩士鵜沢作右衛門が二宮尊徳に送っ
た書状に「中筋村々の儀は、場所により余程地震強く、
中にも岩原、塚原辺、それより中沼村より和田(河)原
辺、竹松村など迄別て強く潰家おびただしく、目もあて
られず、其の上同地大荒の由、引き続き大川辺川除も大
痛みの由相聞こえ、さてさて困り入り候」(『全集』9)
と述べている。中筋の村むらは地震がよほど強かったら
しく、岩原・塚原・中沼村から和田河原・竹松村に至る
まで潰家がおびただしく目も当てられない状態であり、
[酒匂|さかわ]川の川除等も大破損で困り入っているとある。
被災した村むらは藩に検分願いを出すものの、なかな
か藩の役人が来ないのが現状であった。そのため、被害
が著しい和田河原組合は二月十二日、検分の早期実施を
求める願書を代官に提出している(『南足柄市史3』
No.96)。その内容は和田河原組合は地震により潰家・田
畑・堰・道橋の破損の見分を願い出て日々待っていたが
「いまた御見分成し下されず」、「小屋掛、雨露凌方致さ
せ置き、人気も取なため、今日迄漸く日を送」ってきた。
女・子供は泣き叫び、「小前一同の気配騒ぎ立て、此の上
如何様の義仕出し候哉も計り難し」といった不穏な空気
も流れていた。地震により「御田地・畔敷・堰筋・堤川
埋、壗崩、道橋其の外大破の手入れ、普請所如何仕るべ
き哉」と当惑し、このままでは「御百姓相続出来難く、
退転・亡所同様詰り、大切の御年貢御上納は勿論、御国
役迄も相勤めかね」としている。しかも「当筋金銀貸借・
融通更に御座なく、術計尽き果て申し候」と、金銀貸借・
融通のできる所もない状況であった。このため「何分自
力に及び難い」ので、「早々御見分願い上げ奉り候、猶其
の上追々御歎願申し上げ奉るべく候」と役人の見分を嘆
願している。
このような村落の嘆願に藩も治安維持などを危惧して
か、代官を派遣するようになる。和田河原組合に検分が
来たかどうかは史料上確認できないが、その隣にあたる
中沼組合には地震から一〇日後に、代官が検分に訪れて
いる(小沢清史「中沼村名主杉本田造父子の記録帳(二)」
『史談足柄』25 一九八七年)。それによると、「皆潰五
分潰壱軒につき、金壱分づつ下し置かれ候て、雨露の手
当に致すべく候様、仰せ聞けられ候」と述べ、雨露を凌
ぐ程度の手当として、皆潰・五分潰の者たちに限り、金
一分ずつが与えられた。また、二月十五日には[御伝馬替|こてんまかえ]
[地|ち]組合へ代官鵜沢勇之介・手代神田啓蔵が検分を行い、
そこでは困窮者への助力として、「皆潰・半潰の者共え金
壱分づつ、又は郷蔵御籾四斗入にて弐拾三俵の所御貸し
下し置かれ候」と村むらの潰家には金一分ずつの貸与と
郷蔵を解放している(『近世(2)』No.143)。
これらのことから、基本的には被害が著しい潰家・半
潰の者だけに代官は救済を行っているといえるが、それ
以外の被災者に対して、藩は二月十六日に「相互助合如
何様とも取り続き、他念なく農業相励み、少も早く安堵
の道に趣き候様第一の事に候」と、相互の助け合いでも
って自力で復旧するよう指示している(『全集』19)。残
念ながら、この文言からは藩側の積極的な救済姿勢を見
ることはできない。つまり、自力復旧の限界から検分を
嘆願しようとした先述の和田河原組合の主張と、自力で
の救済をめざすほかないという消極的な姿勢を基本にお
く藩側との間に見解の相違があり、具体的な救済への動
きは緩慢にならざるを得なかった。
藩の救済と村落の復興
地震が起きてから二一日後の二月二十二
日に、小田原藩主大久保忠愨が江戸から
帰城する。この後、藩主の巡見が行われたが、これに伴
い小田原藩はようやくいくつかの救済処置を講じていく
ことになる。まず、組合を媒介にして被災村むらに拝借
金三〇〇〇両を無利息一〇か年賦で貸しつけている。こ
れを受けて、府中通組合・曽我通組合・川通組合など酒
匂川沿いの組合は一二四七両二分を拝借している。表4
を見ると、東大友村・岸村・鬼柳村・桑原村は飢人率が
七割と高い。これらの村は[国府津|こうづ]・松田断層と酒匂川に
挟まれた地域の村むらであるため、地震の被害が集中し
たものと考えられる。藩の拝借金の貸与と藩主の巡見が
終わった頃、藩主忠愨は駿州・豆州・相州の領内村むら
に金五〇〇両を下付している(『全集』19)。藩が被災し
た地域に少分ながらも御仁恵金を分配したことは、以前
よりも積極的な救済とみることができるが、ここに「家
作手入などを始め、何事も実意を以て、互に助け合い農
業出精致し」としているように、あくまでも村内での自
力救済を基本としており、藩による村方への救済の考え
方は何も変わっていなかったことがわかる。
御仁恵金は三月中に組合を通して支給された。津久井
県一六か村では「組合村々一同相談の上、下され金の内
半高積金立て置き申し候、年柄宜しき筋加穀仕るべく候、
残半高の儀は今度軒別割り渡し申し候」(明治大学刑事博
物館所蔵 津久井町本田家文書)と、組合で相談した結
果、半分は備荒積み立てにまわし、残り半分は農民の手
元に渡ったようである。この措置は藩から命じられたも
のと推測でき、御仁恵金の一部を貯穀に廻し、きたるべ
き災害や危機に備えさせようという藩側の意図を見るこ
とができる。このほかにも小田原藩は被災地の救済とし
て梅干しの支給などを行っていたことがわかっている。
表4 拝借金表
村名
府中通組合
上大井村
下大井村
西大友村
東大友村
永塚村
延清村
千代村
高田村/別堀村
下堀村
中里村
矢作村
鴨宮村
上新田
中新田
下新田
曽我通組合
上曽我村
大沢村
岸村
谷津村
原村
別所村
田島村
川通組合
金子村若三郎組
金子村貞治組
鬼柳村
桑原村
神山村
西大井村
成田村
飯泉村
金手村
往還道組合
酒匂村
惣軒数(軒)
589
86
59
39
19
41
19
63
43/7
16
46
31
78
4
19
19
462
108
24
27
68
53
82
100
622
147
52
47
50
36
59
98
81
61
385
118
飢人軒数(軒)
127
47
8
16
14
24
記載無
18
記載無
記載無
記載無
記載無
記載無
記載無
記載無
記載無
179
40
16
19
22
27
15
40
188
88
24
38
38
記載無
記載無
記載無
記載無
記載無
記載無
飢人率(%)
55
14
41
74
59
29
37
67
70
32
51
18
40
59
46
81
76
拝借金
345両
80両3分
19両
18両3分
23両2分
52両
15両
40両2分
20両
5両
16両
8両
20両
1両2分
5両
8両
302両2分2朱
101両
18両2分
21両2分
40両
50両
25両
46両2分2朱
581両3分2朱
271両
112両3分
32両3分2朱
68両2分
8両2分
31両
25両
20両
12両1分
18両
5両
小田原藩では領内村むらに拝借
金や御仁恵金の支給を行ったが、
あくまでも村落の復興は自力救済
を原則としていた。そのため、下
吉田嶋村(開成町)名主井上六郎
右衛門が二宮尊徳にあてた手紙に
は、「御趣法相守り来り候につき、
村方一同手強く相談仕り、三日早
朝より早速諸色買入方手配、諸道
具など相調え、四日早朝より一同
にて木竹品相運び、五日より村方
四通に手分け致し、役人世話人家
数割合引き受け、普請家起し相始
め、日々出精仕り、同廿七日迄漸
く雨露凌迄一先有増に相成り」
(『全集』9)と、村内で一致団結
し、手際よく家々の普請を行った
と伝えている。このなかに、「役人
世話人家数割合引き受け」とある
ように、村落の復興には村役人・
世話人による助力が大きかった。
中沼村(南足柄市)名主杉本田造
も「兼て村為を存じ、非常備金自
力を以て積立て置き候金八百五拾両の内、三百五拾両難
渋人え相施し、其方居宅も住居相成りかね候程のところ、
打ち捨て置き、早速自分持林より竹木数多伐り出させ、
皆潰れの内弐拾軒余家建取り計らい、諸職人自分にて雇
い置き、大破の分迄家起しいたし遣し」(『南足柄市史2』
No.161)とあり、三五〇両に及ぶ難渋人への施行や、諸職
人を雇い潰家だけでなく大破の家まで修理していること
が知られ、村内の復興は中間支配層の助力がなければ成
り立たないものであった。また、下吉田嶋村名主井上六
郎右衛門・中沼村杉本田造とも報徳仕法の推進者であっ
たことから、かつての報徳仕法の推進者が中心になって
被害の復旧を行っていることは注目されよう。
村落における救済とは別に、藩は家臣にも救済を施し
ている。『吉岡由緒書』によれば、三月十三日には藩主の
御深察により金三〇〇疋を、三月二十九日には家中一同
に煎薬が給付されている(兵庫県川西市 吉岡偉皓氏所
蔵)。これは引き続き仮屋住まいの者が湿気の憂いで病気
にならないようにとの藩主からの配慮であった。さらに
由緒書を見ると、五月二十九日には「公儀より御拝借金
仰せ出され候間、右の内割合を以て、一同え拝借仰せ付
けられ候段、掛り以て仰せ出され候、高五百七十石より
三百石迄一金四両二分づつ、但し上納来る寅年より十か
年賦」とあるように公儀からの拝借金を五七〇石から三
鍛冶分
国府津村
惣〆
62
205
記載無
記載無
3両
10両
1247両2分
『資料編 近世(2)』No.149「嘉永六年三月朔日 地震荒ニ付村々難渋人御拝借書上帳」より作成
※惣軒数について
「別所村」、「金子村若三郎組」、「金子村貞治組」は、『小田原市史 史料編 近世Ⅲ』No.1(安政二年一
月「大久保加賀守之禄高明細書」)により、そのほかは『新編相模国風土記稿』による。
〇〇石取りの者が借りられるという条件付きながら、家
臣へ一〇か年賦で貸与していることがわかる。公儀御拝
借金は城内外の施設・侍屋敷・関所・街道等の損害を幕
府に提出することによって、幕府が金一万両を小田原藩
に貸与したというものであった(『藤岡屋日記』第五巻
第三九)。藩の家臣への対応は、領民に自力救済を説いて
いることと比べるとかなり手厚いものだったといえる。
結局、地震による小田原藩の損害は、小田原藩士豊田
正作の書状によれば、「御城所々大破、別て多聞櫓石垣、
住居向凡作料計りも壱万七八千も相懸り申すべく由に相
聞こえ候」(『全集』9)と、建造物だけの見積りで一万
七、八〇〇〇両も要したようである。藩にとって拝借金
だけでは賄えない多額な臨時出費になり、異国船の渡来
とともに大きな課題を抱えることになった。