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項目 内容
ID J3000787
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原〕
書名 〔山北町史 史料編 近世〕○神奈川県足柄上郡H15・3・29 山北町編・発行
本文
[未校訂]△▼嘉永六年(一八五三)二月二日 嘉永小田原大地
震が起こる 六月 ペリーが浦賀へ来航する
427 嘉永六年(一八五三)三月二十三日
地震による御仁恵金配布が通達される金壱両ト百八十二文□□
駿豆相 御領分役人共江
此間者稀成地震ニ付、先達而 御巡見被 遊候村々役人
共江者 御直ニ被 仰渡候通之儀ニ而、一同不一ト方
可致難渋潰家等之向者猶更、即死・怪我人等者別テ深御
隣察被遊、依之厚 思召之儀も被 遊御座候得共、
此節柄不被為届、乍去兼而 御心掛遊被置候
御手元金之内、駿豆相御領分村々役人江金五百両被下
置、誠ニ少分ニテ 御寸志迄之儀与呉々茂被 仰出、
誠ニ以御仁恵之儀於御役所ニ茂難有儀ニ付、村役人共者
勿論小前末々ニ至迄不洩様申聞置、冥加至極之儀与難有
相心得、家作手入等ヲ始何事茂実意ヲ以互助合農業出精
いたし、質素倹約ヲ相用永続之道ヲ心掛ケ 御安堵之
端をも相成候様可申候、且遠村之儀者御厭ニて 御巡
見先江別段御呼出し不被為在候旨同様厚可申聞旨御
沙汰ニ付、其旨相心得、小前末々迄不洩様可申聞候
右於地方白渕
丑ノ三月廿三日
嘉永六癸丑年
按于 壱軒五匁ヅツ割合
是ハ家潰小屋崩ニ罷在しつけヲうけす候様ニ被下
候事
(神縄 山崎佐俊家文書)
嘉永六年二月二日午前十時頃起きた小田原地震は、
マグニチュード六・五と推定され、藩領域に家屋の
倒壊や即死人・けが人が多数出るなど大きな被害が
生じた。藩では、被害状況を報告させるとともに、
藩主による領内巡見を実施し被害の詳細を知り、被
害民への見舞金、米・穀物の支給などの非常時救済
手段とともに、郷倉にある種籾や藩主御手元金の貸
与など復旧に向けての手段を講じている。本史料は、
地方役所から各村むらへ藩主お手元金五百両を下賜
することを伝えたものである。
藩ではさらに、復旧資金として幕府に公金一万両の
拝借を願出て許されている。
428 嘉永六年(一八五三)四月
神縄村が地震による御仁恵金を受取る
奉差上候請書之事
一御仁恵金 弐両弐朱ト銭五百六文 皆瀬川村
一同 金 弐分弐朱ト百三拾八文 都夫良野村
一同 金 弐分四百七拾七文 湯触分村
一同 金 弐両壱分弐朱ト弐百八十二文川西村
一同 金 壱両ト百八十九文 神縄村
一同 壱両弐朱ト三百十二文 世附村
一同 壱両弐分五十七文 中川村
一同 弐分弐朱ト四百四十五文 玄倉村
一同 金 壱分弐朱ト六百六十四文 山市ば村

右者当二月稀成地震ニ付き 御殿様下々之儀深被為
遊御隣察、難渋人為御救村方一同へ御仁恵金被下
置、誠ニ以冥加至極難有仕合奉存候、右ニ付村役人・小
前一同相談之上割賦頂戴仕、右之内少々ヅヽも相省置、
子々孫々ニ至迄、御高恩忘却不仕候様備置、年々出来秋
作り初穂相加江永く村囲ニ相備置度奉存候、且亦 御
廻村先ニ而 御意被成下置候御主意逸々難有奉畏候、
家業出精仕候儀ハ不及申上、諸事相慎実意ヲ以村内相
続方専一ニ可仕也、右御金頂戴御受書奉差上候様仍而
如件
嘉永六年癸丑年四月
神縄村
名主佐次平
与頭慎右衛門
同徳右衛門
同宗右衛門
百姓代忠右衛門
地方
御役所様
(神縄 山崎佐俊家文書)
西山家組合村むらに支給された藩主お手元金の請書
である。〆額は記載されていないが、約二十二両で
ある。これを各村では、村民相談の上で「割賦頂戴」
となる。その金額を村の概要帳などに記された家数
の平均で割り、各村一軒ごとの受取金額にしてみる
と、皆瀬川村では平均的家数九十軒として約百五十
九文、都夫良野村(家数二十五)は約二百文、湯触
村(家数二十五)は約百四十九文、川西村(家数百
十)約百五十七文、神縄村(家数四十)約百六十七
文余、世附村(家数五十)約百五十三文、中川村(家
数七十)約百四十文、玄倉村(家数三十)約百五十
文、山市場村(家数二十)約百五十五文とわずかな
金額となってしまう。
429 嘉永六年(一八五三)七月
神縄村が幕府より拝借金を受ける
「(表紙・竪冊)嘉永六癸丑年
御公義様御拝借金之内弐千両口
就地震無利足拾ヶ年賦御拝借金証文
七月
西山家組合 」

一金七両三歩弐朱 皆瀬川村
一金弐両八歩弐朱 都夫良野村
一金弐両弐歩弐朱 湯触分村
一金九両三歩弐朱 川西村
一金弐両壱歩 山市場村
一金四両 神縄村
一金七両三歩弐朱 中川村
一金弐両壱歩 玄倉村
一金拾両弐歩弐朱 世附村
此内五両白井平焼拝借
〆金五拾両也
此納
来ル寅年ゟ亥年迄拾ヶ賦金五両宛
右者当二月就地震従 御公儀様御拝借金被為
蒙 仰候ニ付、右御金之内御割合ヲ以当村々極難之者と
もへ、無利足拾ヶ年賦御拝借被 仰付冥加至極難有
奉請取候処実正ニ御座候、御返上納儀ハ、前書御年割之
通聊無滞毎暮急度御上納可仕候、為後日仍而如件
右村々
嘉永六癸丑年七月 名主
組頭
百姓代
谷川六三郎様
鈴木市次郎様
牧野又兵衛様
右者七月廿四日御差紙ニ付、川西村名主徳左衛門・神縄村
名主佐治兵衛組合惣代ニ而両人被召出、右金子御貸渡
被遊候、東山家組合同道ニ而、右組合ハ金子弐拾三両也、
八月朔日、佐治兵衛宅ニ而組合九ヶ村出会割合、小田原竹
本町米や源左衛門儀、組合村宿ニ付、金三両地震見舞右金
子ニ而遣ス、先達而御手元金も被下置、又々御拝借被成
下置難有事ニ候、地震儀ハ二月二日巳ノ下刻
地頭大久保加賀守様
幼名仙丸様ト云
嘉永六癸丑年八月郡奉行井沢佐左衛門様
同竹内藤左衛門様
同黒柳久兵衛様
神縄村
名主佐治兵衛写之もの也
(神縄 山崎佐俊家文書)
東山家組合・西山家組合など各筋組合を通して、幕
府より一万両の拝借金が与えられた。本史料は西山
家組合のものであり、『小田原市史史料編近世Ⅲ藩領2』
には東山家組合のものがある。ともに、「御公儀様御
拝借金之内弐千両口」とあり、〆金額が東山家組合
では二十三両、西山家組合では五十両となっている。
年賦返済も、東山家組合は十か年で、二両一分永五
拾文ずつであるが、西山家組合では、五両ずつであ
る。本史料最後の所に、神縄村名主佐次兵衛が記し
たのであろうか、七月二十四日、川西村名主徳左衛
門と佐次兵衛が惣代となって、東山家組合のものと
同道して、役所にて金子を拝領したこと。八月一日、
左次兵衛宅で西山家組合九か村の金子割をし、小田
原竹本町組合宿米屋源左衛門に三両の見舞金を出し
たことが書かれている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 510
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 山北【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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